クレヨンには、何でたくさん色があるのか不思議だった。俺にはたった一色で十分だったのに。
「あらぁ、皆良く描けてるわねぇ!先生にも見せて?あら?」
俺の描いた絵を覗き込んできたセンセイが言う。このセンセイはいつも匂いがきつくて俺は苦手だった。
「ねぇ緋色くん、折角こんなに上手に描けてるんだから、もっとたくさん違う色も使ってみない?きっともっと素敵な絵になると思うわ」
そう言ってカラフルな色が並ぶクレヨンの箱をずいっと俺の目の前に差し出す。この中のどれか一本を取って使え、ということだろうか。
俺が今手に握っている色以外の、どれか別の一色を。
差し出された小さな箱をじいっと見つめたまま俺が動かないでいると、センセイはふうっと溜め息を吐いて俺の手元から画用紙を奪い取った。
「緋色くんは本当に絵が上手ね。ほら、ここのお花なんか、ピンク色にしたらどうかしら?」
ふるふると首を振ると、それでもセンセイは言う。
「でも、こんな色のお花なんて変じゃなあい?草だってこっちの方が、」
「きれいだから」
「え?」
「このままできれいだから。いいの」
「…そう。そうね、ゴメンね、邪魔しちゃって」
何で、世界にはたくさん色があるんだろう。
俺にはたったひとつで十分なのに、何で色んな色を使わないといけないんだろう。
「ひいろ?」
俺がムスッとした顔をしていたから心配したのだろうか。癖のある黒髪をふわふわ揺らしながら、彼が恐る恐る声を掛けてきた。
「…こん」
「絵、きれいだね」
「うん。ありがと」
「お外で遊ぼう?あったかいよ」
「うん」
世界で一番。いや、比べる対象がそもそも居ないから世界でたったひとつ。
そのたったひとつ俺の世界を彩る瞳が、真っ直ぐに俺を見る。
きらきらしてて、まほうみたい。
幼い俺が抱いた感想は、最初はそんなものだった。
彼の子供らしい柔らかな手に連れられて、俺は陽の光の下へ出た。
あったかい。すごく、あったかくて気持ち良い。
あぁ、俺にはこの一色だけで十分なんだ。
「…紺」
ただ、名前を呼んだ。
深い海の底で、水面を見上げたような。
息苦しい暗闇でもがくおれに、光が手を差し伸べてくれたような。
それは救いのようで、けれど一種の呪いにも思えて。
小さく口を開けてもう一度、きみの名前を呼ぶ。
それだけでこの世界に居ることが赦された気分になる。やっぱりあいつは魔法使いなのかも知れないなぁ。
そしてその魔法使いは今もきっと、壁ひとつ隔てた部屋で眠っているんだろう。今日は、うなされていないといいな。
ただ彼が、気持ち良い布団でぐっすり眠れているといいな。
美味しいご飯を毎日食べてくれるといい。
学校で嫌なことなんて無ければいいし、小さなことでも笑っていてくれたらいい。
それでも泣きたい時は来るかも知れないから、その時は遠慮せずに泣ける場所があるといいな。
あぁ。でもやっぱり、いつも笑ってて欲しいな。あの魔法みたいな瞳を細めて、楽しそうに唇が緩く弧を描いて。
…あの笑顔を、魔法を、俺以外の誰かに見せる時が来るのかな。
それはすごく………すごく嫌だな。
そんな風に考える自分が、嫌だな。
「紺」
もう一度名前を呼ぶ。自分の耳にも届くかどうかの音。それなのに彼がこの声を聞きつけて、この部屋にやってきてくれないかな、なんて。
壁から視線を動かして、カーテンの隙間からちらりと外を見る。
夜明け前の空。真っ暗な闇のような空。
だけどこんな深い夜が、俺は好きだ。
世界がきみの色だけに染められているこの時間は、静かで穏やかで、まるできみのようで、どうしようもなく愛おしい。
このままきみの色に包まれていたい。
この深い夜の色を見る度に、朝なんて来なければいいのにと何度も思う。けれど早く朝になって、本物のきみの色が見たいとも思う。
「おはよう」って言って欲しい。
それから「おやすみ」まで、ずっと一緒に居て欲しい。
あぁ、あの日描いた絵のようだ。
欲を言ってもいいのなら、そこにもう一色だけ足してもいいだろうか。
綺麗な綺麗なきみの色の隣に、俺のくすんだ色を一滴垂らしてもきみのその魔法は力を失わずに輝き続けてくれるだろうか。
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