今日はやけに静かだなぁ。
俺は呑気にそんな事を思いながら靴を履き替え、教室に向かった。教室へ続く廊下の端々で何故だか落ち込んだような顔をした女子とたくさんすれ違ったのだが、その原因は教室に着くと明らかになった。
「え、休み?藤倉が?」
「お前何も聞いてねぇの?朝から女子が大騒ぎだよ」
通りで朝からやたら静かな訳だ。いや、流石にあいつが居ないことに気付いてない訳じゃあなかったけれど、まさか学校自体を休んでいたとは。
休み。あいつが。珍しい…というか、初めてかも知れない。風邪かなんかかな。連絡、してみようか。
「っていうか、何で休みなの?」
「澤何も聞いてねぇのか?お前が知らないなら誰も分かんねぇよ」
「え、そうなの?」
どうやら誰も藤倉が休んでいる理由は知らないらしい。先生にも何の連絡も来てないって言ってたし、どうやら無断で休んでるようだ。何かあったのかな。
「だ、い、じょうぶ、か…と」
トトトッ、と軽くメッセージを打ってスマホをポケットにしまう。朝礼の中先生に見つからないように、そっと机の下でただ光る四角い画面を見つめていた。
おっかしいなぁ…。いつもなら秒で既読が付くのに。やっぱ具合悪くて寝てんのかなぁ。心配だから、帰りに見舞いでも行ってやろうかな。
その日、結局メッセージに既読が付くことは無くて、自分でも心配し過ぎかとは思いつつも一駅先の藤倉の家まで見舞いに行ってみた。しかし家には誰も居ないのかいくら待ってもインターフォンには何の応答も無く、俺は結局諦めて帰ったのだった。
その翌日も、翌々日も。あいつは今日も、隣に居ない。
連絡にも出ないで何やってんだ全く…。まだたったの三日しか経っていないのに最早心配を通り越して苛立ちが顔を出し始めた。
だって思い返せば高校に入ってからずっとあのヘラヘラした顔が隣にあったから…。
だからちょっと調子が狂うだけだ。
そうだよ、それだけだ。…ってまだたったの三日じゃんか。
っていうかせめて連絡だけでも返して欲しい。何かあったのかとか色々心配しちゃうだろうがあんの馬鹿。
…もし逆の立場だったら絶対しつこく連絡してくる癖に。
「おい澤、澤ぁー?考え事してるとこ悪ぃんだけど」
「なに」
「あれ、バスケ部の人じゃね?ほらドアんとこ」
昼休み。苛立ちやら心配やらでぐるぐる思考が纏まらず机に突っ伏していた俺の肩を友人が遠慮がちに叩く。友人に言われて振り返ると、教室の扉から半分だけ顔を出すようにして背の高い黒髪の先輩が俺を見ていることに気付いた。あれは確かにバスケ部の新井部長だ。
先輩は教室の外から俺をちょいちょいと手招きすると、そのまま人気の無い廊下まで連れて行った。
授業が始まる少し前の時間。辺りはしんと静まって、上履き越しにも廊下の冷たさが伝わるようだった。
何の話だろう。こないだの怪我のことならもうすっかり大丈夫なんだけど、そのことかな。
それともこんな人気の無い廊下にわざわざ連れて来たってことは人に聞かれたくない話題なのだろうか。あぁそう言えば、あの時迷惑をかけてしまったこと、まだきちんと謝れていなかったかもしれない。
練習試合だったとは言え、俺の件で試合が中断になってしまったんだもんな…。
少しの罪悪感とともに先輩の顔を仰ぎ見ると、先輩は少し眉間に皺を寄せていた。これは…やはり重要な話なのだろうか。
「先輩どうしたんですか?わざわざ二年の教室まで来るなんて」
「あーまぁ、ちょっとな。とりあえず怪我の具合はどうだ?」
「え、あぁ、もう全然大丈夫ッス。すいません、あの時は…折角の試合だったのに」
優しい先輩はやっぱり真っ先に俺の怪我の具合を心配してくれた。もしかしたら部長である自分の所為でもあると、責任を感じてしまっているのかも知れない。
けれど先輩は心配そうな面持ちから直ぐに真剣な顔付きに戻って、眉間の皺を濃くして怒りを露にした。
「いや、お前が謝ることなんて何も無い。今回の事は全面的に向こうの過失だからな。…とは言え、守り切れなくてすまなかった、澤」
「そんな!先輩の方こそ謝ることなんて無いじゃないですか」
「元々お前に試合に出るよう頼んだのは俺だからな。まぁ、大丈夫ならいいんだ」
やっぱり責任を感じていたのか…。ふうっと短い溜め息を吐いた先輩は、瞬きをしてまた俺に向き直った。
どうやらこの先輩の様子を見るに、本題は別にあるらしい。やっぱり。怪我の心配だけならわざわざこんな静かな場所まで連れて来ないだろう。
「ありがとうございます…。それでその、話って?」
「あぁ、その先週お前にボールをぶつけたバスケ部の部員のことなんだが…」
「え、何すか」
あいつか…。顔も名前も覚えていないが、俺にわざとボールをぶつけて試合から無理矢理退場させてきた奴。そいつがどうかしたのだろうか。
「それがさ…そいつ、誰かに顔を殴られたらしいんだ。一応病院で検査して、鼻の骨は折れて無かったらしいんだが…その…」
どこか言いにくそうに口をもごもごさせる先輩が焦れったくて、俺は先を促した。
「何ですか」
「それが、犯人ははっきりとは分からないけどうちの制服を着てたって…証言しているらしい」
「は…?そいつの学校じゃなくて、うちの生徒が?」
先輩は静かにこくりと頷いた。
何でそんな話が…。いや、鼻を殴られたってんなら正面から相手の顔を見てる筈だよな。なのに何で制服しか分かんなかったんだ?初対面の相手だったってことか?というか本当に、うちの生徒がやったのか?内輪揉めじゃなくて?
一応うちの学校は進学校…って程でも無いけど喧嘩なんてするような生徒はいない筈なんだけど…。少なくとも俺の知る範囲では。
「澤。まだ続きがあるんだが、落ち着いて聞いて欲しい」
「………はい?」
どうやら先輩の話を要約すると、俺にボールをぶつけてきたバスケ部員は、俺の学校の制服を着た背の低い黒髪短髪の生徒にやられたと証言しているらしい。それも殴った瞬間秒で走り去ったすばしっこいチビだったと。
何処の猿だよ、と思ったが多分そいつは俺にやられたってことにしたかったんだろうなぁ。名前まで言うと逆に怪しまれるから出来るだけ事細かに俺の外見を証言したって訳か…。ってか黒髪短髪で背が高くないとか我ながら特徴が薄すぎる。そんな生徒幾らでもいるぞ、阿呆なのかそいつは?
だから一応すばしっこいっていう特徴付け加えたのかな。いや、だから何なんだ。
しかしもしそうなら全部俺にボールをぶつけてきた…もう面倒臭ぇからボール野郎でいいや。そのボール野郎の自作自演ってことになるのでは…俺何もやってないし寧ろやられた側じゃん。と思ったのだが、話はそこで終わらなかった。
何とボール野郎の通う学校の生徒に、本当にボール野郎とうちの生徒が体育館裏で二人でいる場面を目撃した者がいるというのだ。その目撃者もバスケ部員ならバスケ部総出での自作自演ではないかと思えるのだが、第三者はどうやらバスケ部とは一切関係の無い文化部の女子生徒らしい。
そしてその第三者の目撃証言によるとボール野郎に掴みかかっていた生徒は確かに俺達と同じ学校の制服を着ていたという。
しかし第三者が目撃した生徒は背が高く、髪色も真っ黒ではなく明るめで、短髪というには少し長い癖っ毛だったと言うのだ。これはボールクソ野郎の証言と正反対の特徴だった。ゴメンちょっと本音出ちゃった。
それにしても何てこった。訳が分からん。
っていうかその風貌ってまるで…。
ある人物の姿が脳裏に浮かんだ瞬間、先輩の次の言葉で身体の中心がどくんと嫌な跳ね方をした。
「これはまだ公にはなっていないが、この学校で『自分がやった』と名乗り出た者がいる」
「先輩、それってまさか…」
「まだ何も裏が取れていないしその生徒も普段優秀だからなぁ…学校側は止めたらしいんだが、その生徒は今自主的に休学している。…休学と言っても一時的なものだとは思うが」
「きゅう、がく…?」
「とにかくこの件に関しては学校側も調査してるし、俺も出来る限り調べるから。澤」
「あ、はい」
「きっと大丈夫だ。だからそんな顔するな。信じてやれ」
「…はい」
あぁ、先輩はやっぱり何もかも分かってるんだな。ふっと穏やかに、安心させるように目を細めた先輩が、くしゃりと俺の頭を撫でる。あの手とはまた違う温度だ。
脳裏に浮かんだたったひとりが、振り返ってふっと微笑む。なぁ、まさかお前が学校に来ていないのって…。
『大丈夫だ』と、そう言われても。どうしても嫌な予感が拭えなくて、いつもならすぐに既読がつく筈のメッセージ画面を何度も見返した。やっぱり何度電話しても出ないし、メッセージも見てすらいない。
先輩の話を聞いてから余計に頭の中がごちゃごちゃする。思考が追い付かない。感情も、色んな所から渦みたいにたくさん押し寄せてきて流されてしまいそうだよ。
なぁ、俺の手を掴んで。
ここから引っ張り上げてよ。
「どうしたの」って、「もう大丈夫だよ」っていつもの顔でヘラヘラ笑いかけて。馬鹿みたいな話をして、こんな不安なんか全部全部消し去ってくれ。それが出来るの、お前だけなんだよ。なのに。
お前は学校にも来ないで、一体何してるんだ?
今どんな気持ちで、どこに居るんだ…?
結局次の日もその次の日も、藤倉が学校に来ることは無かった。
prev / next