その日はとても暑い日だった。
降り頻る大粒の雨の中、僕は傘も差さずにぴちゃぴちゃと革靴を濡らして家路をゆっくりと急ぐ。
遠く頭上に煌めく星々は、眩い程に足元を照らしていた。
「しっちゃかめっちゃかですねぇ」
穏やかに、誰かが嗤う。
何故だか酷く喉が渇く。鞄の中に飲みかけのお茶があった気がするが、今の僕には取り出す余裕も無い。
強い日差しを避けて、出来るだけ日陰を選んで歩く。真っ青な空に落ちてしまわないように、電信柱に掴まりながら。
いつの間にやら雨粒は上へ。
僕の足元から舞い上がる様にして固いアスファルトに打ち付けるのだった。
宇宙へ出たことはないけれど、スローモーションで浮かぶ光の粒子はまるで足元に輝く星々の様で、僕は宇宙にいるのだと錯覚させられる。
「ある種の宇宙ですよ」
同じ声が可笑しそうに囁いた。
おや、いけない。
誰かにぶつかりそうになって、僕は咄嗟に頭を下げた。黒い影は気にもしないで通り去る。…まぁ、いいか。
そうこうしているうちに、革靴の下でオーロラが輝き出した。奴等は足の隙間からちらちらとこちらを覗いては、カラフルな光を投げかけてくる。
さて、ここまで記したところでアナタに僕の状況が解るだろうか。
「解らなくて結構ですよ」
心地好い声がまた響く。
しかして彼の云うことは正解だ。この世界に踏み入った瞬間からアナタは僕に成ろうとするけれど、アナタが僕に成り代われるのはほんの数秒、永くてほんの数分だけ。
この文字と呼ばれる記号の羅列を、その目で、耳で追っているほんの一刻だけ。
「そろそろ帰りましょうか」
低い声が穏やかに促す。
僕はその声に従って、電信柱から手を離した。冷たくてざらついた感触が、心地好かったのになぁ。
「それは困りますね。ほぅら、こっちの感触の方がずっと気持ち良いでしょう?」
僕は迷わず月のような彼に手を伸ばす。
足元にはすっかり濡れた固いコンクリート。空には満天の星空と、ふわりと髪を擽る夜の風。
腰に緩く回された腕は、細いのにしっかり僕を支えて優しく歩を促す。
上から下へ。下から上へ。
そうして今度は、僕の鼓膜の斜め上から。
「さて、帰りましょうか」
どんな高級なベッドよりもきっと心地好いその声に誘われて、今日も僕はゆっくりと家路を急いだ。
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