きみが好きだと言った花の名前を、今でも覚えている。
『お前が好きな花の名前なんて、もう忘れてしまった』
きみが美味しそうに食べていたあの店のクリームパンは、いつ行っても売り切れている。
『あの店のクリームパンに似たようなものなら、駅前のパン屋にも売っていた』
一緒に買い物袋を提げて歩いた道には、所々に新しいアスファルトが出来て一色じゃなくなった。
『でこぼこしてたあの感じが悪くなかったなんて、変なことだけは覚えてる』
趣があるってきみが嬉しそうに写真を撮っていた路地は、マンションが建って陽が差さなくなってしまった。
『おれはそれを見て、少しざまあみろなんて思った』
都会は星が見えないねなんて俺が言ったもんだからきみがおもちゃのプラネタリウムを買ってきたね。あれはまだ、クローゼットの隅で眠ったままだ。
だって。
『都会は星が見えないなんて常套句、本当に星が見たいやつが言う台詞じゃないだろって今になって思う。だって』
都会だって田舎ほどではないけれど、見ようとすれば星のひとつやふたつ、見上げれば僕らに気付いて欲しそうに輝いているんだから。
『ちょっと外に出て散歩でもすれば、街灯の少ないところなら少しは見えるだろう』
だけど部屋で見る満天の星空も、外で見るぽつりぽつりとした輝きも、こんなに寂しいものだったかな。
『だけどお前はそそっかしいから、出来れば夜中に出歩くのは控えて欲しい。心配するこっちの身にもなってくれ』
夜風が吹いた。背中を押して、すうっと夜闇に流れていく。その姿を、俺は見たいと思った。
『虚弱なくせに、風邪でも引いたらどうするんだ。早く家に帰れよ』
あの風について行ったら、またきみは俺の前に現れてくれるのだろうか。
『あの風はもう別の街に流れていってしまったから、お前の遅い足で追い付くのは無理だよ』
じゃあ俺はどうすればいいの。どうすればよかったの。どうすれば、ずっと隣に居てくれた?
『どうもしなくて良かった。そのままのお前で居てくれれば。あわよくば、笑ってくれていれば』
無理だって言ったら?きみ無しじゃあ、泣くことも笑うこともオリンピックで金メダルを取ることくらい難しいんだよ。
『変な例えすんなよ、笑っちまうだろ。嗚呼、でもおれも、』
「やっぱりお前の隣じゃないと笑えないや」
「…っ?!うそ…な、んで」
「何でだと思う?」
「俺が、会いたいって願ったから…?」
「ざんねーん、不正解。おれが、会いたかったから」
「ふ、あははっ…、うっ」
「泣くか笑うかどっちかにしろ。不細工になってんぞ」
「きみもね」
ぼやける視界の中で見上げたきみの瞳はやっぱりあの日と同じ色に光っていて、けれど会えなかった時間のせいかあの日よりも暖かく感じた。
嗚呼、こんなに綺麗な星がずっと隣にあるのなら、プラネタリウムも夜中の散歩も必要無かったな。
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