「ひ、緋色?お前何か変だよ…?」
「そうかな」
学校から帰ってから食事を終えた今まで、緋色はずっと無口だった。口数の少なさならいつも通りと言えばいつも通りではあったけれど、その様子はやっぱり何処か暗く、ずっと何かを考え込んでいるようだった。
今朝あんな事があったから、その事でまた何か言われたりしたのかな。僕の所為で緋色が嫌な目に遭ってたらと思うと、それだけで胸が苦しくなる。何か無いだろうか。こんな僕にも出来ること…。
「緋色、あの…やっぱり今日のこと?ゴメンね、僕のせいで」
「…紺のせいじゃない」
「でも、」
「嬉しかった?桃谷に告白されて」
全く違う話題に変えられて、話を逸らされたのだと思った。だけど正直、緋色の様子の方が心配で桃谷くんに告白されたことなんて言われるまですっかり忘れていた。
そうだ、確か僕告白…されたんだっけ。好きだって、言われたんだっけ…。
「え、嬉しい…?そりゃあ、そんなこと言われたの初めてだからまだ信じられないけど…」
「…そう」
「告白…については何で僕なんか好きなのかまだ納得出来ないし全然実感湧かないけど、でも、素直に話してくれたのは…嬉しかった…かな」
そうだ。桃谷くんはきっとまた僕に拒絶されるのを覚悟で真っ直ぐ向き合ってくれたんだ。そうして自分のことを、思っていることを全て素直に話してくれたんだ。人生で初めて告白されたとかそんなことよりも、そっちの方が僕は嬉しかった。
告白…については何で僕なんかという気持ちの方が強過ぎて、未だに実感が湧かないから嬉しいかどうかも良く分からないというのが正直なところだ。「真っ直ぐなところ」って…どういう事なんだろう。
「気持ち悪くないの?」
「へ?きもち、わるい…?」
予想外の言葉だった。緋色の無表情は、今日はいつも以上に感情を隠してしまっているようだ。
「あいつにされたこと忘れた?」
「忘れたわけじゃあ無いけど…」
「紺はあいつとキス出来るの?それともあの時されたかった?」
「え、何言って…されたかったら叫んだりしないよ?…緋色?やっぱり今日何か、」
おかしい。
あぁ、似たような彼を一度見たことがある。確か立花先輩と廊下で話していた時のような、少し虚ろなあの瞳だ。
それ程大きくも無いソファの上でじりじりとにじり寄って来た緋色が、ゆっくり僕へと手を伸ばした。安い作りのソファが彼が動くたびにぎしりぎしりと鈍い音を立てる。
少し骨張った長い指が僕の横髪を梳いた。そのまま後頭部に手が回されて、くいと顔が近付けられる。近過ぎる距離じゃ見慣れた端正な顔がぼやけて、彼がどんな表情をしているのか分からなくて。何故だかそれがどうしようもなくもどかしい。
「あいつはお前と、こういうことしたいんだよ」
「ひ、ひいろ?何を、んっ?!」
ぼんやりそんなことを考えていると、唇に柔らかくカサついた何かが触れた。それは一瞬で離されて、だけど直ぐにまた近付いてくる。
「こういうこと、あいつと出来るの?」
啄むような軽いキスの後、息がかかる程の距離で低い声が問う。その音は何とか形を成して言葉の意味が分かったけれど、同時に甘く熱く脳内に響き渡って僕の身体を痺れさせた。
彼の問いには、言葉だけを返すので精一杯で…。
「そんなの分かんな、んぅっ」
震える口を開いて答えると、途中でまた口付けられた。今度は中に、熱く湿ったものが割り入ってくる。最初は少し遠慮がちに、けれど段々と確かな熱を持って僕の舌を絡め取った。
「だめ…だめだよ」
「あ、まっ、んんっ…」
「ぜったい…ん、だめだよ…」
「ふぁっ、あ、んぅ…」
深く口付けながらも、緋色が何か言ってる…。酸欠でぼうっとしてきた頭ではよく分からなかったけれど、「なかないで」って言ってあげたかった。何故だか分からないけれど、涙も流していないその瞳は今きっとすごく悲しい色をしているように思えたから。
それでも角度を変えて何度も重ねられる口からは情けない声しか漏れてこない。音を、形にして紡げない。言葉にして、彼に届けられない。
どれだけ時間が経ったのだろうか。僕の目は生理的な涙で滲んで、漸く顔が離されてもそれがどんな表情をしているのかやっぱり見えなかった。僕は慣れないことで荒くなってしまった息を整えるので精一杯で、彼の名を呼ぶことすらままならない。
「…いで」
「は、はぁ…、は、…?」
ぱちりと一度瞬きをして視界がクリアになると、目の前に彼の顔は無かった。その代わり思い切り腕の中に閉じ込められて、痛いほどに背中も頭も掻き抱かれる。ただ僕の目からつうっと流れる透明な滴が、緋色のグレーの部屋着に染み込んでいった。
「だれのものにもならないで…」
「ひいろ…?」
耳元に落ちた確かな音。やっと聞き取れた彼の言葉。
その意味を考えるより先に腕が動いて、そっと彼の背に回し返す。
僕より少し大きな身体が、いつもは背筋の伸びたしゃんとした背中が、今は僕の腕の中で少し震えて頼り無げに思えた。
『ならないよ』
その言葉の羅列が一瞬脳裏に浮かんで、僕の意識と共にすぐに消えてしまう。ただ眠りにつくその瞬間、僕は無意識に緋色の部屋着を掴む手に少しだけ力を込めたのだった。
「おれも結局、あいつと同じだな…」
いや、あいつなんて比にならない程、おれは醜い。どうしようもなく固執して、どんな汚い手を使ってでもきっと手離せないだろう。ごめん。ごめんね。
「それでも」
腕の中で寝落ちた身体をゆっくり持ち上げて、彼の部屋まで運んだ。ベッドにそろりと下ろして布団を掛け、そうしてもう一度、上から緩く抱き締める。さっきまで好きにしてしまった柔い唇を指でつうっとなぞってから、どうしようもない化け物だと自嘲した。
それでも、赦される限りは傍に居たい。居たいんだよ。自分勝手で本当にごめんね、紺。
お前は優し過ぎるから、こんなおれのこともきっと赦してしまう。全部自分の所為だと背負い込んで、それでもおれすら守ろうと一人で足掻いてしまうんだろう。おれはそんなお前の強さと優しさに付け込んで、ただ赦された気でいるだけだ。
ただ、甘えているだけだ。
お前はきっと自分のことを弱いと思っているんだろうけど、おれはお前ほど強くて格好良い奴を知らない。だからどうしようもなく、もどかしいんだ。お前自身にも、知って欲しいんだ。
閉じたままの目元を優しくなぞって、声にもならない声で懇願した。
ねぇ、お願いだから。
…傍に居たくて、堪らないんだ。
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