夢の中の話をしよう。
空は雲一つなくどこまでもどこまでも晴れ渡り、まるで邪魔なものを一切排除したみたいな青空。
地面にはガラスの花が咲き乱れ、風が吹く度にカチリコチリとぶつかっては互いに傷つけあっている。花がぶつかり合ったところからはガラスの欠片が散らばって、きらきらと反射しながら風に舞って消えていた。
俺はそんな馬鹿みたいな光景をぼうっと見つめながら裸足で冷たいアスファルトの地面に立っていた。背後から風が吹き抜け、何も身に付けていない足がすーすーする。
「…っ………っ!」
何だろ。何だか遠くで声がする。
俺がちゃんと聞き取ろうと耳をすませると声の通り道をあけるように急に風が止んだ。
あぁ、行かなきゃ。
あの声は、俺を呼んでいる。
何度も何度も、俺の名を叫んでいる。
行かなきゃ。いや、行きたい。
その懐かしく暖かい声の主の元へ、一刻も早く行かなければ。
そう思って足を踏み出すけれど足元にはガラスの花畑。アスファルトの地面は俺が立っているほんの少しのところだけ。
構うものか。
足を守るものは何も無いけれど、気にせず一歩踏み出した。声のする方へ、身体が心が行きたがっている。
一歩、また一歩と進む度、踏み砕いたガラスの花が粉々になって俺の無防備な足を切り裂いた。痛い、気がする。
けれど大したことじゃない。
だって会いたいんだ。
声が、消える前に。
傷つく足など気にも留めず進み続けていると、俺の血を吸ったガラスの花が段々と赤く色づいていく。ぶわっと背後から一際強い風が吹き抜けて、ガラスの花が一斉に真っ赤なアネモネになった。
赤い花びらが舞い踊り、俺を声のする方へと誘導する。風の抜けた先に、探し求めていた姿がぼやけて見えた。
…いた。やっと見つけた。
すると途端に、足が動かなくなった。
さっきガラスで切った傷跡は綺麗さっぱり消えているのに、痛くも痒くもないのに動けない。
この姿じゃ駄目だ、と誰かが言う。
声のない声が告げる。
駄目だ。このままじゃ彼に辿り着けないのだ、と。
どういうことかよく分からなかったが、彼に会えるのならば何でもいい。
変えてくれ。駄目じゃない姿に。
俺が願うと足元からふわりと真っ赤な花びらが舞い上がり、折角見えかけていた彼の姿を遮った。
強烈な甘ったるい匂いが立ち込めて思わず鼻を押さえ、目を瞑る。
風が止んでそっと瞼を開くと、彼の姿が見当たらない。慌てて辺りを見渡すが、動くと何やら変な感じがした。胸の辺りに重さを感じて見ると、丸く二つに膨らんでいる。急に太ったのかと思ったが寧ろ腕や足は細くなり、心なしか身長も小さくなっていた。
「…え?」
聞き慣れない高い声が出てどうしたのかと喉元に手をやると、つるりとしている。喉仏がない。それらしいものはあるが、俺の知る大きさよりも随分小さく心許ないものだ。
そして、もっと決定的な違和感があった。もしかして…と足の付け根に手を当てて確認すると、無い。
元々俺についていたはずのものが、消えてなくなっていた。
…違う。違うんだ。
我儘な俺が叫ぶ。
俺は、女になりたいわけじゃない。ただ、ただ俺は…。
見えなくなった姿を追って真っ赤な花畑を再び走り出した。
俺は、俺のままで、だけど…。
遠くに彼がいる。ぼやけているが、確かにそこに。小さくなった手を精一杯伸ばして、名を叫んだ。
「…っ!」
ピピピピッピピピピッ…。
午前七時十五分。
耳元で五月蝿く朝を告げる時計をバシッと叩いて黙らせ、深く溜め息を吐いた。
「…はあ。また変な夢みた…」
今度はちゃんと低い声がした。喉仏も、やっぱり出てる。
彼の隣に居てもおかしいと思われない姿になりたい。だけど俺は、女になりたいわけじゃない…。
女じゃなきゃ、女ならば、だけど俺は。
そんなことをずっと考えている。
ただそのままを愛したい。
そのままで愛されたいだけなんだ。
「のーぞーみーっ」
ベッドの上で半身を起こしてぼうっとしていると、部屋のドアが勢いよく開かれた。
最早当たり前となっている光景なので特に驚きはしない。彼が、来たのだ。
「きょーたろー…来んの早過ぎ…」
「おはよ!おばさんが朝飯出来たってよ。早く着替えろー」
「はいはい。おはよ。分かったから下で待ってて」
隣に住む幼馴染み、叶太朗はこうして毎朝俺を起こしにやってくる。時間は日によってまちまちだが、大抵は目覚ましが鳴ったのを見計らったようなタイミングで来るのだ。
そしてそのまま俺の家で朝飯を食べて一緒に登校するまでがワンセット。こいつとの付き合いは幼稚園の頃からで、もう大体小学校ぐらいからこんな習慣が続いている。
さっき見た夢のせいか、何となく怠くて未だ布団から出られない。彼はそんな俺をむっと睨みつけると、ポケットからスマホを取り出した。
「早くしねぇと、寝起きのお前の写真学校で売りさばくぞ」
「下で待ってろっつったじゃん…。何でまだいんの」
「二度寝しそうだもん。とりあえずベッドから出なさい!」
そう言って無理矢理俺の布団を引き剥がしにかかる彼はとても楽しそうだが、寝起きの俺としてはたまったもんじゃない。
お前はオカンか。
「着替えるから出てって」
「女子かよ。恥ずかしがり屋さんだなぁもう」
へへっと八重歯を見せて笑った彼は「おばさんに起きたって言ってくるー!」と階段を駆け降りていった。転ばなきゃいいけど。
毎朝毎朝、こんな風に俺に構ってる暇があるならさっさと彼女でも作ってしまえばいいのに。
そうすれば、俺も少しは踏ん切りがつくかもしれないのに。
そう遠くない未来に現れるであろう「彼女」とあいつが仲睦まじく笑っている姿を想像するだけで真っ黒い毒ガスが俺の心を覆って息が出来なくなるのに、それでもいいと思った。いいんだ、俺は。
お前が心から笑ってさえいてくれれば、それでいいんだ。
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