自分の部屋に帰ると僕は適当に鞄を投げ捨て、制服も着替えないままブレザーだけ脱いでボフッとベッドに倒れ込んだ。
あ、眼鏡忘れてきたな。
確か机の何処かにストックがあったはず…。
さっきまでの出来事が頭の中をぐるぐるする。昼休み。そう、穏やかないつも通りの昼休みだった。
桃谷くんもいつも通り優しくて、他愛の無い会話をして、何か褒められてお礼を言って、それで…。そこから暗転した。
そう言えば何で押し倒されたんだろう。ちゃんと顔が見たいって、キスするって、言われた。何で?
いや、それも気になるけれど問題なのはその後のことだ。押し倒されて、それで、目を…。
見られたんだ。
それについてはもう、考えてもしょうがない。
それよりも桃谷くん結構苦しそうにしてたけど大丈夫だったんだろうか。ちゃんと見ていなかったけど、やっぱりあれは緋色がやったのかな。そうだ、目を見られて、怖くて、そしたら緋色が助けに来てくれて…。あぁ、そうだよ、緋色は僕を助けに来てくれたのにお礼も言えてない。だけど緋色があんな風に平気な顔で暴力を振るうなんて考えられなくて…。
もう駄目だ。また混乱してきた…。一番の問題は何だ?僕が今一番心配していることは?何でこんなにぐるぐるするんだ。「どうしたらいい」なんて言葉だけが頭を飛び回っているけれど、一体何に対して「どうしたらいい」っていうんだ。
あぁもう分からない。何も考えたくない。全部全部投げ捨てて、このまま眠ってしまいたい。
ピンポーン。
玄関の鐘が鳴る。わざわざ確認しなくてもそれが誰だか直ぐに分かってしまった。今は、会いたくないのに…。
もう一度だけ玄関の鐘が鳴らされ、暫くするとガチャリと扉を解錠する音が聞こえた。そのまま足音はスタスタと迷い無く進み、僕の部屋の前でぴたりと止まる。
そう言えばあいつは合鍵持ってるんだったな…。
「紺?居るんでしょう」
「………」
「大丈夫なの」
「………」
僕のことなんていいから、早く自分の家に帰って欲しい。すぐ隣じゃないか。
「紺。返事しないと、この部屋の鍵壊すよ。いいの?」
「………」
「紺。…おねがい」
「………部屋にも来ないでって、言った…」
「それについては了承してない」
そんなの屁理屈だ。僕はベッドに寝転がったまま、ぐるんと体勢を変えて仰向けになった。ドア越しに緋色の声が聞こえる。
「何で来たの」
「心配だったから。あと眼鏡渡そうと思って」
何だ、あれ緋色が拾ってくれてたのか。別にそんなの良かったのに。
「…緋色」
「なぁに」
「今日、助けてくれてありがとう。正直結構、…助かった」
「別にいいよ。まだ、怖い?」
「…分かんない」
怖い、か。怖いと言えば、どちらかと言うと今日初めて見た幼馴染みの変貌ぶりの方が怖かった。なんて言えない。緋色は僕を助けようとしてくれたんだから。
「言いふらされるのが怖いの?」
「それは、…考えてなかった」
そうか、その可能性もあるのか…。だけど桃谷くんは、今日の行動はさておきいつもは誠実で真っ直ぐだし、僕が嫌がると分かっていてそんな事をするとは到底思えない。
知られたのは、すごく嫌だったけど…。
「俺があいつに言っといてやろうか」
「え、何を…?」
「桃谷に。今日のこと言いふらさない様に」
「い、いい!もう大丈夫だから!心配しなくても桃谷くんはそんな事しないよっ!」
今日の緋色の様子からすると、また何かとんでもない事をやりかねない。僕が必死で制止すると、急にドアの向こうが静かになった。
暫くして、「…そう」とだけ聞き落としそうになる程小さな声が聞こえた。
…泣いてるのかな。
きっとそんな訳は無いけれど、僅かに空気を震わせたその小さな音がとても頼りなく思えてそんな考えが浮かぶ。それに心なしか、扉の向こうの雰囲気がさっきより暗く感じられる。流石に心配になって、ベッドから起き上がってドアに近付いた僕は薄い板越しに小さく名前を呼んだ。
「ひいろ?大丈夫…?」
恐る恐るドアを開ける。するとそこに居たのはいつも通りの無表情…ではなく、やっぱり少しだけ泣きそうに眉を下げた幼馴染みが立っていた。
「…分かってるんだよ」
「え、何を…?」
彼が俯いた瞬間に垂れた髪が、あの太陽みたいな瞳を隠してしまう。いつもと違う、曇天みたいにどんよりとした雰囲気を纏う彼を心配しているとすっと色白の手が伸ばされてくる。
驚いた僕は反射的にピクッと身体を強張らせてしまった。僕の反応に気付いて、緋色は直ぐに手を引っ込める。
「俺のことも、怖いと思ってるんだろう?」
「ちがっ、今のは…」
言い返せなかった。
本当のことだから、何も言い返せない。
「俺も怖がらせちゃうなんて…ね。急に来てゴメンね?それじゃあ」
「まっ、」
自嘲した様に、少し寂しそうに微笑って去っていこうとする緋色の手を咄嗟に掴んでしまった。
「紺、離して。無理しなくていいよ」
「違う!無理なんかしてないっ」
「でも、」
掴んだ手をそっと両手で包んで、少しだけ力を込める。確かに今日の緋色は怖かったけれど、この手は、いつも優しく触れてくれるこの手だけは離したくないと思った。
「確かに今日のお前はちょっとその…、こ、怖かった、けどっ!でも、その…そんな風に、笑わないで…」
「…紺?」
「自分のこと、傷つけるような笑い方、しないで…」
掴んだ手をそっと自分の頬に押し当てる。温度を無くした手はいつもより少し冷たくて、少し震えていた。
温かくても冷たくても、優しくてもたまに少し強引でも、例え誰かを傷つけたとしても。
それでも僕は、この手が好きだ。
この手に包まれていると安心する。
それは、変わらないから。
「…俺が、触ってもいいの?」
「うん」
「怖くない?」
「今は…もう大丈夫」
「…そう」
それまでされるがままにされていた手が、急に意思を持って動き出す。僕の頬に添えられていた手はそのままふにふにと僕の頬で遊ぶと、柔らかい親指の腹でつうっと涙袋をなぞっていった。
この動作は昔からで、緋色の癖のようなものだ。緋色は本当に僕の目元をなぞるのが好きだな。この動きをする時、緋色は決まって僕の瞳を覗き込むんだ。擽ったくて目を細める僕に合わせるように、彼も太陽のような目を緩く細めて。その輝きを、更に優しく煌めかせて。
けれどさっきまで泣きそうに歪められていた彼の目は、今もまだ、どこか苦しそうに歪められているままだった。
それを見ると何だか胸がぎゅっと締め付けられて、僕も無意識に手を伸ばして緋色がするみたいに彼の目元をそうっとなぞった。
驚いたらしい彼は一瞬目を見開いたけれど、僕の好きなようにさせてくれた。段々と、彼の泣きそうな表情が和らいでいく。しかし何ていうか、少し恥ずかしいな…この絵面。
「緋色。ひとつ約束して欲しい」
「なに」
「もうあんな風に、誰かを傷つけないで」
「………」
「返事」
「やだ」
「おい」
「だってまた今日みたいになったらどうするの」
「そ、れは…僕が自分で…」
「ふうん」
「あ、信じてない!確かに僕も自信無いけどっ!」
「ほら」
「でも…確かに僕は頼りないけど、今日だって緋色が来てくれて正直ほっとしたけど…。それでも、緋色にあんな風に誰かを傷つけて欲しくない」
「どうして?」
「どうしてって、それは…」
「言ったでしょう。お前は、優し過ぎるんだよ」
緋色の顔が近付く。さっきまで僕の顔を包み込んでいた両の手で額の髪を掻き分けられて、露になったそこにそっとキスが落とされた。優しく、触れるだけの一瞬のキス。
温かい日差しがそこだけに降り注いだみたいだった。
手を離した緋色はふっと満足げに微笑むと、驚きで固まってしまった僕を置いて自分の部屋へと帰っていってしまった。持ってきてくれた眼鏡を呆然とする僕の手に握らせて、微かな匂いを残して扉が閉まる。
パタン、という音で僕は漸く我に返った。
「………え、あっ!約束、流された…」
額に残る柔らかい感触が消えてくれない。その感覚に嫌悪感なんて全く混じっていなかったことに、僕が気付くのはもう少し後のことだった。
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