さっきみたいな緩やかな風が吹いて、辺りの草をかさかさと鳴らす。
気付けば僕は空を仰ぎ見ていて、背中にはベンチの固い感触があった。
食べ終わって空っぽになっていた弁当箱は布に包まれたまま地面に転げ落ちていて、その隣には…。
その瞬間僕は状況を理解したと同時に、ざあっと青ざめた。
防衛本能が働いて、瞬時にぎゅうっと目を瞑る。
僕をベンチに押し倒したらしい桃谷くんの息が近い。太陽から日陰を作るように僕に覆い被さって、桃谷くんが懇願するような声を発した。
「茅ヶ崎…目、開けてくれ」
「い、やだ」
「お前の顔をちゃんと見たい。頼む」
「…無理だよ」
「どうしてもか?」
「どうしても、嫌だ…ごめん」
「ならこのまま、キスしても良いか」
「っ?!キッ、え?!」
驚いて思わずパチッと目を見開いてしまった。すると同時に、僕を見下ろす少し熱を帯びた凛々しい瞳と目が合ってしまった。
…あぁ、終わった。もう、駄目だ。
僕と目が合った瞬間、桃谷くんも驚きで丸く目を見開いた。気付いたんだ。気付かれてしまったんだ。早く、この場から逃げ出したい。逃げなきゃ。
早く、早く、はやく…っ!
「茅ヶ崎、お前、」
「お願い離してっ!どいて!!」
いくら両腕で桃谷くんの胸を押してもびくともしない。流石は空手部主将、まるで檻のように僕を閉じ込めたまま、僕が目を逸らしても容赦無く僕の瞳を覗き込んでくる。
嫌だ、嫌だ…怖い。
押し倒された勢いで弁当箱と一緒に飛ばされてしまった眼鏡には、ここからじゃ手が届かない。それに一度見られてしまったのだから、今から眼鏡を掛け直したってもう無駄だ。
無駄だと分かっていてもやっぱりその視線に耐えられなくて、両手は抵抗の意を示すために全力で桃谷くんを押し退けようとしながら僕はまたぎゅっと両目を瞑った。
それでもお構い無しに、熱い吐息が顔に近付いて来るのが分かる。短い彼の黒髪が僕の顔に触れる程に近付いて来ているのが、嫌でも分かる。僕は桃谷くんのことは嫌いじゃない。寧ろ好きだとさえ思っていた、はずなのに。
今はこんなにも怖いなんて。そして桃谷くんの次の一言が、僕が最も恐れていた一言が決定打となって、より一層僕の身体を強張らせた。
「お前の目…」
ハッと息を飲む。その瞬間に全てが崩れ落ちていった。全身から血の気が引いて、色んな記憶が蘇ってくる。
揶揄する声、気味悪がる声、嘲笑う声。
そして奇異なモノを見る、あのたくさんの視線。
「嫌だっ!!!」
思い切り叫んで、今までより全力で腕に力を込めた。すると近くでダンッと何かが落ちてきたような音がして、その直後鈍い音と共に僕の上に覆い被さっていた大きな身体が居なくなっていた。
はあはあと荒い息を吐く。嫌な汗が背中を湿らせていて気持ちが悪い。僕は何が起きたのか分からなくて、ゆっくりと自由になった上体を起こして辺りを見回した。右を向くと誰かの足が見えて、それが僕の方を向いて立っているのが分かった。
「紺」
「ひっ」
声を掛けられて、咄嗟に目を瞑る。けれど穏やかなその声の主は、壊れ物にでも触れるようにゆっくりと手を伸ばして囁いた。
「紺、俺だよ。もう大丈夫だよ」
「…ひ、いろ?」
恐る恐る目を開けると、見慣れた幼馴染みの顔。学校で皆の前で見せるきらきらした笑顔じゃなくて、家で僕にだけ見せてくれるような穏やかな微笑みを携えた緋色は、するりと僕の頬を撫でて言った。
「怖かったね。遅くなってゴメンね」
「緋色?何でここに」
「あいつに何された?嫌なことされたんでしょう?」
「あいつ…?そうだ桃谷くんは?!」
「うっ…」という呻き声がする。見ると緋色の向こうに、木の下で呻いている人影が見えた。…あれはまさか、桃谷くんか?
横向きに地面に倒れ込んだ彼は鳩尾辺りを抑えて呻いていた。さっきの鈍い音って、もしかして…いや、そんなまさか。
まさか一撃であそこまで飛ばしたっていうのか…?緋色が?嘘だろ、今まで緋色が喧嘩した所なんて見たことが無いのに。緋色が暴力を振るうなんて、想像も出来ない。だけど今はそんなこと考えてる場合じゃない!
早く保健室に連れてかなきゃ!
そうしてベンチから立ち上がろうとした僕の腕を、優しい力が掴んで引っ張り戻した。僕をベンチに座らせ直して、正面に屈んだ緋色が問う。僕に向けられる柔らかな視線はいつも通り穏やかだ。
そう、いつも通り。
そのいつも通りが、今は何故だかとても怖い。桃谷くんに対してさっきまで抱いていた恐怖心とはまた別の、得体の知れない深い穴を覗き込んでいるような、そんな不思議な感覚だった。
掴む手はそのままに、緋色がもう一度問う。真っ直ぐに僕だけを見つめて。
「桃谷に何されたの」
「そんなことより早く、」
「あいつなら大丈夫だよ。その辺の奴より鍛えてるだろうし」
「でもっ!」
…動けない。答えなければ、離してくれない気だ。
情けない。情けない。情けない。
桃谷くんの時もだけど、こんな時己の力の無さを余りにも情けなく思う。
「答えて。紺」
「…押し倒された。それだけだよ」
「それだけ?キスはされた?何処か触られたりは?」
「無いよっ!ただ押し倒されて、目を…見られただけ」
僕が素直に答えると、緋色はやっと手を離してくれた。そうしてすっと立ち上がったかと思うと、スタスタと未だ木の下で呻く桃谷くんの元へ近付いて行った。
「こいつ、紺の目見たの?」
「見られた、けど…」
「そっか。怖かったでしょう」
「そう、だけど」
「そう。じゃ、両目潰しとこうか」
「は…?な、に、言ってんの…?」
理解が追い付かなかった。まるで食後に「これも洗っとこうか」なんて言うみたいに、何でもないことの様に緋色が言う。厚い雲が太陽を隠したせいだろうか。いつも通りに見える表情も、今は目に光が宿っていない。
『気を付けることだね』
ふと立花先輩の言葉が、頭をよぎった。
「だって嫌な目に合わされたんだろう?そうだ、もう紺にこんなこと出来ないように何なら両手足も折っとこうか」
そう言って緋色は無造作に桃谷くんの頭を掴み、まだ痛みに苦しむ彼を片手だけで持ち上げる。木に押さえつけられた桃谷くんの手足はだらりとしていて、とても抵抗なんて出来そうに見えなかった。
そんな無抵抗な桃谷くんにすっと腕を振りかざす緋色の動きには躊躇なんて無い。
…本気だ。
「止めろよっ!お願いだから!」
「何で止めるの?まさか、合意だった?」
「…は?」
「紺が嫌だって叫ぶから無理矢理なんだと思ってたけど、違ったの?だからこいつのこと庇うの?」
「さっきから何言って…、そんな訳無いだろ?!」
「じゃあ、」
「だからもう止めろってば!十分だからっ!!」
「…はぁ。紺は、優し過ぎるよ」
緋色が手を離す。するとドサッと鈍い音を立てて桃谷くんが地面に落とされた。
「桃谷くんっ!大丈夫?!」
「ちが、さき…」
「ここかっ!お前ら何やってんだ?!何か揉めてる声がするって知らされて来たんだが」
どうやら騒ぎを聞きつけたらしい生徒指導の先生がやってきた。早く彼を保健室に連れて行かなきゃいけないのに、これは面倒なことになりそうだ。
しかし先生は緋色を見つけると険しい表情から態度を一変させた。
「北村じゃないか。ここで何してた?」
「えぇ、ちょっと空手部の子に空手を教えてもらってまして。でも彼の教え方が良いのかちょっとはしゃぎすぎちゃって」
ちらりと緋色が横に視線を移す。その視線を辿って先生が地面に蹲る桃谷くんを見つけ、少しだけ目を見開いた。
「お前…桃谷か?」
「はい。先生、すみませんが彼を保健室に連れて行っていただけませんか?」
緋色が学校の皆の前で見せるのと同じきらきらした爽やかな笑顔で先生にお願いする。品行方正な優等生の、「北村緋色」の顔だ。
「何だそういうことか。元気なのはいいが、程々にしろよお前ら」
先生は特にそれ以上追求することもなく、優等生の北村緋色の言う通りに桃谷くんに肩を貸して保健室へと去っていってしまった。
そうして裏庭に残されたのは、僕と緋色の二人だけ。さっきまで草を揺らしていた柔らかい風も、今は嘘みたいに静かだ。
いつもなら安心する二人だけの空間。だけど今は、色んなことで頭がぐちゃぐちゃで考えがまとまらない。ただこの場から早く離れたいという気持ちだけは変わらなかった。
「…紺」
呼ばれただけで、思わずビクリと肩が跳ねてしまった。それを見ていた緋色は特に何も言わず、ただじっと僕を見ている。
こいつが何を考えているのか分からないことなんていつものことだが、今はそれが…怖い。
「…ごめん。今日はもう、帰る」
「早退するってこと?それなら俺も」
「一人で、帰るから」
「そう。…分かった」
「緋色…今日は、部屋にも来ないで」
僕は精一杯、それだけ言い残すと足早にその場を後にした。残された緋色がその時どんな顔をしていたかなんて、振り向きもしなかった僕には分からない。僕はただ一刻でも早く、一人になりたかった。
どんな顔で彼に向き合えばいいか、分からなかった。
「んっふふふ…。これはいーいもん見ちゃったかなぁ?」
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