…眠い。あれからまた二度寝したけれど、それでもやっぱり眠りが浅かったのか眠気は取れないままだった。
重い瞼を擦りながら歩いていると、ふとある人物に気が付く。
「あ、橙くんだ」
移動教室の途中。
渡り廊下の向こうから、元気な声と共に後輩の集団が歩いてきていた。
その中心に、橙くんがいる。
そう言えば彼からはある時を境にぱったりと連絡が来なくなったんだっけな。僕としては別に静かで良いんだけど、どうして突然連絡が来なくなったんだろう。というか、連絡先ごと丸々消えていたのも気になる。やっぱり機械自体の故障だろうか。あぁ、修理してもらおうと思ってまだお店に行ってなかった。
そんなことを考えながら集団とすれ違う。一応挨拶するべきかと思い橙くんの方を向くと、彼も僕を見つけたようでバチッと視線がぶつかった。その瞬間に、彼は今まで見たこともないような怯えた顔をして思いっ切り不自然に僕から顔を逸らした。そうしてつかつかと逃げるように足早に去って行ってしまったではないか。
何だ、今の反応は…?僕を見て、………逃げた?何故?どうして?気のせい?いやでも、確かに視線はぶつかった。またいつもみたいにしつこく絡んでくるのかと一瞬思ったけれど、まさかあんな反応を返されるなんて思いもしなかった…。
寝不足で目付き悪く見えたのかな。それにしても、そんなに怖い顔だったかな。
彼の今の反応と、急に連絡が途絶えた事は何か関係があるのだろうか。というか絶対関係あるだろ。僕は一体何をしたんだ?
まるで思い浮かばないが、授業が始まることを知らせる鐘に急かされてとにかく僕は教室へ急いだ。
「なぁ緋色」
「んー?」
今日も今日とて二人だけの食卓。机に並ぶのは焼き魚に豆腐、ほうれん草のお浸しやかぼちゃ煮などなど。今日は魚が安かったので和食である。
僕の話を聞いてるのかいないのか。目の前で器用に小骨を取りながら間延びした相槌を打つ幼馴染みはやっぱり無表情だ。真剣なのかな。こういう細々した作業割と好きだもんなぁ、こいつ。じゃなくて。
「あの、さ。僕の顔って、…怖い?」
「………は?」
それまで黙々と小骨を取るのに真剣だった緋色がゆっくりと顔を上げた。相も変わらず表情筋は仕事をしていないが、一瞬だけ目を見開いたのだけは見てとれた。
彼はすぐにいつも通りの顔になったが、そのまままじまじと僕の顔をガン見してくる。僕が言い出したことであるとはいえ、遠慮無く探ってくるような澄んだ瞳に少し恥ずかしくなって思わず目を逸らしてしまった。
するとすぐに顎をくいと掴まれて、再び正面を向かされる。ついでに僕の長めの前髪を耳にかけ直すと、さっき以上にじいっと深く瞳を覗き込まれた。吸い込まれそうな程綺麗な太陽が近付く。そんなに真っ直ぐ見つめられると、相手は緋色なのに少しだけ緊張してしまう。
「…っ近い」
「こーら。何で目逸らすの」
「だって、見過ぎだろ」
「言い出しっぺの癖に。…そうだ、ちょっと失礼」
「…?」
カシャッ。
一言断って徐にポケットからスマホを取り出すと、緋色はきょとんとする僕にそれを翳して何事も無かったかのように再びポケットに戻した。その間も視線は僕から外されないまま。何て器用な奴だ…。
「って!いやいや、何で撮ったの今?!」
「何って証拠品。面白い顔してたから」
「えっ、そんな変な顔だった…?」
「…ふっ」
緋色は答えず、また黙々と小骨の除去作業に戻ったが僕は聞き逃さなかった。
「おい、今鼻で笑ったろ」
「別に。というか、何で急にそんな考えになったわけ?何かあったの?」
「えと、実は…」
僕は緋色に話した。橙くんのことと、今日学校であった事。スマホから橙くんの連絡先だけが丸々消えてしまったことも。…悪戯電話のことについては、触れなかったけど。
「…ふうん」
食べながらも緋色は、僕の話にちゃんと耳を傾けてくれていた。
「まぁそんな訳で、何で避けられたのかなって」
もしかしたら、急に連絡が来なくなったことと何か関係があるのかなって。
くいっと麦茶を飲んで、緋色が僕に向き直る。魚が乗っていた筈のお皿はもはや猫も食べるところがない程綺麗になっていた。所作も含め、本当に綺麗に食べるなぁこいつは。
すっかり綺麗になった食器に感心していると、緋色がゆっくりと口を開いた。
「紺はさ、」
「うん」
「そいつのこと、どう思ってるの?」
「橙くんのこと?どうって?」
「連絡が来なくなって、寂しい?また話したりしたい?」
「うーん…。正直連絡も意味不明でしつこかったし、絡み方も結構一方的だったからなぁ。寂しくは、ないかな。嫌いって訳じゃあない、と思うんだけど…」
「じゃあ、好き?」
「え、いや…えぇー?…分かんない。好き、ではない…かもしれない。いや、でもきっと彼のこと良く知らないだけで、もっと知れば、うーん…どうなんだろ」
確かに第一印象は苦手なタイプだと思ったし、知れば知るほど意外に好きになれる一面はあるかもしれない。好きか嫌いか。今その二択でしか選べないのなら、多分…。頭の中でうっすらと答えは出ているが、それを口に出すのは何だか嫌だった。だってそう判断するにはやっぱり情報が不十分だ。
そんな風に考える僕は偽善者かもしれない。
「そう。…まぁ、それはいいや。つまり、もやもやしてるんでしょ」
「うん。何で避けられたのかなって。何か嫌われるようなこととか、橙くんを傷付けるようなこと無意識に言っちゃったのかも知れない…とか。なら謝らないとだろ?でも原因が分かんなくて」
そうだ、もやもやしてたのはそこなんだ。橙くんのことを好きにしても嫌いにしても、僕が何か彼を傷付けるようなことを無意識の内にしてしまっていたのだとしたら、その事に気付きたいし謝りたい。だけど困ったことに心当たりが一つもない。
「で、何かあるの?心当たり」
「それが…全く無い」
僕の心なんてお見通しなのだろうか。緋色は頬杖をついて、またじっと僕の顔を見つめながら続けた。
「なら、紺のせいじゃないよ」
「何でそう言い切れるの?」
「だって、心当たり無いんだろ?」
「うーん…。思い当たらない…」
「じゃあ考えたってしょうがないじゃん。それにああいう奔放なタイプは大体適当だから、律儀に向き合う方が無駄。余り深く考えない方が良いよ」
「緋色、橙くんのこと知ってるの?」
「噂だけね。言い方は悪いけど多分、もっと違う面白そうなものでも見つけたんじゃないの」
「面白そうなもの」
「そう。遊ばれたんだよ、お前」
「遊ばれたって、何か嫌な響きだなぁ…」
でも何となく分かる気がするな…。緋色の言う通り、僕は橙くんにとって暇潰しのおもちゃみたいな存在だったのかも知れない。おもちゃってなんか嫌だな、と思うけれど橙くんの今までの僕への扱いを思い起こすと何だかその表現が一番しっくり来てしまった。
じゃあ、あの時の怯えたような表情は一体何だったんだろう?
「とにかく、気にしないでいんじゃない?怯えたように見えたのだって、お前の後ろにたまたますんごい強面の奴が居たからかもしんないじゃん」
「えぇ…そんな人居たっけ」
そんな人が居たかは思い出せないけど、あの時明らかに彼と目が合ったんだよなぁ…。
「そうだよきっと。紺はいつも真面目に考え過ぎ」
「じゃあ、連絡先が消えたのは?やっぱ修理とかした方が良いのかな」
「…他にどっかおかしいとこあんの?」
「無いけど」
「じゃあ、いんじゃない。様子見とけば」
「そっ、か」
「ん」と軽く頷くと、緋色は今日もまるで洗った後みたいな食器を流しまで持っていった。
うーん…。解決したような、してないような…。スマホはとりあえず様子見として、橙くんについてはまた会ったら本人に聞いてみようか。今日のあの様子じゃあまた避けられる気がするけど…。
「紺」
「え、何?」
うんうん唸っていると、不意に台所から声をかけられた。
「大丈夫だよ。お前に非があるならちゃんと俺が指摘してやる。だけど今回は、考え過ぎないで良い」
「うん…ありがとう」
「ん」
何で緋色がそこまではっきり言い切れるのかは分からないけれど、彼に「大丈夫」だと言われて単純な僕は少しだけ胸が軽くなった。
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