「加野っ!!…くん」
「…緒方?」
探していた背中は教室を出ると案外直ぐに見つかって、俺は何も考えずに生徒がたくさん居る廊下で彼を呼び止めてしまった。
俺の声に素直に反応して振り返った切れ長の瞳は驚いているのか少し見開かれて、廊下の安っぽい蛍光灯の下でさえもきらきらと輝く。
今日の彼はどうやらいつもと少し違う。俺を見ても、いつもみたいな鋭利な眼差しを向けてこない。
その事に若干の違和感を覚えつつも、勢いのまま彼を呼び止めてしまった俺は引く事も出来ず、意を決して一歩一歩ゆっくりと加野くんに近づいた。
彼はいつもみたいに俺を睨み付けるでもなく、ただじいっと俺の動向を観察しながらもその場に留まって待ってくれている。
廊下に居た生徒達も何事かと足を止めて、一斉に俺達を見ていた。が、加野くんが俺から一瞬だけ視線を逸らしすうっと綺麗な目を細めると、彼らは何事も無かったかのようにわいわいと何処かへ散っていってしまった。
おぉう、今のはちょっと吃驚した…。加野くん、俺以外にもあんな風に睨むことあるんだ…?というか、今のって睨んでたのかな。
睨まれ慣れている所為か、俺のその辺の感覚は正直鈍りつつあるのかも知れない…。
そうして遂に、加野くんの前に辿り着く。するとまた真っ直ぐ俺に向き直った彼はゆっくりと口を開いて、聞いた。
「なに」
「あ、えと…」
「呼び止めたってことは、何か用なんだろ」
「うん。あのさ、俺…」
まずい。正直、何も具体的な事なんて考えてなかった。ただ加野くんのことについて考えすぎて訳が分かんなくなって、それでさっきの不意打ちの謝罪とか女子の噂でもっと訳分かんなくなっちゃって、それで…。
あれ、俺は何がしたかったんだっけ。
正面には特に急かすでもなくただ無表情で俺を見下ろす加野くん。それに対して、目を合わせ続けられずに下を向いてしまう俺。今日はいつもみたいに睨まれたりしていないのに、いざこうして本人を目の前にすると頭が真っ白になってしまった。何とか言葉を搾り出したいのにただ「えと、」とか「あ、あの」なんて意味の無い音を紡ぎ続ける、頼りない俺の口。
今日は、上から降ってくる視線はいつものような鋭く痛いものじゃない。だから怖がらなくても大丈夫だと自分自身に言い聞かせるが、それでもまた不安になる。どうしよ、わざわざ呼び止めてこんな挙動不審な行動をしてる俺に、彼は苛立ったりしていないだろうか。そうだよ、だってただでさえ俺は嫌われてるんだから、せめて早く何か言わないと…!
「緒方」
俺の心配とは裏腹に、彼の口調はとても穏やかだった。宥めるような柔らかさで名を呼ばれて恐る恐る顔を上げると、無表情だった加野くんはまたすうっと目を細めた。
睨んでいるんじゃない。さっきの野次馬に向けていたような視線とも、いつも俺に突き刺してくる鋭い視線とも違う。
細められた目は彼の口調と同じで、とても穏やかだった。
その顔を見て、ようやっと俺の口が動く。心の奥の方にしまわれていた、本当に思っていたことがすらすらと零れ出てくる。
「俺、加野くんのことが知りたい」
「…え」
「知りたいんだ。あ、えと、嫌われてるのは分かってるつもりだよ!?なるべく近寄らないようにするって言ったばっかなんだけどその、俺らあんま喋ったこと無いし、加野くんが俺のこと何で嫌いなのかやっぱり分からないんだ。それで…」
「で?」
「で…で?!あー、その、加野くんは俺のこと嫌いでも俺は加野くんのこと嫌いじゃないから本当は仲良くしたい…けど、もし俺が知らない間に加野くんを傷つけるようなことしてたのなら、謝るよ。…ゴメンな」
「…そう。そうだな。傷ついたことはある…けど、それは緒方のせいじゃないよ」
「え、え!?やっぱり何かあるの?俺何か知らない内に嫌なことしたの!?ご、ごめ、やっぱり前言撤回して今後出来るだけ関わらないように、」
「却下」
「えっ?却下なの?!ってかそれどういうこと!?これからも関わっていいってこと?…ですか?」
俺が恐る恐る問うと、それまで無表情で淡々と言葉を紡いでいた加野くんが突然「ふっ」と吹き出した。くっくっと笑いを堪える様に少し前屈みになると、色素の薄いさらさらの髪がレアな彼の笑顔を隠してしまう。
いつも他の友達と話している時はそりゃ普通に笑ってるけど、俺に対してこうして笑ってくれているのは初めてのことなんだ。だからその顔が見たい。すごく見たい。
…まぁ何で笑われてるのかは全く分からないんだけど。
「ふっ、ふふ…。あー、笑った…」
「え、あ…っ」
加野くんが伏せていた顔を上げる。漸く見えたその表情に、胸がきゅっと締め付けられる気がした。初めてちゃんと見た、穏やかな表情。薄い口元はほんの少し弧を描き、切れ長の目は柔らかく細められその中に俺だけを映して揺らいでいる。
笑い過ぎたのか少しだけ涙で潤んでいるその光は、さっきよりずっときらきらしていて眩しかった。
俺の心臓が何か言っている気がする。いつもよりちょっとだけ鼓動が早くなって、俺はまた言葉が出なくなった。加野くんは言葉少ないのに、その眼差しだけでいつだって俺を自在に操ってくる。
不意に、あの時の感触を思い出した。耳元で感じた加野くんの息遣いや、密着した身体から伝わる彼の体温。それから、さっきくしゃりと撫でられた、あの優しい手の平の感触。
「ね、緒方」
「…あ、はいっ」
「お前、俺に何言われたかちゃんと覚えてんの」
「…『嫌い』って、言われました」
「うん、言ったね。それでもお前はそんな相手のこと、知りたいって思うの」
「だっ、て…分かんないんだもん…」
目の前の彼が本当は何を考えてるのか。本当の本当に、俺のことが嫌いなのか。俺は一体、どうすれば良いのか。
俺の考えは彼にとっては迷惑かもしれない。傲慢かもしれない。だけど、何も知らなきゃ何も出来ないじゃないか。
嫌いな相手なら遠ざけておけば良いものを、彼はわざわざ俺に伝えてきたんだ。それに、謝ってもきたんだ。その矛盾した行動がどうにも腑に落ちなくて、心の真ん中で堂々とひっかかっている。俺はそれが邪魔で取り除きたくて、もやもやする霧を晴らしたくて加野くんを追いかけた。
だからこれはエゴだ。誰の為でもない、自分自身の為の行動なんだ。
「そっか。じゃあもう一回言うけど」
ふうっと短い溜め息が一つ降って来る。そうして彼が長い足で一歩俺に近づくと、つい先日嗅いだあの匂いがまた鼻腔を掠めた。そのまま再び抱き締められるんじゃないかってくらいの距離まで近付いてきて俺に目線を合わせた彼は、柔らかに微笑んだままでもう一度俺の丸い頭に手を伸ばす。
そうしてくしゃりと満足そうに俺の髪を乱すと、あの日と同じ穏やかな声音で囁いた。
「俺はお前のこときらいだよ。それでもいいの?緒方」
「………うん」
ほら。ほらね、そういうところだよ。
言葉では「嫌い」なんて言ってくる癖に、そんな顔で、そんな優しい声音で言われたら本心が分からなくなるんだよ。
俺もどうしたら良いのか、どうしたいのかまた分からなくなっちゃうんだよ。
「…本当、そういうところだよな」
「えっ、…え?!」
はあっと呆れたような溜め息と共に加野くんが発した言葉の真意は分からなかったけれど、その一言はまるで俺の心を映し取ったようだった。
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