ある日の帰り道。
先生に用事を押し付けられて案の定断りきれなかった僕の帰宅時間は、いつもより遅くなってしまった。
いつもなら隣に居るはずの緋色は、相変わらず忙しいらしく今日も居ない。
その空間がやけに寂しく思えて、暗くなり始めた帰路を少し急ぎ目に歩いていた、その時。
背後に誰かが居るような気配を感じた。通行人だろうか。何となく気になって、振り返って確認してみるが誰も居ない。少し不思議に思って再び歩き出すと、やはり僕と同じスピードで誰かがついてきているような気配がした。
周りを見渡しても通行人もおらず、僕一人だ。何度か振り返って、歩き出して、また謎の気配がして…。その繰り返しで、いよいよ僕は怖くなって立ち止まってしまった。
その場から動けずに止まったままでいると、僕に合わせて止まっていた筈の足音が再び聞こえ出す。
コツ、コツ、コツ…
足音が段々近づいてくるのを感じた。
こんなことで怖がるなんて情けないとは思うけど、何か冷たいものが背筋を走った。やっぱり…尾けられてる?
逃げなきゃ…。
僕の頭の中はそのことで一杯だった。震える身体を何とか動かして、僕は速足で歩き出す。だが歩調を速めれば速めるほど足音も合わせるかのように速くなるのだった。
僕は走り出した。もうなりふり構っていられない…!
とは言え運動能力にはそんなに自信がないから、すぐに追いつかれるかもしれない。
少しでも人通りの多いところに行こうと、目の前にある角を曲がった。すると、どんっと勢いよく人にぶつかってしまった。
結構な勢いでぶつかってしまったのにも関わらず相手は僕をがっしり受け止め、お陰で反動で倒れることはなかった。が…同時に足音が聞こえなくなったことに気づく。もしかして、こいつが足音の…?
恐る恐る顔を上げると、
「何してんの、お前」
僕をがっしり支えたまま、訝しげな表情で見下ろす見慣れた顔があった。
「え、あ…ひ、いろ?」
全身から力が抜けるのを感じたが、逞しい腕に支えられているお陰で崩れ落ちはしない。その代わりに、ぜえはあと息を切らして半分涙目になった情けない顔を真正面からじいっと覗き込まれてしまった。
「…何かあった?」
すごく心配そうな表情だ。気遣うような声音は、いつもよりずっとずっと優しくて柔らかいものだった。
僕は少し息を整えて、「大丈夫。ちょっと急いでて」と緋色から離れようとするが、何故か彼は腕の力を緩めない。
「あの、緋色?ぶつかっちゃってごめんね?僕は大丈夫だし、その…もしかしてどっか痛いの?」
「痛くない。何ともない」
「じゃ、何で…」
「駄目なの?」
「駄目って、」
「紺がどうしても嫌なら、離すよ」
「嫌、とかじゃない…けど」
「じゃあ、離さないよ」
そう言うと緋色は一層抱き締める力を強めた。嫌ではない。彼に触られるのはとても落ち着くし、実際さっきまで恐怖で失っていた体温が戻っていくようだった。
彼が触れたところからじんわりと熱が広がって、身体の中に染み込んで、心臓を熱くする。そうすると今初めて動き始めたみたいに、心臓がどくんどくんと跳ね上がるんだ。
鼓動はさっきまでの恐怖による嫌などきどきではなく、心地好いどきどきに変わって、とても落ち着く…。矛盾しているような、だけどとても温かい感覚だった。
ぎゅうっと腰に回された腕の力が強まる。
「紺」
耳元に唇を寄せた彼が、身体の奥にまで響くような甘く低い声で僕の名を呼んだ。
「…緋色」
ほとんど反射的に、応えるように彼の名を呼ぶ。彼は自分の名前が嫌いだと言った。だけど何故か僕には名前で呼ばせる。
僕が彼の名を呼ぶと決まって嬉しそうに、それが尊い言葉であるかのように目尻を下げて僕を見ることを、彼は自覚しているのだろうか。
何故だか分からないけど、僕はその眼差しを見ると胸が締めつけられる気がした。
優しく触れるような、だけどしっかり捕らえて離さないような、そんな瞳。
不思議なことに、暫く緋色の体温と触れ合っているうちにさっきまでの恐怖心はどこかへ消え去っていた。
「帰ろう。紺」
「…うん」
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