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「修二様、本日もお疲れ様で御座いました」
「あぁ、本当に…」
今日は会食だからマスクをする訳にもいかなかったし…。
そういやあの女、必要以上にベタベタ纏わり付いてきていた癖に、マスクを外した途端分かり易くドン引きしてやがったな…。まぁあれ以上引っ付かれて不愉快な香水の匂いを移されるよりかはマシだったが。
「それにしても、通りが何だか騒がしいな」
「酔っ払い同士の喧嘩でしょう。構う必要はありません。どうぞお車へ」
確かに。まぁよくある事だろう。
「だからぁ!言いがかりだって!ぶつかるどころか避けてたじゃん俺!!」
「ざっけんなこのガキ!!口が減らねぇみたいだなぁ!?」
どうやらぶつかったか否かで揉めているようだ。何だ、心底どうでも良い議論だな…。そう思って車に乗ろうとしていると、通りからガシャーンッっと大きな音がして思わず振り返った。
見ると因縁をつけていた男が黒髪の少年(のように見える)を思い切り突き飛ばして、今にも殴りかかろうとしているところだった。辺りにはゴミ箱や段ボールが散らばっていて、突き飛ばされた少年は腰の辺りを痛そうに擦っている。
そしてよく見れば、少年を殴ろうとしている男の周りには他にも数人取り囲んでいて、楽しそうにその光景を眺めていた。
…成る程、卑怯どころの話じゃあ無いな。プツリと僕の中で、何かが切れる音がした。
「修二様!?」
部下の制止も聞こえず、気付けば僕は少年の前に立ち塞がっていた。殴りかかろうとしていた男は突然現れた僕に一瞬怯んだが、「邪魔すんなッ!!」と躊躇無く再び殴りかかってくる。
一応特殊なお家柄の為武道は一通り習わされてきたので、こんなチンピラのパンチなんて何てことも無い。数人がかりで来られても同じことだった。刃物を出してきた奴もいたが、その対処法も習得済み。刃物と言ってもカッターナイフで小ぶりなものだが、良い子は真似しちゃ駄目だぞ。
一通り始末…いや、軽くいなして男達が逃げて行くのを見送った。一連の流れは部下が撮っているだろうから、また何かあれば奴らの個人情報を洗い出すくらいわけもないだろう。
「おい、大丈夫か?」
慌てて倒れ込んでいた少年の元へ駆け寄り、手を差し伸べる。彼は酒が入っているせいか頬が少し紅潮していた。ぼんやりと僕を見上げる大きめの黒い瞳は潤んでいて、ふわふわそうな黒髪は風に揺れて時折その瞳を隠してしまう。
僕は何故だか時が止まったかのようにその少年から目が離せなくなって、手を差し出したままそこで固まってしまった。
「あ」
あぁ、やばい。そこで漸く気付く。マスク、外したままだった…。
「あの、すいません」
慌てて逃げるように引っ込めようとした手を、少年は躊躇無く握り返してきた。しょうがないから軽く引っ張って、地面から立ち上がらせる。彼はそれからじいっと僕の顔を覗き込んできて、予想外の言葉を放った。
「………カッコ良い…」
………え?
握られた手は熱く、立ち上がった後もお互いに離せないでいる。無言で目を見開く僕を見て少し酔いが醒めたのか、少年が慌てて付け足した。
「あの、いえ!さっきの、すごく格好良かったです…!助けて頂いて、ありがとうございました!!」
「え、あぁいや、別にこれくらい…」
「あ!!」
「え!?」
少年が突然大声を上げたかと思うと、パッと握っていた手を離して地面に転がっていたリュックの中を漁り出した。先程まで熱を分け合っていた箇所が突然風にさらされて、少し冷たい。
「あのこれ!すいません、俺のせいでっ!」
「…?」
何のことかさっぱり分からなかったが、少年が差し出してきた絆創膏を見て何となく察しが付いた。あぁ、さっきの刃物でどこか切れたのか。絆創膏に気を取られていると、目の下にするりと温かい手が伸びてきた。少年はでこぼこして気持ち悪いはずのそこにそっと手を置いて、親指で目の下を遠慮がちに撫でる。
普段なら、嫌なはずなのに。痛くはないが、決して誰にも触れさせることの無い場所なのに。何故僕は、初めて会ったはずの少年にされるがままになっているんだろう…。
けれどもそれは数秒のことで、直ぐに離された彼の親指には血が付いていた。きっと僕の血だ。痛いとかそんなことよりも、僕の血で彼の手を汚させてしまった申し訳無さが募る。
「本当は消毒とかした方が良いと思うんですけど、今これしか無くて…」
「十分だよ。ありがとう」
おずおずと渡された絆創膏を受け取って、短く礼を述べた。そこで始終を見守っていたらしい部下に声を掛けられ、我に返る。
「修二様。そろそろ」
「あぁ。すまないな」
家に帰っても、あの手の感触は消えてくれなかった。初めて触れさせた、この傷。不快になるどころか、もっと触っていて欲しいとすら思った。
真っ直ぐに僕を射抜く瞳も、悪戯に揺れる髪も、自分の方が大変だったろうに他人を気遣う優しさも。
もっと、知りたい。…欲しい。かもしれない。
目の下に貼った絆創膏をゆっくり何度も撫でながら、僕はこれからのことについて思いを馳せた。
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