「何で先行っちゃうの。紺」
下駄箱で靴を履き替えていると、背後から静かな声が降りかかってきた。
どうやら追いつかれてしまったようだ。
「何で待ってなくちゃいけないの。というか、あの子たちはいいのかキタムラくん」
「…緋色だよ」
「自分の名前嫌いなんだろ」
「お前に名字で呼ばれるのは気持ち悪い」
「一緒じゃん、どっちでも」
「あの先輩のことは名前で呼ぶのに?」
見られてたのか…。
「あれは先輩がそう呼べって、」
「緋色。なら俺も呼んで、ほら」
「…分かったよ。帰ろう、緋色」
わざわざ後から追ってきたらしい緋色は無表情だった。これは昔からで、他の人の前で振り撒かれるようなあのきらきらと眩しい笑顔は何故だか僕の前でだけは披露されることはない。
まぁ僕は饒舌でもなければ特に面白いことを言えるわけでもないし、そんなものだろうなと、今はある程度割り切っているつもりだ。
しかし不思議だ。
特に楽しいことが言える訳でもない僕と、何故だか緋色は一緒に帰りたがる。
どれだけ人に囲まれていても、教室に居ないからと先に帰ろうとしても、緋色は何故だかこうして僕を追ってくるのだ。
今日は、気づかれないと思ったのに。
二人で一緒に帰るのは小学生の時からの習慣のようなものだ。
小学生の時は毎日、中学生の時もほとんど毎日だったけれど緋色に友達が増えるにつれて少しずつ回数が減り、高校生になったらもう一緒に帰ることなんて無くなるかと思っていた。
それなのに実際高校生になった今では何故だかまた、ほとんど毎日一緒に帰っている。あれだけ友達が居れば放課後遊びに誘われることも多いだろうに、何故こうもこっちに来たがるのか不思議だ。本当に不思議だ。
「今日は何作んの」
「んー…豚肉が安いからしょうが焼きかな」
「俺も手伝う」
「いいけど、今日もうちで食べんの?」
「駄目なの?」
「駄目じゃないけどさ」
学校帰りにスーパーに立ち寄っては、今晩の献立について思案する。その間もずっと緋色は隣にいる。
二人きりでいる時は、教室のように明るく賑やかな緋色は居ない。彼の表情筋はほとんど仕事せず、必要事項とちょっとした雑談をぽつりぽつりと話すだけ。
話すことが特になくて家までずっと沈黙が続くことだってよくあることだ。
それでも子供の頃からの習慣で馴染んでしまっているのか、二人きりの静かな空間は別に嫌いじゃなかった。
僕と緋色はマンションのお隣同士。緋色の家族とは物心ついた頃から家族ぐるみで仲良くしてきた。同い年だけど、兄弟みたいに一緒に育ってきた。
うちのマンションは普通に一家族が住めるくらいの大きさなのだが、緋色は今そこで一人暮らしをしている。
中学生の一年生ぐらいまでは緋色の両親もそこに住んでいたのだが、おじさん…サラリーマンだった緋色のお父さんが急に実家の旅館を継ぐことになってしまい、おばさんと一緒に田舎に帰ってしまったのだ。
もちろん緋色も一緒に田舎に帰るようおじさん達に強く説得されていたが、彼はひとりここに残ることを選んだ。
やはり地元を離れるのは嫌だったのだろうか。どれだけおじさん達が説得しても、緋色は頑なに拒み続けた。普段からあまり我が儘を言わない緋色にしてはかなり珍しいことだった。
最終的には僕の両親が緋色の面倒を見る、ということで緋色だけここに残ることを許されたのだ。
とは言え僕の両親も共働きで帰りが遅いことが多く、今ではこうして二人で晩御飯を食べることがほとんどだった。
忙しい両親に代わり、晩御飯はほとんど僕が自炊している。緋色もよく手伝ってくれるし、たまに全部やってくれることもある。
正直言って今でもこうして二人で食べられるのは嬉しい。だけど…。
「紺が嫌なら、行かないよ」
「嫌とは言ってない。その代わり、後片付けは任せた」
「…ん。いいよ」
中学生ならともかく、高校生になってまでまだ一緒に食べる必要があるだろうかとは思う。大人ではないけれど子供でもないし、緋色なら誘えば一緒に食べてくれる友達などたくさんいるだろうに。そっちを優先しなくていいのだろうか。
一緒に居るのがわざわざ僕である必要が、あるだろうか。なんて。
「…知らなかった」
「何が」
「緋色って、自分の名前嫌いだったの?」
「さぁ?どうだろう」
にやり、と不敵に笑う彼の真意は読めない。学校と違い僕と二人の時は基本的に無表情な緋色だが、全く表情を崩さない訳ではない。
クスッと笑ったりムッとしたり、ちょっと不機嫌そうな顔になることだってある。
学校での誰にでも親切で笑顔の絶えない緋色と、今僕の目の前にいる表情の少ない無愛想な緋色。
きっとどちらも、本当の彼なんだろう。
ポジティヴに考えれば寧ろ幼馴染みであるからこそ僕の前では愛想良くしなくていいと、気を抜いてくれているのなら良いなと思う。
彼が自分の名前を本当に嫌いかどうかは分からないが、僕は彼の名前が好きだ。昼間あの女子が言っていたように響きがいいし、何となく彼に似合っている気がする。
緋色。鮮やかな赤。
彼の存在は華々しく、そこにいるだけで太陽のように周囲を明るく照らす。
暗く沈んだ色の僕とは大違いだ。
夜と太陽は、相容れない。
「紺」
「ん?」
「明日はハンバーグがいい」
「…ミンチが安かったらね」
「食費なら俺も出してるから、そんなに気にしなくてもいいのに」
「何か癖みたいなもんなの。しょうがないだろ」
「貧乏性」
「何だと。そんなこと言うならもうリクエスト聞いてやんない」
「ふっ、ゴメンて。…ねぇ紺、ちょっとこっち向いて」
「うん?」
正面に座っていた彼は少しだけ腰を浮かして、そっと僕の前髪に触れた。そのまま長めの僕の前髪を耳にかけ、じいっと瞳を覗き込んでくる。そうして何度か優しく僕の髪を撫で付けると、彼はやっと満足そうに手を離した。
「何?何か付いてた?」
「ううん。何となく」
「…変なの」
何だったんだろ…。
訝しむ僕をよそに、今日も今日とて米粒一つ残さず綺麗に完食した緋色はカチャカチャと食器を流しに持っていった。
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