瞳孔の収縮が見える程の距離でも彼がきょとんとしているのが分かる。
二、三度パチパチッと瞬きをして、彼が目を閉じた。
意外と睫毛が長いんだよなぁなんて思った直後、一瞬だけ唇に感じた柔らかさと彼の体温。
直ぐに離されたけれど、催眠術にかかったみたいに俺は暫く動けなかった。
「で?」
「………で?」
「で、次はどうして欲しいんだ?」
「え、と…」
「ん?」
「………ぎゅってして。あたま、なでて」
「ふふっ。子供かよ」
そう笑いながらも彼は自身の胸に俺の頭を引き寄せると、左手でゆるゆると背中をさすり、右手でぽんぽんと頭を撫でてくれた。
優しい力が全身に行き渡る。本当に、あやされているみたいだ。
これまで何度も聴いた彼の鼓動は、やっぱり少しだけ速めにとくとくと歌っている。それがまるで子守唄のようで、俺はいつまでも眠ってしまえそうだった。ぎゅうっと両手で抱き締め返せば、ふっと頭上から息が漏れた。
心地良い。離れたくない。ずっと、こうしていたい。
「ねぇ、」
「んー?」
「おれ以外のやつに、こんなことしないでね」
「ばーか。お前以外にこんなことして欲しがる奴なんかいねぇよ」
「じゃあ、」
「ん?」
「…いや、」
じゃあもし他にもいたら、そいつにも同じようにするの?なんて…。今朝の夢を思い出して、またひとつ胸に鉛が落ちた。無意識に抱き締める力が強くなり、それに気づいたのか彼は頭を撫でる手を止めた。
「俺な、」
「…うん」
「嫌いじゃないんだ、お前とこうしてる時間。匂いとか落ち着くし。…多分、お前だけだよ。こうしてくっついてたいって思うのは」
「…っ」
もうほとんど告白と勘違いしてしまいそうな言葉に堪らなくなってパッと顔を上げると、今度こそ彼に食らいついた。少し目を見開いて驚いた顔が見えたが、それすらも「おれ」を煽る材料になってしまう。
「ふぅっ?!…ん、んぅ…」
「んん…、ふっ、はぁ…」
彼はどうしてこうも、俺が必死に「おれ」を閉じ込めた扉をこじ開けてくるんだろう。鋼の扉にどれだけ頑丈に鍵をかけたって、こうしていとも簡単に「おれ」という怪物を解き放とうとする。馬鹿だ。馬鹿だよ。
少し開いていた口に、俺の舌を差し込んだ。吃驚したらしい彼は逃げるように舌を引っ込ませようとするけれど、構わず追いかけ捕まえる。絡ませて吸い付いて、時に弱々しい力で優しくなぞったりして。
上顎の歯列をつつ、となぞると、腕の中の身体がびくびく跳ねた。
角度を変えて何度も何度も、彼の咥内を味わい尽くそうとした。
飲み込めなかった二人分の唾液は溢れて、つうっと彼の口端から流れ落ちる。それすらも勿体無く思えて舐め上げるが、直ぐにまた唇へと舌を戻していく。
「も、…んんっ、やぁ…」
「…ん、ふふっ…」
彼が時折鼻から漏らす吐息は甘さを含んでいた。それが確かに彼も快感を得ていることを示しているようで、更に「おれ」を悦ばせてしまう。
それにしても相変わらず、途中で息をするのが下手だなぁ。これ以上苦しくならないように少しだけ唇から離れて、首筋に舌を這わせた。顎の下、喉仏から耳の後ろにかけて、彼の匂いを肺一杯に吸い込みながら。
「ふっ、…はぁ、はぁ…んぁっ?!」
「ん、かわい…」
その間も彼は酸素を求めて荒くなった呼吸を整えているのに、少しの刺激にも敏感になっているようだった。俺の舌が耳朶を掠めると、普段では聞けないような嬌声が漏れる。耳が弱いんだ。知ってるよ。キスしながら耳触られるの、好きだもんね。
「ちょっ、おま、んぅっ?!」
反論される前に、もう一度食らいついた。
いつの間にか彼が俺の背中にぎゅうっと手を回して制服のシャツを握り締め、俺が彼の頭を撫でる方になっていた。緩くうなじをなぞれば、俺よりも少し小さい身体がびくんと跳ねる。
もう片方の手では無意識に後退ろうとする彼の背中をがっしり掴んで、逃がすまいと俺の方に引き寄せる。俺が膝を立てれば二人の身体は嫌でも密着し、服の上からでも互いの温度が分かった。
引き寄せた腰は俺よりも細くて、少しだけ痩せているように思えた。細いとはいえ程よく筋肉の付いた、女よりも硬いがっしりとした男の身体だ。そう、彼は男だ。
もし、彼が女だったら。俺はこんなにも澤くんの虜になることがあっただろうか。
それはいくら考えてもその時になってみないとやはり答えは出ないけれど、そんなことは俺にとってはどうでもいい。どうでもいいんだ、性別なんてものは。
ただおれの世界に彼が現れたあの瞬間から、彼を彼たらしめるすべてがおれの全てになった。それだけのこと。それだけだ。
正直俺にとって澤くんが男であろうが女であろうがそんなのは些末な事で、こうして出会えたこと、そして今この腕の中にいることこそが重要なんだ。
…だけど、彼の方はどうだろうか。
夢の中で彼が恋人として連れていたのは、紛れもない女の子だった。俺よりずっと小さくて柔らかそうな、守りたくなるような「女」だった。
俺が調べた限り、澤くんに彼女が居たことはない。しかし小学校の頃に好きな人が居たことは知っている。それが「女の子」であったことも。
俺と出会うことさえ無ければきっと澤くんは「彼氏」ではなく「彼女」を作っただろう。そうしていつか一生を共に過ごすパートナーとして選んでいたのは、「女の子」だったかもしれないのだ。
俺と出会わなかった世界線のことなんて知らない。いくら考えてもキリがない。だって現実では、もうこうして出会ってしまったのだから。
耳の後ろに小さな黒子があるのも、そこを撫でられながら上顎を舌でなぞられるのが好きなのも、気持ち良いとついおれの服を握る手の力が強まることも。
おれだけだ。おれだけが知っている。
漸く少し満足したおれが顔を離すと、澤くんはぼうっと蕩けたような表情で頬を赤らめ、息を切らしていた。涙を溜めた瞳がまたとても扇情的で何度でもこうしていじめたくなってしまうが、今更になって戻ってきた理性にぐっと止められる。
…あの夢の中の「カノジョ」にだって、彼にこんな顔はさせられない。
力が抜けたらしい彼はくたっと俺に倒れ込んできた。服はぎゅうっと握られたまま、頭を俺の肩口に埋めてまだ少し荒い呼吸を整えようとしている。熱い息が首筋にかかって、俺の身体の中心にまで届く。ヤバいな…そろそろこのくらいにしとかないと。だけど。
さらさらの黒髪を手櫛で整え、背中をぽんぽんと優しく叩く。形勢逆転、かな?なんて思っていると、急に起き上がった彼に胸ぐらをぐっと掴まれた。
「…はぁ、は、だからお前はっ、いつもいつもやり過ぎなんだってば!」
「えー?大分抑えたのに」
「どこがだよっ?!」
「んっふふ…ねぇ澤くん、もう一個だけお願い」
「もう十分元気になった癖にか?」
「あと、これだけ」
実はキスの間にネクタイを取って二、三個外していた彼のワイシャツのボタン。その彼の制服を右にぐいっと引っ張ると、綺麗な鎖骨と少し骨張った肩が姿を現した。さっき俺が舐め上げた首筋はもう乾いてしまったようだ。残念。しかし片側だけはだけた制服姿はまるで行為の後のようで、その淫靡な姿に思わず喉仏がごくりと上下に揺れる。
「ちょっ、な、にを…?」
「ちょーっとだけ、我慢してね」
宥めるように彼の両肩をそっと押さえると、片方だけ露出したきめ細やかな肩に舌を這わせた。押さえた身体がまたぴくんっと跳ね、すぐ横から「んっ…」と押し殺された声にもならない声が降りてくる。もうその一挙手一投足が愛おし過ぎて、すべてが「おれ」の欲情を誘う。緊張から滲んだ汗すら俺にとっては塩辛いどころか、砂糖のように甘くて美味しい。そうして俺は彼の見た目より柔らかな肩にガブッと噛り付いた。まるで吸血鬼とその生け贄のよう。
「ッ痛?!」
「んっ、…ふぅ」
「やめ、んぅ…も、なにして…?!」
「痛くしてゴメンね。ありがと」
俺が噛んだところからは薄く血が滲んで、傷の無かった美しい肌に俺の歯型を残した。その光景の何と背徳的なことか。
彼の身体に俺の痕跡を残した。
優越感で高揚する気持ちから口角が上がるのを抑えられない。
噛んだところを舌でつうっと舐めて漸く顔を離すと、彼が恨めしそうな顔で俺を睨み付けていた。痛みからか目には零れ落ちそうなほど涙を溜め、羞恥で顔は真っ赤に染まっている。あぁ、もうどうしようもなくかわいい。そんな顔で睨み付けられても寧ろ逆効果だよ。
噛み痕を付けたところは服を着ていれば全く見えないところだ。誰にも見えないところに、俺の痕跡がある。
彼が急いで制服を着直すと、その痕は全く見えなくなってしまった。
「本当に、何でこんな…っ」
「んー…マーキング。みたいな?」
「アホかっ!意味分からんっ!」
「ゴメンゴメン。もう痛いことしないから。ほぅら、俺元気になったよ?澤くんのおかげで」
服の上から俺の歯型があるところを優しく撫でながら、彼に笑いかけた。いつもと同じように笑いかけたつもりだったけれど、鼓膜に届いた自身の声は自分でも分かる程に甘く、情欲に濡れていた。それが彼にはどう映っただろう。未だ必死に抑える欲望の色は、彼には気づかれなかっただろうか。
「こんの…馬鹿ッ!!」
「んっふふ」
あぁ、笑いが止まらない。真っ赤な顔で怒る彼を今すぐめちゃくちゃにしてしまいたい。だけど今は、この痕だけで我慢しよう。
この痕は、俺の自己満足だ。きっと鏡で見つける度に俺を思い出してくれるだろうけれど、こんなものは数日で消えてしまう。
…毎日付けられればいいのに。或いはこんな目に見えるものでなくても、俺という存在が彼の中から追い出せないものになれればいいのに。
赦されるのならば居座りたい。きみの中に。
いや、例え赦されなくても。誰にも譲りたくない。譲らない。
この場所だけは。
…渡さねぇよ。夢の中の「カノジョ」にだって。
散々文句を言い終わってベッドから下りようとした彼をぐいと引っ張ってさっきの体勢に戻し、そのままぎゅうと腕の中に閉じ込めた。
最初は少し抵抗されたが、やがて諦めたのか彼は大きな溜め息を吐いて身体の力を抜いてくれた。
「そばにいてって、言った」
「もう十分元気じゃんか…」
「何でもするって言った」
「言った、けど…。限度ってもんがあんだろ…」
「…ゴメンね。まだ痛い?」
「…いたく、ない。お前、意味が分からない…」
「ねぇ澤くん」
「…何」
「ちゃんと、責任持ってね」
「………へ」
「逃げないで。おれから逃げないで、ちゃんと手綱、握っててね?じゃないと、」
じゃないと、おれ…。
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