「おーい!藤倉ぁ?置いてくぞー」
「…えっ、あぁごめん!待って待って」
澤くんに出会えたのが高校が決まる前で良かった。今こうして並んで帰ることが出来るのも、あの頃の俺からすれば素晴らしい進歩だ。
あの時ただ遠くから眺めていただけの笑顔が、今は真っ直ぐ俺にも向けられている。笑顔だけじゃない。ちょっと怒った顔も呆れた顔も、驚いた顔も気不味そうな顔も、照れた顔も。
澤くんは自分ではあまり表情は変わらない方だと思っているみたいだし実際他の奴らにはクールに思われていることもあるが、俺はそんなことは無いと思う。表情が大きく変わらなくたって、素直な彼は考えていることがストレートに雰囲気に出てる。それを読み取って当たっていた時、彼にまた一歩近づけた気がしてどうしようもなく嬉しくなるんだ。
それに俺は知ってるよ、澤くんの色んな表情。あの頃よりもずっと近くで、誰よりも一番多くの時間を俺と過ごして、俺にしか見せない顔も段々と見せてくれるようになったから。
ねぇ。きみは俺のことを優しいと言ってくれたね。無闇に人を傷つけるようなことはしない、優しい奴だと言ってくれた。それはとても嬉しかったけれど…きみは誤解してるよ、澤くん。
俺は優しくなんかない。そして、とても臆病だ。俺は「俺」が壊れるのが怖い。いつ本当の自分が出てきて、欲に溺れてきみに何をするのか分からないから。
俺からすれば、そんな怪物みたいな奴を何も言わずに傍に置いてくれる澤くんの方が、ずっとずっと優しくて温かい。
あの時、俺はきみにもっと近づきたいと思った。近づいて近づいて、触れ合うほどに近づいて、そうしたら今度は。
…触れるのが、怖くなった。
どこまでも優しい澤くんは俺が何をしても今のところ大抵は赦してくれるけれど、俺はその優しさが怖い。いっそ拒絶されてしまえばいいんだろうか。いや、やっぱりそれは嫌だ。一度でもきみに本気で拒絶されてしまえば、俺はきっともう動くことすら出来なくなってしまうから。
間違えたくない。だけど我慢も出来ない。
結局のところ、俺はどうしようもない。外見はいくら誤魔化せても、中身まではそう簡単には変わることが出来ないんだ。イメチェンはまだ終わっていないし、出来る気がしない。
今まで空っぽだと思っていたところに急に綺麗な清流が流れ込んできたと思ったら、今度はどろどろとしたどす黒い何かに変わって、やっぱり黒いのは流れ去ってまた綺麗な星空を映し出す湖になったりして。
きみに出会ってしまってから、とにかく俺の世界は忙しい。
「感情」というものが空想の生物なんかじゃなかったのだと思い知ってから、俺の中は「澤くん」でいっぱいになった。それは時にとても心地良くて、暖かくて、苦しくて、痛くて逃げたくなって、それでも離したくなくて、離れたくなくて。もう自分でもどうしたらいいのか分からなくなって、このまま感情の渦に抗わずに溺れてしまおうかなんて思ったりして。
なのにそういう時に限って見計らったかのようにきみは俺の手を引いて、迷わず「こっちだよ」って導いてくれる。
正直神様かと思った。けれど違った。ただの人間だった。
あぁ…良かった。彼が神様じゃなくて、俺と同じただの人間で、本当に良かった。
手を伸ばせば届くところに居てくれて、本当に良かったよ。
「今日の藤倉何か変。いや…いつもおかしいけど、今日は静か過ぎて逆に気持ち悪い」
「えぇ、ひどーい…気持ち悪いなんて言われたの初めてだよ」
「そりゃまぁ、そうだろうな」
「騒がしい俺の方が好き?」
「いや、適度でいい。適度で。っていうか、別にしんどいとかじゃないならいいんだ」
「あぁー…。ちょっと待ってちょっと待って」
はぁーっと長い溜め息を吐いてその場にしゃがみ込んでしまった俺の顔を心配そうに覗き込むと、澤くんは「何だいつものか。良かった」なんて安堵している。
あぁもうほら…そういうとこ。そういうとこだよ!俺の中はもう色んな感情が溢れて大変だっていうのに、これ以上無いほどに掻き乱してくれる。
しゃがみ込んだままちらりと顔を上げ、「ん?」と首を傾げる無防備な彼を見つめる。俺は今、どんな顔してるんだろうな。きみの前ではいつも、格好良くありたいのにな…。何せきみがそうさせてくれないから、ちょっと意地悪がしたくなった。
「ははっ。変な顔」
「…っ!」
そう言ってくしゃりと目を細めた彼の腕をぐんと引っ張って、無理矢理抱き寄せた。バランスを崩した彼が怪我しないように、全身で受け止める。するとぼすんっと音がして、二人してアスファルトに倒れ込んだ。
「おっまえ!ここどこだと、」
「家ならいーの?」
「そう言う問題じゃなくてだな、わっ」
ぎゅううっと力を込めて遠慮無く首筋に顔を埋め、肺一杯に彼の匂いを吸い込んだ。いつもは俺が頭を撫でられるけれど、今日は俺が撫でる番。さらさらの短い黒髪を指で梳いて、赤ん坊を安心させるように背中をぽんぽんと優しく叩く。馬鹿な澤くんは俺にされるがままになっている。
本当に馬鹿だ。本気で逃げようとすれば、いつだって逃げられるのになぁ。…本当に、馬鹿だなぁ。
「お前…何か馬鹿にしてるだろ。俺のこと」
「んー?ぜーんぜん。それより何か、眠くなってきちゃうねこの体勢」
「もう気が済んだろ。帰るぞ」
あぁ、折角気持ち良かったのに。まぁ下は固いアスファルトで少し制服を汚しちゃったけど。
澤くんは俺を押し退けて立ち上がるとパンパンッと制服についたゴミを払い、俺の分の鞄も持って「ほれ」と差し出してきた。あぁ、もう何をしてもカッコ良いなぁ。
「………」
「………えと、何かな」
帰り道、澤くんは無言で俺の顔を覗き込んできた。写真撮りたい。だけど目が離せない。
「…いや、さっきより元気になったなと思って」
「あぁ、うん。充電出来たからね。心配かけてゴメン、ありがとね」
「じゅうでん?」
きょとんとした顔も可愛い。
「ねぇ澤くん」
「んー?」
「あ、」
「あ?」
「あー、あの雲、魚っぽい」
「そか?どっちかっていうと鳥だろ」
「ふふっ、あはは」
「何か楽しそうだな?いつもだけど」
「あいしてるよ」なんて言葉の意味は、正直まだよく分かっていない。いつかきみが本心から俺に向かってその言葉を言ってくれたら、本当の意味が解るだろうか。
「さーわくん」
「ん?」
藤倉は右手で犬の形を作って、その口先と自身の唇を重ねた。
傾いた太陽が暗い夜を連れてくる前に、世界に暖かな色を与えている短い時間。ふわりと揺れる猫っ毛が逆光に透けて、黄金に輝く。伏せられた睫毛はやはり長く、艶やかな頬に影を落とした。
澤がその光景にぼうっと見惚れていると、藤倉はそのまま「ちゅっ」と澤の唇に犬の口先を合わせた。
そうして藤倉はそれをもう一度自身の口元に戻し、「ちゅっ」と三度目の口付けをして満足そうに笑う。
「…いや、な、何やってんの」
「んー?ふふっ。なぁんでもない」
やっぱり、おかしなやつだと澤は心から思う。
「さわくん」
「なんだよっ」
「顔、赤いよ?」
「…っ!夕焼けのせいだろっ?!帰るぞ馬鹿」
「ふふっ」
あぁ、すきだよ。あいしてるよ。
それだけじゃ俺の中に広がる世界は伝えきれないけれど、今はそれしか浮かばない。いつかもっとぴったりな伝え方が見つかるといいなぁ。
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