mitei Crescent Moon | ナノ


▼ 5_full moon

猫の後を追って数分、見覚えのある道に出た。ここは僕が何度も何度も通った場所だ。白い姿が曲がった先を追っていくと、今まで無かったはずの曲がり角があった。その先に続くのは、やはり…あの路地だ。やっぱり夢なんかじゃなかったんだ!

僕は夢中で石段を駆け登って、その姿を無数の鏡が映し出した。猫の姿はいつの間にか消えてしまっていたけれど、ここまで来ればもう迷わない。

「ありがとう」と心の中で呟いて、僕は先を急いだ。

空を覆う草木がガサガサと音を立てて、追い風が急かすように僕の背中を押す。一ヶ月以上も前にたった一度来ただけなのに、まるで昨日来たばかりのように記憶が鮮明に蘇る。暫くして、遠くに鮮やかな赤が見えた。

「はあっ、はあっ…」

漸く辿り着いた赤い扉は、やっぱり艶々していてそこだけ新築のようだ。この建物も、以前来た時と何も変わっていない。

しかしやっと辿り着いた扉の掛け札には、「CLOSED」の文字が。彼は居ないのだろうか。そんな、やっとここまで来たのに…。
念のため扉を引いて開こうとするが鍵が掛かっているようで、扉は開かなかった。

留守なのか…。
石段を駆け登ってきたせいで荒くなった呼吸をぜいはあと整えながら、キッと扉を見つめた。折角ここまで来たんだ。会いたい。彼に会わなくては。

僕の頭の中はもう、彼のことでいっぱいだった。

もう一度扉に手をかけて、僕は祈るように呟いた。

「お願いだ、開いてくれ。彼にもう一度会いたいんだ」

ぎゅっと握る手に力を込める。すると掛け札の文字がじわじわと消え、「CLOSED」から「OPEN」に変わった。

あの時と同じような文字。その下の小さな字は、やっぱり読みづらいままだ。文字が変わるなんて普通ではあり得ないことが目の前で起こったが、ここはやっぱり魔法の館なのか。

そんなの今更、どちらでも構わない。ここでは不思議なことも普通に起こるんだ。

僕は迷わず扉を開けた。

「あの、すみません、すみません!…居ないんですか」

扉を開けて勢い良く中に入ったはいいものの、店内は暗く人気もない。
何度か呼び掛けてみるも、「いらっしゃいませ」という待ち焦がれた青年の声も聞こえない。やはり留守なのかもしれない。けれど、扉は開いた。

「すみません!」

しん…と静まり返った部屋の中。いくら声を掛けても反応は無いし、やはり居ないのかも知れない。以前来た時と違って部屋の中は薄暗く、窓から差し込む心細い月明かりが無ければ真っ暗だ。以前来た時はランタンによって暖かく照らされていた品々も、月明かりによって今はどれも青白い。

確かに焦がれた場所だったけれど、あの時とは決定的に違う。今ここには、彼が居ない。彼が居ないと、意味が無い。

古い床をぎいぎいと鳴らして、僕は店内に足を踏み入れた。部屋の中では、ちょうど窓の反対側にあるあの大きな棚が月の光を反射して、ガラスの小瓶ひとつひとつの中の世界まで照らしていた。するとグラデーションに並べられた小瓶の中の一つが、一際不自然に輝いているではないか。僕は小さなそれを手に取って、じいっと覗き込んだ。

その中には、夜空があった。
あの時の、彼が見せてくれた小瓶だ。もう少し目を凝らして小瓶の中を覗くと、中心にはやはりあの三日月があった。三日月はやはり美しく、ぼんやりと暖かみのある光を放っている。その光に誘われるように、あの日のことを思い出す。

彼は僕を太陽に、自分を月に例えた。眩しいほどに輝いているのはどう考えてもあの青年の方だし、僕なんかが太陽だなんてやっぱり烏滸がましい。けれど僕は、あの青年には月の方が似合うと思うのだ。

真っ暗な夜闇に優しく光を垂らして導いてくれる、そんなひと。ぎらぎらと眩しい光ではなく、眠れない夜にふんわりと柔らかく寄り添ってくれる、そんな光。この家に泊まったあの夜、僕は不思議な夢を視た。誰かがずうっと頭を撫でてくれているような、優しい夢。いつもは青年の言い当てた通り固いシングルベッドで縮こまり眠りも浅い僕だけど、あの夜はとても心地良く眠れた。

初めて来た他人の家でぐっすり眠れるなんて、いつもの僕なら有り得ないのになぁ。それはきっと、彼のおかげだ。子供の頃は嗤われているようで好きになれなかった三日月だけれど、今はそれが優しく見守ってくれているように感じる。

やっぱり、綺麗だなぁ。
その場にしゃがみこんでじいっと眺めていると、小瓶の中できらりと一瞬だけ流れ星が流れた。願い事をする前に消えてしまったが、確かに弧を描いて三日月に寄り添ったのだ。

やっぱり…好きだなぁ。

「…好きだな」

気がつけば、声に出ていた。
すると突然、背後から青白い手が伸びてきてぎゅうっと抱き竦められてしまった。

驚き過ぎて声も出なかったが、怖くはない。だって、誰だかすぐに分かってしまったんだから。

「…今の言葉、本当ですか」

あぁ、この声だ。耳元で響いたのは低く凛として、身体中に心地良く響き渡る、月の青年の声。

「…今の言葉って?」

「…き」

「へ?」

「好きって、言いましたよね」

「言いました、けど」

首筋にぐりぐりと顔を寄せられる。爽やかな瑞々しい草の匂いがして、月明かりでキラキラと輝く銀髪が視界の端に見えた。

「やっと、来てくれましたね」

「僕はずっとここに来ようとしてましたよ。だけど、」

「本心から会いたいって、思ってくれて嬉しいです」

久しぶりに会った青年は相変わらず少し会話が噛み合わないようだ。
背後から抱き締めていた手を、小瓶を握る僕の手に重ねてきゅっと力を込めた。僕のより少しだけ大きくて、少しだけ骨ばった綺麗な手。少しだけ冷たくて、気持ちが良い。

青年はその綺麗な手でするすると僕の手を撫でると、漸く少し腕の力を抜いて顔を合わせた。あぁ、やっぱりこの小瓶の中身と同じ夜色をしている。無邪気に再会を喜ぶように細められていたその目が、やがて真っ直ぐに僕を見つめた。
それから青年は少し蕩けたような瞳で僕の頬をするりと撫でると、今度はもう一度ぎゅっと正面から抱き締めてきた。僕はというと、ずっとされるがままになっている。これじゃああの時と何も変わらない。けれど僕も、こうしていたい。

「…聞きたいことが、いっぱいあるんです」

「私もですよ。会えない間、私のこと考えていてくれましたか?」

「え、と…」

「ネクタイを見て思い出してくれたり」

「うっ、それは」

「夜空を見て三日月を探してみたり?」

「あの、」

「…唇をなぞってみたり」

「なっ!?」

見られてたのか?!いやいや、そんな馬鹿な。有り得ない。だって、だって僕はずっとここを探して、それで、…それで。どうしたいんだったっけ。
僕はここに、何をしに来たんだ。彼に会って、何を言うつもりだったんだっけ。

「で、何をお探しで?お客さん?」

背中に回された左腕はそのままに、右手ではゆるゆると僕のうなじを撫でながら青年が聞いた。擽ったいやら恥ずかしいやらで身を捩る僕を見て、うっそりと彼が微笑む。さっきまで冷たかった手に、少しずつ熱が戻り始めていた。あぁ、きっと僕は耳まで真っ赤に染まっていることだろう。

意地悪な彼はきっと、僕が本当に探していたものなんてとうに分かっているに違いない。

「探していたものはもう、見つかりました」

「ふふっ。それは良かった」

「僕、僕ずっとあの時のお礼がしたくて…。あの、これお返しします」

「ネクタイ…。いいんですよ。これは貴方に差し上げたんです。貰ってください。その方が嬉しい」

「でも、やっと会えたのに、」

「会えたのに?」

僕がそう言うと、青年は一層笑みを濃くして悪戯っぽく小首を傾げた。

「あ、会いたかったんです。お礼もしたかったけどそれだけじゃなくて、もう一度、あなたに…会って、それから」

自分でも自分が分からない。彼に会ってどうしたかったのかも、何を伝えたかったのかも分からない。けれど勝手に口は動くし、身体中が震えて、じわじわと目頭が熱くなった。心から思う言葉を発する時、僕は何故だか泣きたくなるんだ。

視界がぼやける。溢れる水が邪魔をして、折角会えた顔がよく見えない。ぱちりとひとつ瞬きをすれば、堪え切れなくなった水滴がつうっと頬を滑り落ちた。するとぱたっと床に落ちるその前に、青年が僕の頬ごと涙を舐め取って言葉の続きを促す。

擽ったいしすごく恥ずかしいことをされたのもあって僕は混乱してしまったが、真っ直ぐに貫いてくるこの瞳の前に僕は為す術もない。

「それから?」

「えと…分からないんです。だけどただ会いたくて」

「ずっと、考えてくれていたんですか」

「…はい」

「ネクタイも…。ずっと持ち歩いて?」

「う、はい…。いつ会えてもいいようにって」

「本当にそれだけ?」

夜色の瞳は、何もかもお見通しなんだろう。ずるいひとだなぁ。

「離したくなかった…。どうしても、忘れられなくて。その、あの…あなたの」

「私の?」

「…すべてが」

笑顔が、匂いが、体温が…。この一ヶ月以上何度も何度も反芻して。ずっと僕から離れなかった。…いや、離したくなかったんだ。

今僕は一体どんなに醜い顔をしているだろう。月の明かりを背にした青年の表情は暗くてよく見えないけれど、夜色の瞳がしっかり僕を捉えているのが分かる。僕の目にはまた涙が溢れてきて、再び視界がぼやけてしまった。瞬きをする度にそれは流れ落ちて、何度も頬を伝ってはぱたぱたと古い木に染み込んで溶けた。
もう子供でもないのに、こんなにぼろぼろ泣くなんて情けない。情けなくて恥ずかしくてしょうがないのに、止まらない。気がつくと背中に回されていた腕はいつの間にか解かれていた。彼は濡れている僕の両頬をそっと包み込むように持ち上げると、親指で何度でも伝う涙の跡を拭った。そうしてうっそりと微笑みながら、言った。

「ふふっ。きれいだ…どうしてこんなにきれいなんだろう…」

「?」

視界が夜の色でいっぱいになると、唇にいつかの感触が再び与えられた。けれど今度は一瞬じゃなくて、もう少し長く、熱い感覚。少ししょっぱいのは、きっとさっき青年が舐め取った僕の涙の味だ。

静寂の中に響く水音。一体どれくらい経ったのだろう。漸く唇が離されると、僕は身体の力がすっかり抜けてふにゃっと彼に寄り掛かった。疲れと安心からか、急にすごい眠気が襲ってくる。

頭をぽんぽんと撫でられる。あぁ、あの時の夢の中と同じ感覚だ。銀色の髪が少し頬に当たって擽ったいけれど、彼の服をぎゅうっと握ったまま僕は瞼を閉じた。

「あぁ。すきだ。すきです。…貴方ほど美しいものなんて、知らない。これまでも、これからも」

何か聞こえる。青年が何か言っているようだけれど、意識が沈みかけている僕には良く聞こえなかった。深い海底から、地上の声を聴いているかのよう。ただ、今はこうしていたい。目覚めてもどうか、彼が傍に居ますように。

その願いを込めてきゅっと彼の服を握る力を強め、そのまま眠りについた。

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