mitei Crescent Moon | ナノ


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「あのー、何ていうか、めちゃくちゃお世話になりました。あんなに美味しいご飯にお風呂に、ふかふかのベッドまで…」

「いいんですよ。私がやりたくてやっただけなんで。時間も遅かったし、あのままじゃ適当にカップ麺とかで済ましてシャワーだけ浴びて固いシングルベッドで寝たりしてたんでしょ?」

うっ…当たっている。確かに残業帰りにご飯を作る気力なんか無いし風呂なんてもっての他だ。だから昨日はとてもリラックスすることが出来た。お風呂に足を伸ばしてゆっくり浸かるのも久々だったし、風呂上がりに彼が用意したと言う晩御飯もイタリアンレストランのようでどれも絶品だった。その上寝間着もスマホの充電器も貸してくれて、寝るときにはまるでホテルのようなふかふかのベッドがある部屋まで用意してくれていた。

いや、ちょっと待ってちょっと待って。一旦落ち着こう。やっぱりおかしくない?何故僕は、知り合ったばかりの謎の青年にこうもお世話されているんだ?そしてこの台詞は何度目だ?

何故だか余りにもナチュラルに彼の言うことを聞いてしまう。怪しいとは思いつつも、時折見せる彼の笑顔が心から嬉しそうに見えて、何だかこっちまでほわほわした気持ちになってしまうのだ。そうしてどんどん流されてしまう。僕はこうも流されやすい人間だったのかと、またもや自分で自分が心配になった。

二階の生活スペースへと連れていかれたあの後、何故だか青年は色々と世話を焼いてくれようとした。柔らかい大きめのソファに座るよう僕を促してから温かい紅茶を入れ、小腹が空いているだろうと美味しいクッキーまで用意してくれた。

まさかこんな貧相な僕からお金を盗ろうなんて思わないだろうし青年にそんな下心があるとは到底思えなかったが、只の客にここまでされる理由が分からない。もしかしてホテルもやってるのかと思い聞いてみると別にそういうわけではないらしく、僕が通されたのは本当に青年が毎日生活しているプライベート空間らしかった。

勧められるがままに紅茶やクッキーを頂きながらも、これ以上世話になるわけにはいかないと、帰る機会を窺っていた。「せめてお金を払う」と言っても頑なに聞き入れてくれないし…。流石に悪いと思った僕が「帰ります」と席を立とうとすると青年は途端に凄く悲しそうな顔をした。捨てられた子犬…みたいな。その顔が余りにも可哀想で、もう一度ボフンとソファに座り直す。何度か同じようなやり取りを繰り返し、結局泊まらせてもらうことにした。僕と話す青年は本当に楽しそうで、本音を言うと僕もこの時間を壊したくなかった、というのもある。

まぁ、こんな大きな家に一人で暮らしているようだったし、もしかしたら淋しかったのかもしれない…。人通りもなくてお客さんも居ないなら、話し相手が欲しかったのかも。そう考えると余計に帰りづらくなったのだ。

しかし流されやすいにも程があるぞ、自分…。

朝起きると、僕が昨日着ていたスーツもシャツもアイロンがかけられてピカピカになっていた。朝御飯といいスーツといい、彼の完璧なもてなしっぷりに僕はもう言葉も出ない。高級ホテル顔負けである。

本当に昨日と同じスーツなのか疑いたくなるほど綺麗になった袖に腕を通し、鞄を持って出勤の支度をする。
他人の、しかも昨日知り合ったばかりの人の家からの出勤なんてもちろん初めてのことで変に緊張してしまう。

今度何かお礼しなくちゃ。昨日青年にも散々お礼は何がいいか聞いたけれど、「好きでやってるからいらない」の一点張り。だけれどここまでお世話になっておいて、そういうわけにもいかない。昨日一晩話していて唯一分かったのは、青年は夜が好きなのだということだけだった。それだけじゃお返しのヒントとしては余りにも心許ないが、またここに来るまでに何かゆっくり探してみよう。

そんなことを考えながら一階に降りて赤い扉へ向かうと、後ろから爽やかな声が飛んできた。

「あ、ちょっと待って。せめてネクタイだけでも替えていかないと」

「え?でも、」

「ちょっと失礼しますねー」

「え」

そう言って鮮やかな手つきで僕の安いネクタイをするりと外すと、彼は別のネクタイを結んでくれた。深い夜色の、生地からしてとても高そうなネクタイだ。深い夜に朝が近づくように、濃い青から浅い翠がかった青へと少しだけグラデーションになっている。そしてワンポイントで、裏側に小さく三日月のマークが入っていた。

「あの、これは?」

「貴方にピッタリかと思って」

「いやいやそんな!お借りするわけには」

「いいんですよ。ネクタイまで同じだと、何処かで酔い潰れて朝帰りでもしたのかと思われちゃいますよ?特に女性はそういうのに鋭いですからね」

「はあ…ありがとうございます。ではまた来た時にお返しします」

僕がそう言うと青年は何も言わず、少しだけ目を見開いた。それからとても嬉しそうに笑った。大人っぽい妖艶な微笑みとは全く違う、心から嬉しそうな、少しあどけない笑顔だ。

ずぅっと欲しかったおもちゃを買ってもらえた子供の無邪気な笑顔、という例えがぴったりかもしれない。

「では、行ってらっしゃい」

「えと、行ってきます…?」

自宅ではない所から、普段は着けない高級な夜色のネクタイを締めて会社へ向かう。本当に変な気分だ。

緊張で少し強張った右手が、赤い扉に手を伸ばす。本当に不思議な一晩だったなぁ。ここを出ると、また現実に戻るのかな。いや、そもそもこれは現実なのかな。なんて、馬鹿げたことを。だけどそれくらい、夢のような一時だった。

正直離れ難いけれど、会社に行かなくては。すると扉を開いて外に出ようとする僕の身体を、もう一度引き止める彼の声がした。

「ちょっと待って」

何だろう。忘れ物かな。振り向くのとほぼ同時に、唇にふにっと柔らかい感触。
一瞬のことで何が起きたのか分からなかったけれど、数秒して漸くキスされたのだと理解した。唇と唇が軽く触れ合うだけの、バードキス。一秒にも満たない、本当に軽いキスだった。

「今はこれだけ、許してください」

緩やかな三日月形の唇に軽く人差し指を当ててウィンクし、悪戯っぽく微笑む青年。彼の動きに合わせて、銀の髪がさらりと揺れる。朝陽のもとではまた違った輝きを見せるそれは、風と共に一瞬だけ僕の頬を擽って離れた。

「………え、あ、今…あ、あの?!」

何をされたのか理解した瞬間、顔に一気に熱が集まるのを感じた。行為の名前は理解出来ても、青年の意図は一向に理解出来ずに困惑する。

…何でこんな僕に。はっ、もしかして…挨拶か?外国の挨拶の一種とかか?!

混乱したままの僕を見て青年はふっと目を細めると、優しく、本当に優しく僕の頭を一回撫でて宥めた。

…確か今日視た夢の中でも、こんな風に誰かに頭を撫でられていた気がする。

この数時間でもう何度も見た青年の笑顔は本当に柔らかで、愛しいものでも見ているかのようなその甘さにまるで自分が愛されているかのような錯覚に陥ってしまう。

「…また、お越しくださいね」

青年が手を離した。静かに唱えられた言葉はまるで呪文のようで、すっかり青年と同じ匂いになった僕の身体にゆっくりと広がり、すうっと深くまで染み込んでいった。

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