ガシャンッ
「………は?」
聞き慣れない金属音と冷たい感触がして右手を見ると、そこに銀色の輪っかが鈍く光っているのが目に入った。そして安っぽい鎖で繋がれたその少し先には、細く滑らかながらも男らしく骨ばった、見慣れた手が同じ輪っかに収まっているのが見えた。
俺のより少し大きい、藤倉の左手。
シャーペンを握っていた筈の俺の右手はいつの間にか意味の分からない変態、藤倉によって手錠をかけられていたのだ。
いや本当に意味が分からない。
さっきまで普通に課題をしていたはずなのに、何故こんなことに。
俺が藤倉の家に来たのは今回で二回目。
数学が苦手な俺はいつもより少し多目に出された課題にうんざりしていた。すると帰り道、突然「今日俺の家で勉強会しよう」と誘われた。
日々の奇行で忘れがちだがそういやこいつ、藤倉は頭良かったんだったな。「分からないところ、教えてあげるよ」と言われた俺は深く考えずに二つ返事で承諾した。
再び訪れた藤倉の部屋は相変わらず無駄に大人びていて、静かだった。
色合いも落ち着いていて、白くふかふかなベッドや必要最低限の家具はあるが相変わらず物が少ない。生活感の代わりにある種の無機質さがあり、まるでホテルの一室みたいだ。壁一面を覆い尽くす程の大きなクローゼット(らしき扉)があるが、あそこには何が入ってるんだろう。どうせ参考書とかお洒落な服とかだろうな…。
だけど以前来たときには無かった大きめのビーズクッションみたいなのがベッド脇にあるのを見つけ、藤倉に促されるまま俺はそこに腰かける。そこは気を抜くと寝てしまいそうなほど気持ちが良く、襲い来る眠気と戦いながらも俺は課題の用意をした。
藤倉はローテーブルを挟んで向かいに腰掛け、少し眠そうな俺にいつもより更に柔らかな笑みを向けながら持ってきた紅茶を置き、同じく課題を取り出した。
勉強中ほとんど雑談はせず、分からないところがあれば一応自力でやってみるがそれでもやっぱり解けない時は藤倉に聞いた。
すると藤倉は自分の手を止めて、丁寧に解き方を教えてくれるのだ。
そんな感じで部屋でくつろぎつつ、暫く二人で課題をやっつけていた。
藤倉の教え方は結構、いやかなり上手く、苦手なところも言われた通りのやり方ですんなり出来るようになった。複雑なことを簡潔に分かり易く噛み砕いて伝えてくれるおかげで、分からなかった問題までスラスラ解けてまるで俺まで頭が良くなったみたいに錯覚してしまう。
この分なら応用問題も何とかなりそうだ。
問題が解ける度、嫌いなはずの数学が何だか楽しいもののように思えてくる。
…家庭教師の才能もあるのか、こいつ。
同じ時間からスタートしたはずなのに藤倉は自分の課題はいつの間にか終わらせていて、隣に移動しては俺の分からないところをひたすら丁寧に教えてくれていた。
ふざけたいつもの感じとはまた違う、少し真剣な眼差し。何だか新鮮で、見入ってしまいそうだった。
淡々と流れる穏やかな時間。
まだ二回しか訪れていないこの部屋も、嗅ぎ慣れた匂いで満ちていて落ち着くし何故だかとても居心地が良い。懸念していた課題も思ったより早く終わりそうだし、背中のクッションも俺の身体にぴったりフィットして気持ちが良いし出されたチョコチップクッキーも俺の好きな味でめちゃくちゃ美味い。
だから俺は、油断した。
忘れていた。藤倉がちょっと、いやかなりスキンシップが激しめのおかしな奴だってことを。
そうして冒頭の効果音に戻る。
「………何、これ」
「なーんでしょ?」
「え、ちょ、待って何コレ?え、て、手錠?何で?俺何か悪いことした??」
「んー強いて言うなら窃盗かな」
「はああ?!何も盗ってねーよ!てか何でこんなもん持ってんの?」
「ド○キで買った」
何用にだよっ?!
「ちょ、お前ふざけんなよっ!これじゃあ課題出来ないじゃんっ」
「もう八割くらい終わってるから大丈夫だよー。やり方は大体分かったでしょ?休憩休憩ー」
そう言って藤倉は俺と繋がれた手を上げて楽しそうにブラブラと揺らした。自然と持ち上げられた俺の手は少し大きな手によってぎゅっと握られてしまう。
「いやいやいや、休憩って!手錠される休憩なんて聞いたことねぇよ?しかもこれ、くっそ…!絶妙に抜けない…!はぁあ…もう…」
手錠から手を引っこ抜こうとするもギリギリ抜けそうで抜けない大きさで、何度か試してみたがやはり無駄だった。
俺はもう半ば諦めて、自由な方の手でチョコチップクッキーを手に取った。
ちくしょう、やっぱ美味い…。
「さーわーくんっ」
語尾にハートか音符でも付きそうな声音で藤倉が微笑みかけた。
「…なに」
「これ、欲しい?」
チャリ、と軽い音を鳴らして見せられたのは小さな鍵のようなもの。恐らくこの手錠の鍵だろう。
「…っ!よこせ!」
それを見た途端バッと自由な方の左手で掴み取ろうとするが、腕の長さの違いもあって届かない。何度奪い取ろうとしても、飄々とかわされてしまった。しかも俺が鍵を取ろうと必死になればなるほど必然的に互いの身体は密着し、抱き合ってこそいないがほとんどぴったりとくっついた状態になる。
そう仕向けているのか分からないが、藤倉は後ろに後ろにと鍵をかわしていく。そうすると俺は前のめりになるしかないのだから、これはもう絶対確信犯だろう。
「ふっふふ、がんばれー」
そんな変態、藤倉は必死な俺を見てとても楽しそうに笑っている。マジで本当に楽しそうだ。心なしかその視線には小さな子供を見守るかのような慈愛さえ感じられる。くっそ。
届かないからってからかうのもいい加減にしろよ、腹立つな。
すると藤倉がすっと立ち上がり、つられて俺も立ち上がるとまた同じような攻防を続けた。
折角立ち上がったんだからジャンプすれば届くんじゃないかと何回か試みるが、やはり届かない。届きそうになる度にやはり飄々とかわされてしまうのだ。
そして鍵を取るのに必死なあまり気付かなかったが、手錠で繋がれた方の俺たちの手はいつの間にか恋人繋ぎでぎゅっと繋がれていた。
「…こっのやろ!舐めてんのか!」
「え?舐めていいの?」
「はぁ?いいわけな、ぉわっ!」
ドサッと大きめの音を立てて視界がぐらりと揺らいだ。と思ったら、少し硬い感触がして嗅ぎ慣れた匂いがより強く鼻腔を掠める。鍵の取り合いをしているうちに足を滑らせたらしい藤倉がベッドに倒れ込み、つられて俺も倒れ込んだのだ。
絵面的には、まるで俺が藤倉を押し倒したようにも見える。
勢いで俺は藤倉の胸元にダイブしてしまったらしい。少し見上げると整った顔をへにゃりと歪めて笑う変態、藤倉の顔。
こいつ、わざとじゃないのか…。
そう疑わざるをえないほど、ふと見上げた藤倉の表情は柔らかで幸せそうなものだった。
「鍵、もういいの?」
藤倉の右手で小さな金属がユラユラと揺れる。
「ふざっけんなよこせ!」
「ふふふっやぁだ」
本っ当に幸せそうに笑うもんだから、何だかそれ以上文句も言えずに俺まで恥ずかしくなってしまう。
しかしこの鍵が無きゃ手錠は解けないし、ずっと繋がれたままだ。それは困る。課題終わってないし。
そうして何回か試みるも、やっぱり届くわけがなかった。
俺が手を伸ばす度に必然的に顔が近づく。
ふと真下を見ると少し色素の薄い、榛色の双眸と目が合った。
花が咲いてるみたいな、綺麗な瞳。
すると俺と目が合った瞬間、さっきまであんなに楽しそうに笑っていた藤倉が急に真顔になった。
え、と思ったのも束の間。
気付けばトサリと軽い音を立てて、何故だか背中に柔らかく沈む感触がして、天井からの眩しい照明は少し大きな影で隠されていた。
…デジャヴだ。
いつの間にか俺は藤倉に、押し倒されていたのだ。
俺の右手はおもちゃの手錠と藤倉の左手で拘束されたまま、自由であった左の手首も奴の右手によっていつの間やらベッドに縫い付けられていた。
まともに思考する間もなく、細められた美しい瞳がどんどんと近づいてくる。
さらりと柔らかい猫っ毛が揺れて俺の顔を擽る。
く、くるかっ…?
そう思って、咄嗟にぎゅっと目を閉じてしまった。意識せず身体がピクリと跳ね、その振動を柔らかいベッドが吸収する。
どくどくと五月蝿い心臓の音。絶対こいつにも聞こえてしまっているんじゃないだろうか。
「………?」
しかし暫くしても唇には何の感触もなく、思っていた事態は起こらなかった。その代わりにカシャッという軽い音と、ふふっと悪戯に漏れる吐息が聞こえてゆっくりと目を開ける。
「おま、撮ったな?!」
「だって、ふふっ、こーんな顔真っ赤にしちゃってさぁ!はぁ…かぁわいい…」
「なっ!こんの野郎、からかいやがって…消せよ!」
「やぁだよ」
上体を起こして抵抗するも、やっぱり届かない。鍵もスマホもひょいとかわされてしまった。身長の違いもあるだろうが、腹立つ。
すると俺の手の届かない場所にスマホを置いた藤倉は再びボフッと俺を押し倒し、のし掛かってきた。藤倉は俺の肩口に顔を埋め、「はぁーーー」と何故か大きな溜め息を吐く。
「ちょ、なぁ重いんだけど?」
「…もうちょっと」
「お前の髪、擽ったいんだけど?」
「…もうちょっとだけ、このまま」
「はぁ…。別にいいけど、どんぐらい?」
すうっと肺一杯に空気を吸い込むようにしてから、藤倉は言った。
「…この匂いが移るまで」
…相変わらず意味不明だ。
俺はもはや考えるのを放棄し、拘束が解かれ再び自由になった左手で柔らかい猫っ毛をわしゃわしゃと撫で回した。
さっきまでの仕返しも込めて、出来るだけ髪型が乱れるように。
「お前ってさぁ、」
「んー?」
「地毛なの?この色」
前々から気になっていたこと。元ヤンであることは話してくれたので、気になっていた髪色のことも聞いてみることにした。
本当に、ただ何となく。
「んー…わかんない」
「分かんないって…なんで」
「色落ちした。高校入るときに、暗くなるように染めてから」
「じゃあ、中学の時は染めてたのか?」
「まぁ、ちょっとね。たぶん、たしか…」
眠いのか、もごもごとくぐもった声が耳元で聞こえる。
「金髪とか?」
「そこまでではないけど…」
「で、何で高校で暗くしたの?」
「………こわがられるかと、おもって」
ほほう。所謂逆高校デビューってやつかな。ピアスも外してるし、そこまでして友達欲しかったのか、こいつ。
「で、結局今の色は普通より明るめだけど、これが元の色に近いってこと?」
「んー…たぶん」
まぁ全体的に色素薄いもんなぁこいつ。俺は髪なんて染めたことがないから色落ちとかの原理がよく分からないけど、今のこいつの髪色が地毛の色に近いらしいことは分かった。多分。
「なぁ、そろそろ重いんだけど」
俺がそう言うと藤倉は漸くのっそりと密着していた上体を起こした。ベッドに仰向けになった俺の上に藤倉が跨がったような体勢で、相変わらず片方の手は繋がれたままだ。
俺が掻き乱したせいで、髪型はぐちゃぐちゃ。柔らかな毛先が四方八方に跳び跳ねている。
寝起きみたいで微笑ましく思っていると、ボサボサの前髪から一瞬ちらっと覗いた瞳がぎらりと強い光を宿していることに気付きどくんと心臓が跳ね上がった。
見たことある、この感じ…。
ぼうっとしてるのか眠いのか、いつものヘラヘラした状態とは少し違う雰囲気を纏った藤倉を前に俺は再びビクッと肩を震わせて固まってしまった。
恐怖…とかじゃなくて、驚き…でもなくて…。何て言うかこう、催眠術にでもかけられたみたいに身体が言うことを聞かなかった。
捕食者に捕らえられた獲物、みたいな…。
いや、それならば恐怖心か?
藤倉は別に怖くはないけど、…そう、怖くはないはずなのに、なんか、やっぱ今は怖い。日本語がおかしい気がするが、とにかく俺はまたその光から目が離せなくなった。
そんな俺の心境を知ってか知らずか、藤倉は暫くぼうっと鋭い眼光を宿した瞳で俺を見下ろしていた。が、やがて少し長めに瞬きし、ボサボサになった髪を手櫛で戻してからもう一度俺を見た。
「ふふっ。やっぱ落ち着くなぁ澤くんの匂い」
「はぁあ?何言ってんだマジで」
再び目を開けた時にはもう、いつもの通りのふにゃっとした柔らかい表情に戻っていた。その表情を見て正直ちょっと、安心した。
そして気づく。
そっか。さっきまでの彼はよく知ってる人のはずなのにまるで別人のようだったから、少し怖いように感じてしまったのだろう。多分。きっとそうだ。
たまにあるんだ。
藤倉が別人みたいに見える瞬間が。
元ヤンって言われたって藤倉は藤倉だし別に怖くも何ともないけれど、そういうのじゃなくて、ふいに何を考えているのか分からなくなる時がある。
いや、こいつが何を考えているのか分からないなんていつものことだけれど、普段ヘラヘラしているやつが突然真顔になるともしかして怒らせてしまったのか、或いは何か傷つけたりしてしまったのではなんて不安になる。
いつものヘラヘラしている藤倉に対してならばそんな不安は抱かないだろう。しかしたまにこう真剣な顔をされると、こいつが考えていることが分からない、ということが何故か酷く不安になるのだ。
相手の考えていることを全て把握したい、なんて傲慢なことを望んでいるつもりはない。ない、つもりなんだが…。
「…さーわくん」
「…なに」
「こわい?」
「え、」
見透かされた、のかもしれない。
藤倉はいつも通りのへにゃっとした笑みを浮かべ、手錠で繋がれていたままの奴の左手と俺の右手を持ち上げてゆらゆらと揺らした。
「ほんとはね、」
「…うん」
「ずぅっとこうして繋いでいられたらなぁって、おもうよ」
「………は」
そう言った彼の目に光は宿っていなかった。何を言っているのか、理解が出来ないし考えるのも追い付かない。
ただ何かひやりとした感覚が一瞬だけ背筋を走った。
何て反応すればいいのか分からない。
俺が藤倉から目を逸らしておどおどしていると、不意に右手からカシャンッと軽い金属音が鳴った。見ると、手錠が外れ俺の右手は自由になっていた。
「なぁんてね?冗談冗談っ」
「ふ、ふじく、ら…?」
発言の意図を考える間も与えず、彼は俺をベッドから下ろして再び机の前に座らせた。
「じゃ、俺もっかい紅茶淹れてくるね」
藤倉はそう言って部屋を後にする。
さっきまで安い手錠で繋がれていたところは、痛くはないが少しだけ赤い痕が残っていた。
背中にぴったりフィットするビーズクッションに身体を沈めながらさっきまでのやり取りを繰り返し思い出すが、靄がかかったみたいで何もはっきり分からない。
もう一度残っていたチョコチップクッキーをかじってみたが、味がよく分からなかった。おかしい。さっきは美味かったのに。
粉が付いて、拭おうと唇を触る。
するとあの瞬間、ひっくり返されて顔が近づいた瞬間を思い出して、何故か今頃になって顔が熱くなるのを感じた。
「いやいやっ、別にして欲しかった訳じゃねぇし…」
思い出されるあの感覚。
自分に言い聞かせるような独り言は広い部屋の中にすっと吸い込まれていった。
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