「俺もっとおにいさんと一緒にいたいなぁ」
その一言で、夢から醒めたようにハッとした。
もっとふたりでこうして歩いていたい。そう言って彼はへへっと子どもらしく無邪気に笑った。柔らかな風が吹き抜けて、僕と彼の髪を揺らして去っていく。
分かっていた。「死」に近づきすぎた人間には僕が認知できるけれど、彼の寿命はまだまだ先だ。彼が僕を見ることが出来たのは、生きることに執着が無かったからだ。
しかし今、彼は「いなくなる」こと以外の欲望を口にした。つまり、「生きること」への執着。
何かをしたいということは、そこに存在しなければ成し得ないこと。欲望とは人間たちの間で時折悪い言葉のように使われるが、何かを「したい」という欲があるからこそ生きられる。
それが無ければ、生きる屍のようなものだ。
そうして彼が今口にしたのは、「生きる気力」。
「...僕も、もっとこうしていたかったよ」
握る手の温かさはさっきと変わらないまま。だけど心なしか、さっきより冷たく感じる。
「離したくない」なんて言ったら、彼は一体どんな顔をするだろう。少し困った顔をして、だけどすぐに子供らしい笑みを浮かべて「いいよ」なんて言うんだろうか。例え彼が許しても、それが許されないことであることは嫌というほど分かっていた。
だって、彼は忘れてしまう。
たった今「生きる」ことを願った彼は、もうすぐに僕の姿が見えなくなってしまうだろう。
僕が見えるのは、「死」に近づきすぎた人間だけ。彼に僕が認知できなくなるのは本当は喜ばしいことのはずなのに、この数時間で余計な重りをたくさん抱え込んでしまった僕にはそれが耐え難いことのように思えた。
「...おにいさん?」
黙り込んでしまった僕を心配したのだろう。彼がおずおずと、俯いた僕の顔を覗き込んできた。
「だいじょうぶ?どっか痛いの?」
「...ううん。大丈夫」
痛い。本当はすごく痛い、気がする。
痛いなんて感覚は今まで味わったことが無かったけれど、きっと今胸に重くのしかかるこれが、胸をぎゅうっと締め付けるこれが「痛い」ってことなのかな。
「おにいさん、おれね」
「うん」
「おにいさんのことすきだよ」
「うん。ありがとう」
「でね、」
「うん」
「ばあちゃんのこともすきだよ」
「...うん」
「ばあちゃんにはね、笑っててほしいの」
「分かるよ。だいすきなんだね」
「...うん。うん。だいすきなんだよ」
「僕も、きみには笑ってて欲しいよ。だけどさっきまでのきみの笑顔は、あまり好きじゃないから」
「うん」
「もう自分が必要ないみたいに思わないで。きみのおばあちゃんもきっと、きみが必要だよ」
「...うん」
彼には笑っていて欲しい。本当に、そう思うから。
何もかも諦めたような笑顔じゃなくて。不安にさせるような笑顔じゃなくて。
僕と手を繋いで歩いたあの時の、本当に楽しそうな、心から幸せそうな笑顔でいて欲しいんだ。
「じゃあもう、ここからいなくなろうなんて思わないでね」
例え僕を忘れても、お願いだから笑っていて。
そろそろ日が沈む。少しずつ傾き始めた太陽は段々と世界をオレンジ色に染め、どこからか冷たい風を運んでくる。もうすぐ夏が来るとはいえ、朝晩は人間にとってはまだ冷えるみたいだ。
風が吹くと隣の小さな彼が少し身を震わせた。
「…そろそろ帰ろう」
僕は早く小さな少年を人のいるところまで連れて行って、この手を離さなければならない。
それでも僕らは人里から離れた深い山道まで来てしまっていたから、僕は歩くよりうんと速い手段で彼を運ぶことにした。
軽い体をひょいと抱き上げると、思い切り地面を蹴った。まだ足に残る湿った土の感触が名残惜しい。ぐんぐん高度を上げて、山一面が見渡せるぐらいの高さに来た。小さな少年は何が起こっているのか分からないらしく、震える手でぎゅっと僕の首にしがみついている。
「ちょっと怖いかもしれないけれど、我慢してね。怖かったら遠くを見て」
僕に言われると、少年は恐る恐る顔を上げて大きく丸い目を開いた。沈みゆく太陽が真ん丸い瞳に映し出され、きらきらと輝くそれは世界で一番の宝石になった。
「う、うわぁあ...!!!」
僕の服をぎゅっと掴みながら彼は耳元で幼い声ではしゃぐ。「すごい!すごい!!夢じゃないよね!?」と何度も繰り返し、目の前の光景を焼き付けるように何度も瞬きをした。
「オレンジと、紫と、濃い青色と、それから、山の緑色。色がたくさんある!」
太陽を背にして飛んでいる僕の眼前には夜を連れた深い青色が広がっているが、僕の肩越しに反対の景色を見ている彼にはカラフルな世界が見えているみたいだ。今まで似たような景色を何百回何千回と見てきた気がするけれど、彼の見る世界はきっとすごく綺麗なんだろうなぁ。
「おにいさんは、いつもこんなすごいの見てるの!?」
興奮気味に彼が聞いてくる。
「まぁね。そんなに気にしてなかったけど」
ここまで綺麗だと思ったのは、初めてだよ。
自分の背中にあるものにこれほど感謝したことはない。だってこれのおかげで彼はこれ以上外で寒い思いをしないですむのだから。彼がここまで喜んでくれるのならば、何時間でも何日でも飛んでいられる気がした。
そう思うけれど、実際にはしない。彼には待っているひとがいるから。僕はそのひとの元まで彼を送り届けなくてはいけない。
ふわりと慎重に着地して、開けた道路にゆっくりと彼を降ろした。ここならすぐに他の人が見つけてくれるだろう。
するりと、手を離す。
「おにいさん。俺を見つけてくれて、ありがとう。少ししかお話してないから信じてもらえないかもしれないけど、だいすきだよ」
「うん」
「俺もおにいさんには笑っててほしいんだ」
「…うん」
「だけどね、おにいさんのその目は嫌だよ。すっごくきれいなのに、俺と同じ目してるの」
「同じ、目…?」
彼が何を言いたいのか分からず、鏡でも覗き込むようにじいっと大きな真ん丸い瞳を見つめ返した。
「寂しいって、目」
どくりと、身体の中心であるはずのないものが跳ね上がるような感覚がした。
「俺、俺ね、もっと大きくなったらおにいさんのこと迎えに行くよ。何処にいるか分かんなくても探して、ひとりじゃないよって言ってあげるの。おにいさんがしてくれたみたいに、ちゃんとお返しするから。だから、それまで…」
小さな唇が動いて一生懸命言葉を紡ぐ。僕はその光景から目が離せなかった。
「待ってて」
どくり、と。
今度は確実に身体の中心が波打つのを感じた。この時初めて、僕の中に、「僕」が生まれたんだ。
きみはきっと忘れてしまうんだろう。僕と出会ったことも、一緒に手を繋いで歩いたことも、確証のない約束をしたことも…。
だけどこれら全てが、これからの僕の存在する理由にはあまりにも十分だったよ。
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