僕の姿が見えるのは、「死」に近づいた人間だけ。
死期が近かったり、事故などで「死」を強く意識したり、例外的に生まれたての赤ん坊でも僕が見える者はいる。
それでも大抵はすぐに見えなくなってしまうのだけど。
その日は何となくぼうっとしたくて、背中のものを小さく畳んで木の上で座り込み遠くを眺めていた。
すると背後でがさっと草を踏む音がして、ぼんやりしたまま振り返る。野生動物だろうか。ここは結構山深い場所だから、生き物の気配と言えば鳥や虫やイノシシなどの獣くらいだろう。
見ると、そこに居たのはイノシシでも熊でもなく人間の子供だった。珍しい。こんな奥深い場所で、こんな人間の子供がいるなんて。どこかから迷い込みでもしたのだろうか。
どちらにせよ、僕には関係無い。見たところ彼の寿命はまだまだ残っているし、僕の出る幕じゃないだろう。きっと誰か大人が直ぐにこの子供を捜しに来て、連れ帰っていくのだろうな。
そう思って再び遠くの景色に視線を戻した。すると、背後の子供が「あっ」と間抜けな声を出した。
何だ、転びでもしたのか。
くるっともう一度彼の方を振り返ると、バチッと視線が重なる。いや、そんなはずはあるまい。重なった気がした、の間違いだ。だって例え視える種類の人間であったとしても、これ程の年齢になれば...。
しかし暫くしても少年は視線を動かさない。じいっと子供らしい真ん丸い瞳を見開いて僕の顔がある方を凝視していた。
「すっごく...綺麗...」
見上げたままの彼はぼそっと呟いて、一歩一歩僕のいる木の下まで近づいて来る。
まさか。いや、ありえない。
「ねえ、おにいさん迷子なの?」
「っ!?」
決定的だった。見えている。どうやらこの子には僕の姿がはっきりと見えているようだった。彼は変わらず不思議そうにずっと僕を見つめたまま、やがてにこっと微笑んだ。
その笑顔に引っ張られるように木から降り、少年の元へ近づく。本来ならば不必要に人間に関わることはないのだが、何せ僕の姿が見えているらしいこの少年をこのまま放っておくことは出来なかった。
木の根元でポスッと体育座りしている彼の隣に、僕も無言で座り込んだ。
暫くの沈黙が流れる。
「おにいさんは、迷子なの?」
「違うよ。ちょっと休んでただけ」
「…そっか。良かった。さびしいもんね、迷子って」
彼の発言が、何となく引っ掛かった。
「きみは、こんなところで何しているの」
「いなくなりたくて」
「…え?」
一瞬、耳を疑った。しかし聞き間違いではなかった。
「俺ねぇ、ここからいなくなろうと思ってるんだ」
ぼそっと、小さな彼が呟く。
そう話す目の前の少年の眼差しには一点の曇りもなく、子どもらしい無邪気な笑みを浮かべている。今まで何人もの死が僕の横を通り過ぎていったが、真っ直ぐにそう告げる少年の瞳を見て初めて僕の中に何かが生まれた。
鼓動など無いはずの胸がずくりと重くなり、初めてのその感覚にしばし戸惑う。
どう答えていいか分からず困惑する僕を余所に、少年は淡々と続けた。
「俺がいなくなったら、ばあちゃんももっとゆっくり休めると思うんだ。家事も少なくなるし、もう近所の人から変なこと言われなくて済むし、お金だってもっとせつやくできるし、」
だからね、いなくなろうと思うんだ。
まるでこれから公園にでも遊びに行くかのような明るさと無邪気さで、少年はただ笑う。
彼は自分の言っていることが本当に理解できているのだろうか。ただの子供の単純な思い付きではないだろうか。しかし無垢な瞳の奥に見える僅かな揺らぎが、少年の言う「いなくなること」が死を意味していること、彼はそれをはっきりと自覚していることを表していた。
何よりこうして僕の目を見て、はっきり僕の存在を認識していることが彼が「死」を意識しているという動かぬ証拠だった。
「おにいさんにひとつお願いがあるんだけどね、」
「...なにかな」
「俺がいなくなったら、ばあちゃんが俺のこと忘れるようにしてほしいんだ。ばあちゃん優しいから、きっとたくさん泣くと思う」
「泣くと分かっているひとがいるのに、いなくなろうと思うの?」
「忘れてしまったら、問題ないでしょう?」
ああ、本気だ。この少年は本気でそれがおばあさんの為になると思っている。彼の信念を馬鹿げていると誰かが非難したって、きっと簡単には覆らないだろう。
しかしそれ以上に、彼には感じられないのだ。生きる気力が。だからこそ、僕が見えた。彼の場合は「死にたい」というより、「生きる気がない」という方が正しいだろうか。
真実かどうかは別として、彼の中で自分がいなくなることがおばあさんのためになるということ、そして彼自身がもうこの世界に固執していないことが「ここからいなくなる」という結論を導き出したのだろう。実にシンプルな結論に思えたが、そこに至る過程を想像するのは彼じゃない僕には途方もなく難しいことだった。
そうして僕は、期待に満ちた眼差しで返答を待つ幼い顔に真実を告げる。
「悪いんだけど、僕はそんなことできないんだ。魔法使いじゃないしね」
現にきみを今心から笑わせる術を、僕は持たない。
僕と出会ってから彼は「笑顔」を形作っている。ずっと。子供らしく幼い、この世の辛さなどひとつも知らないような、無垢な笑顔。だからといって彼の心まで同じ表情であるとは、到底思えなかった。
僕は人間のことはよく分からないが、笑顔は他人を笑顔にするものだと思う。嬉しい気持ちとやらを分け合ったり、誰かを励ましたりするものだと永すぎる生で客観的に学んできたつもりだ。
なのに目の前の笑顔は何故だか僕を異様に不安にさせた。僕に温かな血が通っていないせいかもしれない。普通の人間が見たら、僕の考えを全くそんなことはないと一蹴して、彼と一緒に笑うかもしれない。
それでもこの場には彼と僕ふたりきりで、彼の笑顔を客観的に判断できるのも僕だけだ。僕は僕の感覚を頼って彼と会話するしかない。
期待外れだったらしい僕の返答を聞いて、少年の表情が少し曇った。柔らかそうな髪をさらりと垂らして俯き、消え入りそうな声で短く「そっか」と呟く。
「じゃあ、どうしようかな」
さっきよりかは幾分光を失くした真ん丸い鳶色の瞳がすうっと遠くを見つめている。曇り空から時折僅かに覗く柔らかな日の光が、少年の瞳の中で一際美しく輝いた。
「...歩いてみようか」
ぽつりと零した、僕の欲望。ただ触れてみたいと思った。目の前できらきらと光る宝石に手を伸ばして、隣に並んで共に歩いてみたいと思った。ただ、それだけ。
大きな目を瞬かせる少年の手を取ってすっと立ち上がると、身体に付いた土を軽く払って踏み出した。少し困惑していた少年も、大人しく僕に手を引かれて歩き出す。
一歩一歩、しっかりと地面を踏みしめながら人気の無い山道をふたりで歩いていく。一歩踏み出すたびに、雨上がりの湿った土が裸足の足に纏わりついては落ちてゆく。時には足元を通る虫たちを避け、時には小枝を踏んでぱきっと音が鳴り、その度に隣を歩く小さな彼がビクッと肩を跳ねさせた。
その姿があまりにも愛おしくて、無意識に笑みが漏れる。同時に、驚いた。
僕みたいな存在でも、こんな風に笑うことが出来ることを初めて知ったのだ。姿形はヒトに似ていて、それでも全く異なっていて、血なんか通っていなくて胸に手を当てても何の音も聞こえない。
死にゆく人を安心させるために笑顔の真似事は出来るつもりだったけれど、今僕から溢れ出た笑みはそのどれとも違っていて自分でも分かるほど温かかったのだ。
僕が笑うのにつられて彼もふふっと笑う。先程の無垢で不安を誘う笑みとは全く違う、心から溢れ出た笑顔。細められた鳶色の瞳が楽しいと、そう伝えていた。
あぁ、雨上がりの匂いって、こんなに落ち着く匂いだっただろうか。
左手に感じる湿った温かさが愛おしくて、このまま離したくないなんて第二の欲望が顔を出す。無意識に握る力を強めると、彼もぎゅっと握り返してきた。
...同じ気持ちなら、いいのになぁ。
少年も僕も、何も言わない。ただ手を繋いで、無言で土を踏みしめ歩いている。風が吹くたび木々の間で光が揺れて、鳥や虫たちのざわめきが聞こえる。静かで五月蝿くて、温かく冷たい。永い永い時間に幾度となく似たような景色を見てきたけれど、こんなにも美しかっただろうか。
ただ隣に別の鼓動があるだけで、こうも違って見えるのだろうか。それとも例え独りでも、僕に鼓動があればこの景色は同じように美しく映るのだろうか。
何とも不思議な時間だった。そこに彼がいるというだけで何もない僕の身体に何かが駆け巡って、一心に体温を与え、空っぽのはずの胸を動かしていく。
この短い時間で今まで成し得なかったたくさんの「初めて」を経験し、まるで僕がニンゲンと同じように感情と鼓動を持ったように錯覚してしまう。
どんな生き物にも、どんな景色にだってこんなに心を動かされることなんてなかったのに。そもそも、僕に「心」のようなものが存在することすらこの日初めて知ったんだ。知ったんだよ。やっと。
どのくらい歩いてきたのだろう。
しばらくして、少年がぽつりと呟いた。
「おにいさん、ずっとひとりなの?」
「そうだね。ずっとひとりだよ」
「...おにいさんは、寂しくないの?」
サミ、シイ?...さみしい、か。そんなものを持ち合わせていては、僕のようなものは存在出来なくなってしまう。そもそもそんな感情というものを僕らは初めから持っていないのだと思っていた。
常に単体で行動するのが当たり前で、誰とも深くは関わらない。それが当たり前で、自然の摂理で、そうあるべきことを誰に教わるでもなく知っている。
そのためには、重りとなる感情など不要なのだ。
だけどついさっき思い知ったところだ。僕の中に潜む重りは楽しいや嬉しいだけではないということを。今繋いでいるこの手も、いつか離さなくてはならないということも。
「さみしい...そうか。そうなのかもね」
この日初めて、僕は「寂しい」を知った。
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