「陽多?どうかした?」
「ふぇ?!あぁごめん!ぼーっとしてた」
「やっぱ曇ってるとはいえ暑かったかな?熱中症とかになってないよな?頭痛くない?」
「過保護だなぁもう。大丈夫だよ」
柊凛が転校してきてから一か月ほど経った昼休みのこと。日に日に暑さが増し、湿度も上がって蒸し暑い季節がやって来ていた。
制服もブレザーを脱いで夏服に移行する季節だ。すっかり仲良くなった俺たちは屋上の日陰で一緒に昼ご飯を食べていた。
一か月経ったとはいえ柊凛の人気は衰えることを知らず、相変わらず人が集まって教室にいては静かにご飯を食べることすらままならない。
見かねた俺は柊凛を連れ出し、出来るだけ静かに休憩できる所を探してここに落ち着いた。今では、昼休みはここで二人で過ごすことがほとんどだ。
転校当初は人混みが苦手で彼の周囲を避けていた俺だったが、後から聞くとどうやら柊凛も人が多く賑やかなのは苦手だったらしい。だから、あんな険しい表情をしていたんだろうか。
「それならちゃんと皆に言えば良かったんじゃないの?」と彼に言うと、「皆悪気があるわけじゃないし、折角僕のところまで来てくれてるのにどっか行ってくれなんて言うのも申し訳ないしね」と何とも模範的な解答が返ってきたのは記憶に新しい。
ああ、こりゃモテるわ。俺は確信した。だから時間が経ってもこいつの周りには人が絶えないんだなぁ。俺なんかが独り占めしちゃってていいのだろうか。何故だかそんな罪悪感が湧き上がる。
じっと心配そうにこちらを見つめてくる視線が痛い。
何もかも見透かされているようで、俺の考えていることなんて筒抜けなんじゃないかとたまに思ってしまう。
柊凛は勘が鋭くいつも周りをよく見ている。気遣いが出来るしいつも自分より他人のことを優先している気がする。少なくとも俺に対しては、そうだ。
とは言えこいつが他の誰かと談笑したり親しくしたりしているのは見たことがないから、他の人に対してもそうなのかは分からないんだけど。
あれ。もしかして、俺といるせいで柊凛は他の生徒と交流出来てない、とか?俺、邪魔になってるんじゃないか…?
あの時ジャージ先生には「他クラスとの交流も大事」みたいなことを言われた気がするが、彼が俺意外と仲良く交流している姿を見たことがない。
昼休憩は最近いつもここだし、授業の合間にも廊下で話したりするし、登下校も毎日ではないが一緒にするし…あれ。気づけばいつもこいつと一緒にいる気がする。いや、これはただの自惚れかもしれない。
柊凛とはクラスが違うから、もしかしたら俺の見ていないところでは他に仲が良い友達がいるかも知れないしな。
「ひなたぁ?おーい?」
「ひゃあっ!?何?!」
購買でゲットしたクリームパンをかじりながら俺が考え込んでいると、いきなり額に冷たい感触がして飛び上がった。変な声が出てしまって恥ずかしい…。
「いや、ぼーっとしてるからやっぱり熱でもあるんじゃないかと思って」
そう言って俺を覗き込む真っ黒な瞳はとても心配そうだ。
「いやいや!ごめん。ちょっと考え事してて…。本当、大丈夫だから」
ひやり、と冷たい彼の手は火照った体に気持ち良い。
衣替えして半袖になった柊凛の腕は少しだけ日に焼けているが、それでも俺の肌と比べるとかなり明るい。俺に手を当てるために上げられた腕の、半袖の隙間から見える日に焼けていない彼の素肌はやっぱり雪のように真っ白で艶やかだった。
「そう?ちょっと熱いみたいだけど」
さっきより心配そうに眉を寄せた彼が呟く。
「まあ外も暑いから。熱とかじゃないし、体調も大丈夫だよ。それより、手…」
俺、汗かいてるんだよなぁ…。ベタベタして、気持ち悪いんじゃないだろうか。彼の綺麗な手を俺の汚い汗で汚してしまうのが申し訳なくて、早く離してくれとお願いした。
けれど彼はすぐには聞き入れてくれなくて、長い睫毛を伏せて一瞬渋る。そもそも、熱を測るのにそんなに長時間触っている必要もないだろうに。俺のばあちゃんは誇張抜きにしても一秒くらいで判別してたぞ。あれはあれでどうかと思うけど。
「大丈夫なら、いいんだけど…」
渋々、といった感じで漸く彼は手を離してくれた。彼の手は冷たかったはずなのに、何故か触れられていたところが熱い。やっぱり熱でも出てきちゃったのかな。看病してくれる人がいないのでそれは困るんだが。
ふと正面に顔を向けると、柊凛は真剣な面持ちで俺に触れていた右手を凝視していた。真っ白な手の平の表面は水分で艶めいていて、恥ずかしさで余計に顔が熱くなる。
「うわぁぁごめん!汗!汗ついちゃったよな!早く手、洗って来いよ」
右手を見たまま何やら考え込んで動かない真っ黒で真っ白な彼。やはり相当気持ち悪かったのだろうか。これは偏見だけど、柊凛って潔癖症っぽいところがありそうなんだよな。必要以上に人に近寄りたがらない、というか…。
俺に対してだけはちょっとパーソナルスペース狭めな気がしていたから油断していたが、やっぱ汗は嫌だったよな。俺でも嫌だもん。
自分からしてきたこととは言え、何だかすごく申し訳ない。せめてウエットティッシュとか持ってれば良かったんだけど…。
ちゅっ。
…え。俺が何かウエットティッシュの代わりになる物は無いかと鞄をまさぐっていると、頭上から可愛らしいリップ音が聞こえた。
何事かと顔を上げてみると、その光景に一瞬思考が停止した。
彼が、舐めている。汗びっしょりの俺の額に触れた真っ白な手の平を、ぺろぺろと舐めていたのだ。
まるで甘いソフトクリームでも食べているかのように美味しそうに自分の右手を舐める柊凛。
俺はその光景をみて、しばらく固まるほかなかった。己の記憶を疑い、少し前のやり取りを思い出す。
もしかしてこいつは本当にソフトクリームを食べていて、それが零れて今の状況になったんだっけ?それとも、ジュースでも零したんだっけ…。
いやいや、落ち着け。すっと自分の額に手を当てる。熱い。離すと、やはり手の平に付着した汗が光る。
もう一度目の前の彼に視線を戻すと、愛おしそうに手の平に唇を押し当てていた。伏せられた長い睫毛が透き通った肌に影を落とし、ふっと艶めかしい吐息が漏れる。濡れ羽色の黒髪が風に揺れて、真っ黒な瞳を隠してしまった。時折覗く赤い舌はやけに色っぽく、白い肌に滴る水滴を残さず舐め取ろうとちろちろと動く。
その光景があまりにも淫靡で美しく、俺はついつい見惚れて手元のクリームパンを落としそうになる。が、ここでやっと思い出した。
こいつ、舐めやがった。俺の汗がついた手を、堂々と目の前で…。
「そうだよっ!柊凛おまっ…何、何してんの!?汚いだろ!?」
「んー?」
右手を降ろして、ゆっくりと顔が上げられる。彼の目元を隠していた髪がさらっと流れ、黒い瞳が再び俺を映した。
「んー?じゃなくて!汚いだろ!?俺の汗がついてんのに、だから早く洗って来いって…」
「ついてるからこそ、だよ。もったいないと思ってね」
もったい、ない…?俺はやはりのぼせているのだろうか。彼の言っている意味がよく理解できなかったが、目の前の柊凛はとても楽しそうに目を細めた。
普段から割とよく笑うやつだが、この笑顔はいつもと違ってどこか妖しく、真っ黒な瞳には底知れない深さが見えた気がした。
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