「長居しちゃったな。今日は帰るよ」
「え、もうこんな時間!?うっわゴメン、外真っ暗じゃん!ってか雨!大丈夫なの?」
二人で俺の家に帰って来てから、柊凛に家の中を案内したり俺の昔話をしたりして穏やかな時間を過ごしていた。彼と話すのがあまりにも楽しくて心地良かったからか俺は時間のことなどすっかり忘れ、気づくと太陽はもう沈んで外は真っ暗になっていた。
帰りの時は優柔不断に降っていた雨も、夜になると本降りになって暗い夜を更に暗くしている。
うわぁやっちゃったな…。この辺りは山に囲まれていて外灯も少なく、夜は本当に暗いから彼一人で帰すのは心配だ。この天気じゃ足元も悪いだろうし…。
「大丈夫だよ。じゃあ、お邪魔しました」
そう言って柊凛が立ち上がろうとする。俺たちが話している最中もずっと彼の膝の上にいたカイは大人しく道を開け、柊凛を見送るつもりなのかとてとてと玄関まで歩いていった。
「家まで送ってくよ!外暗いし、心配だし」
「傘なら持ってるし、大丈夫だってば。心配性だなぁ陽多は」
彼はそう言ってちょっと嬉しそうに微笑むと、また優しい眼差しで俺を見つめた。
…その顔は、卑怯だと思う。
何が卑怯なのか分からないけど、何故かそんな気がした。
初めて校門で会った時に向けられた黒い視線。俺を見つめるその瞳は相変わらず黒いままで、あの時から何も変わっていないはずなのに俺はいつの間にかその瞳に安心するようになっていた。
彼にじっと見つめられると何故だか分からないが、とても懐かしいような、だけど少し寂しいような、そんな不思議な気持ちになる。その瞳が何を言いたいのか、俺にはまだよく分からないけれど。
カイに続いて柊凛も玄関へと向かい、靴を履いて帰り支度を進めた。
「あの、親御さんとかに連絡して迎えにきてもらうとかは、」
「親、いない」
「え、」
「僕も一人暮らしだから」
「え、そう、なんだ?」
親がいないって、一人暮らしって、どういうことだ?今初めて知った情報がこれ以上踏み込んでいいものなのかどうか、俺にはよく分からない。どう次の言葉を紡ごうか考え込んでいるうちに、柊凛がやわやわと俺の頭を撫でた。
「遠いところから来たんだ、僕。だから、ちょっと訳があって一人暮らししてるだけ。陽多が気にするようなことは何もないから、そんな顔しないで」
「へ、そう…なの?」
訳ってなんだろう。よく分からないけど、親御さんの仕事の都合とかで離れて暮らしてるってことだろうか。
「今まで話さなくてゴメンね。陽多は優しいからきっと変に心配させちゃうかと思って」
「うん。いや、それはいいんだけど、話してくれてありがとう」
あれ、ってことは柊凛も帰ったら一人ってことかな。これから誰もいない真っ暗な部屋に帰って自分で明かりをつけ、誰と話すこともなく一人でご飯を食べて、そのまま一人で夜を過ごし、一人で朝を迎えるのだろうか。
一人…ひとりで。
「じゃあ、そろそろ帰るから、」
「柊凛!あの、さ!」
真っ暗な外に出て行こうとする彼の袖をくいっと引っ張り、引き留めた。振り向いた色白の顔はちょっと驚いているようで、普段は伏せられている黒い目がいつもより少しだけ大きく見開かれている。まさか引き留められるとは思っていなかったようだ。
俺も引き留めるとは自分でも思ってなかったんだけど。
「陽多?どうしたの」
「えと、お前が嫌じゃなかったらなんだけど、」
「うん」
「あの、泊まってかない?うちに」
しばしの沈黙が流れた。目の前の柊凛は一瞬瞳を見開いたかと思うと完全に無表情になり、何を考えているのか全く分からない。
俺、何か間違えたかな…。いやでも、もう外も暗いし一人で帰すのも心配だし、友達を泊まりに誘うのって別におかしいことじゃない、よな…?それなのに何でこんなにも緊張してしまうんだろう。柊凛から反応は無いし、やっぱ俺変なこと言ったんじゃ…。
あれ、ちょっと不安になってきた。自分が泊まりに行ったことは何回かあったと思うけど、家にこんな風に友達を泊まりに誘ったことなかったもんなぁ。
「や、えっと、外真っ暗だしどうせ帰っても一人ならって思っただけで、飯も二人で、っていうかカイと皆で食った方が美味いだろうしどうかなって。でもお前が嫌なら全然送ってくし」
「…いいの?」
しばらくして、漸く柊凛が薄い唇を開いた。
「へ?」
「泊まっても、嫌じゃない?」
「何で!嫌だったら誘わないよ?寧ろ、あー…」
「寧ろ?」
ついさっきまで無表情だった黒い瞳が、気のせいか少しだけ嬉しげに弧を描いている。
まるで俺の次の言葉が分かってるみたいだ。こういうところ意外と意地悪だよなぁホント。
「寧ろ、もっと一緒にいたいなぁ…なんて」
「そっか。僕も」
本当に嬉しそうに笑うものだから少しどきっとしてしまう。何だか恥ずかしくなって俯いているとすうっと真っ白い手が近づいてきて、きっと真っ赤になっているであろう俺の耳をするりと撫でた。弱いその刺激がとても心地良くてくすぐったい。ずっとこんな感じで撫でられてたら寝ちゃいそうだなぁ。
「う、あの…くすぐったいんだけど」
「本当に泊まってもいい?」
「うん…」
おかしい。友達を泊めるだけなのに、何でこんな緊張するんだ。
いつもはカイと二人きりの食事も、柊凛が加わるだけでとても賑やかで楽しい食事になった。心なしかカイもいつもよりたくさん食べて嬉しそうだし、同じ食材のはずなのにいつもよりずっと美味しく感じる。
夕飯は俺が昨日適当に作り置きしておいたカレーなのに、彼はそれを一口含むと目を見開いて驚いていた。
「こんなに美味しいもの、食べたことない…」
「何言ってんだよ。ただのカレーだよ?まあ二日目のが美味しいとは言うけど」
「本当だよ。今まで食べた中で一番美味しい」
「そこまで褒めなくても…大袈裟だなぁ」
カレーひとつでまさかここまで喜ばれるとは思っていなかったが、その後も彼は本当に美味しそうに食べてくれるものだから俺も嬉しくなって、本当に自分の作ったカレーが絶品なような気さえした。まあそんなわけないのは分かってるんだけど。
その後も柊凛は客だから何もしなくていいって言ったのに、率先して家事をやろうとしてくれた。彼の仕事はとても丁寧なのに何でもパパッと終わらせてしまうもんだから、いつもよりずっと楽だったし何より楽しくてしょうがない。おかしいな。
やっていることはいつもと何も変わらないはずなのに、二人でやるだけでその家事がすごく楽しいことのように思えるなんて。
というか、流石一人暮らししているだけあってやっぱ何でも出来ちゃうんだなぁと改めて感心する。運動も勉強も出来てその上家事までこなすなんて…そんな人間が実在するとは。
「布団、こっちの部屋に敷いといたけどいい?」
「うん、ありがとう」
「俺隣の部屋にいるから、何かあったら呼んで」
「うん…」
「どうかした?」
「いや、やっぱり広いなぁって思ってさ」
そう言って柊凛は木の壁で覆われた部屋をぐるりと見渡し、襖越しの俺に視線を戻した。柊凛の寝間着にはほとんど着ていなかった俺のスウェットを貸したんだけどその緩い感じも何故か様になっている。
彼の言った通り、この家は広い。田舎によくある木造二階建てだし別に金持ちだとかそういうわけじゃないけれど、俺のような高校生一人と猫一匹が暮らすにはあまりにも広かった。
彼はきっとこの家での俺の暮らしを想像して素直にそう感じたのだろう。黒い瞳は相変わらず何も言わないが、やっぱり全て見透かされているような、触れられてもいないのに優しく頭を撫でられているような気分になる。
「まぁ掃除は大変だけどね。柊凛の家は、えっと、今住んでる方の家はどんな感じ?」
「あー、まあ一人だったら全然寝れるくらいかな」
「なんだそりゃ」
俺たちが襖を挟んで談笑していると、廊下からチリンチリンという軽い音が近づいてきた。
「カイ!何だよ、お前今日はそっちで寝るの?」
「にゃあ」と可愛らしく鳴いてカイが真っ直ぐに向かったのは俺ではなく柊凛の布団の上。真ん丸く足を折り畳んで座り、完全に寝る体勢である。
いつもは俺と一緒に寝てくれるのになぁ。何だか弟を取られちゃった複雑な気分だ。
「カイ。陽多が寂しがってるよ?」
「寂しがっては!いや、寂しいっちゃ寂しいけどカイは柊凛のことが大好きみたいだからしょうがない。今日は譲ってやるよ」
「強がんなくてもいいのに。あ、僕がそっちで一緒に寝てやろうか?」
「いやいや流石に狭いから!というか、そしたらカイも引っ付いてくるじゃん」
「いいじゃん。折角なんだし皆で寝よう?」
「え、ええー?」
マジか。と思ったがどうやら彼は本気のようだ。さっき俺が敷いた布団を持って柊凛は嬉々として俺の部屋に乗り込んできた。さっきまで柊凛の布団の上で寝る体勢に入っていたカイはこれまた大人しく布団から降り、とてとてと柊凛の後に続いていつものポジションである俺の布団の上に収まった。
「じゃ、隣に布団敷くね。さっき敷いてくれたのにゴメンね」
「いやそれは全然いいんだけど、ホントにこっちで寝るの?狭くない?」
「布団二組入ったんだし全然狭くないよ?まあ個人的には布団一組の方がいいんだけどね」
「へ?」
何言ってんのかよく分からないけど一緒に寝ることになってんのかなこれ。嫌、ではないけれども。何故だかいつも以上に距離が近くて無駄に緊張してしまう。
さらさらと揺れる濡れ羽色の髪から不意に嗅ぎ慣れた匂いがした。俺と同じシャンプーの匂い。だけどこんなに爽やかな匂いだっただろうか。慣れた家の匂いに彼自身の匂いが加わったためか、とても落ち着くのにいつも以上に良い匂いな気がする。変なの。
それにしても、距離が近いなぁ柊凛は。布団は二組敷いてあるのに、これでもかというくらい俺の方へ身を寄せてきては枕の上で悪戯っぽく目を細めた。…何て楽しそうに笑うんだろう。
学校で見るのとはまた違う、彼の一面が見られた気がする。
そうして電気を消してから眠るまでずっと、何故か手を握られたままだった。
すうすうと規則的な寝息を立てて眠る腕の中の彼は、いつも見ていたものよりずっと安らかな寝顔をしていて安心した。
それと同時に、この子が今まで味わってきたであろう寂しさや悲しさを想像して胸が押し潰されそうになる。僕には想像することしか出来ないけれど。
子供のままのような柔らかな髪をゆっくりゆっくり撫でながら、首筋に顔を埋めてすうっと匂いを嗅いだ。
彼の家の匂い。シャンプーや洗剤、家に染みついた生活の独特の匂い。臭いというのでは決してなく、それはどの家にもあるもので、そしてこの匂いは彼がずっと暮らしてきたこの家にしかないものだった。
そしてそれに加わる彼自身の、少し甘い匂い。
これほどまでに優しく、落ち着く匂いが他にあるだろうか。
少なくとも僕は知らない。この匂いはずっと、変わっていないみたいだ。
「おやすみ。陽多」
腕の中の温かい宝物。とくん、とくんとゆっくり歌う鼓動はずっと聴いていても飽きないし、鼻腔を擽る甘い匂いも、少し顔に当たる細い細い髪の束も、呼吸するたびに僅かに揺れ動く僕より少し小さな体も、何もかもが愛おしくてしょうがないよ。
陽多。ひなた。ひなた。
明日は起きたら、一人じゃない朝が待っているから。
だから、安心して眠ってね。
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