「あのさぁ藤倉、ちょっとお願いがあるんだけど」
帰り道。また当たり前のように並んで歩く、駅までの道。俺は自分の中に現れた疑問を解消するべく藤倉にとあるお願いをすることにした。他にどうすればいいか分からなかったので、苦渋の決断である。
「なになに澤くん?欲しいものでもあるのかな。新しいランニングシューズ?今のやつちょっと左の踵が擦れてきてるよね。真っ直ぐに見えるけど歩き方に癖があるのかな。それとも最近読んでる異能バトル漫画の最新刊?昨日出たよね」
「いや、どっちも違ぇし。何でそこまで把握してんの?踵のこととか俺も知らなかったし最近はお前とは漫画の話はしてなかったよな?でも帰り本屋寄るわ」
本当にどこまで俺のこと知ってるんだろうこいつは。もういちいち突っ込むのが面倒だ。しかし新刊のことは知らなかったので普通に有難い。藤倉も読んでんのかな。
じゃなくて。
「ゴメンゴメン!澤くんから頼み事されるなんて滅多にないから嬉しくって」
「嬉しいの?変な奴。じゃなくって、あのさ、変な頼み事だから嫌だったら全然断ってくれていいんだけど、」
「嫌な頼み事…?………俺ともう関わるなってことなら受け付けない。でも俺の存在がどうしても澤くんの負担になるっていうなら…」
「待って待っていきなりネガティブだな面倒くさい。そんな事じゃねぇよ。勝手に想像して勝手に凹んでるんじゃないバカ」
「ごめんね。ちょっと考えただけで息が出来なくなりそうだったよ…。で、頼み事って?」
藤倉は胸に手を当てて心底安堵したように深く息を吐き、俺に目線を戻した。
やっぱリアクションがいちいち重い。たまに冗談なのか本気なのか分からなくなるなこいつ…。
まあそれはいつものことだからいいとして。
「あの、さ…ちょっと確かめたいことがあってさ。その…俺のこと、ちょっと抱き締めてみてくれない?」
決して某雪だるまの真似とかではない。至って真剣なお願いである。
そして訪れる、しばしの沈黙。
やべ、やっぱ変なこと口走っちゃったみたいな空気だ。先程までのオーバーリアクションはどこへやら、目の前の彼は丸く目を見開いたまんま、後は全くもって無反応に無表情。ちょんちょんと指で突っついてみるが反応が無い。
笑い飛ばすとか突っ込むとか、せめて何か言って欲しい…。
「あの、藤倉?だ、大丈…夫?」
余りにも喋らないので流石に少し心配になっておずおずと顔を覗き込んで尋ねると、フリーズしていたらしい彼が漸く口を開いた。
「え、あ、え…ゴメン。ちょっと余りにも願望が出過ぎて遂に幻聴が聞こえだしたのかもしれない。悪いんだけど、もう一回言ってくれないかな」
「願望?いやだからさ、俺のこと抱き締めてみてよ。一瞬でいいから」
「永遠でもいい?」
今度はちょっと食い気味に即答され、困惑する俺。冗談にしては目が怖い。嫌なのか嫌じゃないのか、どっちなんだ。
「それはちょっと困るわ。嫌ならいいよ。俺も変なこと言ってるの分かってるし」
「嫌なわけない、んだけど、我慢出来る自信も…いや、出来るのか?え、していいのか?合法的に…」
「…合法?え、あの、本当に大丈夫?」
「うん。大丈夫。だいじょうぶ。多分。だいじょうぶ…俺なら出来る」
あ、大丈夫じゃないなこれ。
何が大丈夫じゃないかは分からないけど、藤倉の様子を見るにやっぱり何かがおかしい。いや、いつも通りと言えばいつも通りなのだが、いつもの藤倉のテンションおかしくなっちゃったバージョンのヤバいバージョン、みたいな…?
俺も何言ってんのか分かんなくなってきちゃった。
とにかく困惑しているらしい彼は何かを言い聞かせるように頭を抱えてぶつぶつと呪文のように「大丈夫」と言い聞かせていた。
例え美形だろうと、中々に怖い絵面だな。俺のせいなのかこれ。
「よしっ」と漸く決意を固めたらしい藤倉がきりっと俺を見つめ直して、尋ねた。
「本当にいいの?」
「うん。悪いな、突然」
「…いいよ」
彼は頷くと長い足で一歩ずつゆっくりと俺に近づき、俺の背中に腕を回した。
途端、ふわりと少し甘い香りが漂う。あ、この匂い好きだなと純粋にそう感じた。きっと初めて嗅いだわけではないけれど、こんなに眠くなるような匂いだったっけ。
そうしてぎゅうっと優しく腕に力が込められ、大して大きくもない俺は藤倉の腕の中にすっぽり収まってしまった。
あれ、やっぱり。
気持ち悪く………ない。
どちらかと言えば、温かくて気持ち良い。このまま寝てしまえそうなほど、心地良い。
前にもあったなぁこんなこと。互いの心臓が凄く近くて、とくんとくんと少し早めに脈打つリズムがどちらのものか分からない。
こうしてくっつくといつも以上に藤倉の匂いが近くでするし、身体に密着した彼の体温に不快になるどころか寧ろ安心さえする。
おかしいな…俺もボディタッチとか好きだったのかな。自覚なかったけど。だけどそれは今のところどうやら藤倉に限ってだけみたいだ。
こんなに密着しても嫌などころか、寧ろもっとくっついていたいなんてよく分からない気持ちが沸き上がる。藤倉のことずっとおかしいって思ってたけど、俺もおかしくなっちゃったみたいだ。
気づくと俺を包み込む優しい背中に手を回して抱き締め返していた。それに応えるように俺の首筋に彼が顔を埋め、熱い溜め息を吐いた。耳元まで届いた熱はそこから俺の全身にじわりと広がって身体から力を奪い、何だか頭がぼんやりとしてしまう。
心地良さと熱さで少しぼうっとしていると、彼が少し顔を上げて俺の耳元に唇を寄せ、いつも聞いているのよりずうっと低くて甘い声音で俺の名前を呼んだ。
「…まさおみ」
「ふじ、」
「いおり、でしょう?」
「い、」
「ちゃんと呼んで。おれのなまえ」
「いお、り…」
「ん。いいこ」
「いおり…」
まるで魔法にかけられたように頭がぼやっとして、何も考えられない。ただ身体を包み込む温かな他人の体温と、とくとくと少し早めに脈打つ二つ分の鼓動が俺の世界に響いた。
このままどこかへ沈んでしまいそうな感覚にぼんやり身を任せていると、途端にパッと熱が離れる。ぐいっと痛くないくらいの力で肩を掴まれ、そのまま密着していた身体を引き離されたのだ。
身体を離した藤倉は少し「ふうっ」と息を吐き出して、落ち着いたのか漸くこちらを見た。その瞳に今まで見たことない程の熱が混じっていて、一瞬ピクリと身体が強張ったが直ぐにいつものヘラヘラとした表情に戻っていった。
今のは何だったんだ…?
「で?確かめたいことはちゃんと分かったの?」
「まぁ、何となくは…」
「そか。なら良かった」
あれ、深くは聞かないんだな。何を確かめたかったのかとか、何でこういうことさせたのか、とか。もっと質問攻めにされるかと思ってちょっと身構えてたのに。
藤倉って、意外とそういうところある…。普段色々煩いくせに、芯のところまでは踏み込んでこようとしないというか、良い意味で放っといてくれるというか。その割に教えてもいないことまで知ってるのは謎だけど。
それにしてもさっきから心臓がうるさい。もう身体は離れているし、隣を見ると藤倉だっていつも通りだ。
それなのに、耳元で囁く低音が、一瞬だけ見えたあの瞳が、家に帰った後でも中々消えてくれなかった。
「もうそろそろ流されてくれそう…。あれで無自覚とか………マジかぁ」
とりあえず今日の俺はいつも以上にそれはもうすごくめちゃくちゃかなり頑張ったので誰か褒めて欲しい。
俺って結構、我慢強かったのかも知れない。けれどそれは脆いダムみたいなもので、許容範囲を超えるといつか決壊してしまいそうだ。
ボフッと音を立てて、必要以上に大きなベッドに倒れ込んだ。流石に彼の匂いはもう残ってない。
もし。
………もし俺の我慢が効かなくなったら?
もしそうなったら、どうなるんだろう。
傷つけちゃうかもしれないし、怖がらせてしまうかもしれない。もしかして、そのまま嫌われてしまうかも…なんて。
彼の嫌悪に満ちた表情が俺に向けられることを想像しただけで、背筋にゾクッと嫌な感覚が走った。
澤くんに、嫌われる。
俺はそれが一番怖い。とてつもなく、怖いんだ。
「世の中にこんな怖いことってあるんだなぁ…」
自分がこんなにも臆病だなんて知らなかった。
良くも悪くも、彼と出会ってから新しい発見ばっかりだ。
本当に欲しいものが見つかっても、それが手の届く範囲にあったとしても、中々手を伸ばせずにいる自分がどうしようもなくもどかしくて腹立たしい。
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