「何それ」
「もらった。チケット」
「チケット?」
「うん。水族館の」
ひらひらと彼の指の間で揺れている紙は、表に魚の絵が描かれていた。確かに水族館のチケットっぽい。しかも二枚ある。
「へぇ、ファンから?」
「いや、こないだのお詫びって。あの女…の子が」
「お詫び…」
一応取り繕ったみたいな空気出してるけど、「あの女」って言いそうになったろ。まぁそれで誰なのか分かっちゃった俺も俺だけど。
それに彼は「お詫びでもらった」と言うが、それは多分絶対かなりの確率で嘘なんじゃないかと思う。
彼が持っているのはよくよく見れば最近できたという入手困難な水族館のチケットで、しかもわざわざ二枚用意されている。そこは夜のイルミネーションにも力が入れられているらしく、恋人たちのデートスポットとしても評判だ。というのは食堂で聞こえてきた情報。そんな俺でも知ってるようなところのチケットを、二枚も。お詫びで。
あの高慢な性格らしい彼女がそんな理由で渡すだろうか…。多分違うと思う。
高慢よろしくきっとシオを誘おうとしたんじゃないかなと邪推するも、彼女の言葉を聞かずチケットだけ受け取る彼の姿も容易に想像できた。もし俺の予想が当たっていたならさすがに不憫な気もするけど…。そもそもお詫びなら俺に渡してくると思うし、少なくとも騒ぎが起きるまであの場にいなかったシオに渡すのも何か変だし、彼女はシオに話し掛けられないから俺に連絡先を訊いてきたわけで…?ううん。全然分からん。
まぁ真実は分かんないし、その辺りは考えなくていいや。流れはともかく貰ったってのはきっと本当だろうし。
「というかシオ、水族館興味あったの?」
「なくはないかな」
「どっちだ」
「デートならいいかなって。行こ」
「デ…?」
どうやら俺に選択肢はないらしい。デートって単語、また間違った意味で覚えちゃったのかな。訂正せねば…。
でもいつになくちょっとうきうきしてる彼の顔を見ていたら、それはまた今度でいいかと思えてきてしまった。
それから週末。
二人で出かけることなんて別に今更なのに、朝からやけにそわそわしている自分に気づいた。俺は結構周りの雰囲気に流されやすいのかもしれない…。
まぁ、カップルだらけだし。必需品の買い物とかはあっても、こういう普通の遊びみたいなお出かけは多分初めてだと思うし。
当日までシオはこのお出かけに「デート」という単語を頑なに使いまくっていて、結局訂正することは叶わなかった。意味をちゃんと分かってるのかと訊いてみても「もちろん」とか言うし。それはもういいか。
でも問題は中に入ってからだった。
入口に大きな水槽があって、その前でたくさんの人が立ち止まって写真を撮ったりしていて。そこで彼の表情がいつもと違う色を帯びだした…ように思えた。
それからも色とりどりの魚がいる水槽を前に難しい顔をしている彼は、わいわいと楽しそうな人で溢れるこの空間では浮いていた。まぁ見た目からしても元から浮いてはいるんだけど、それはそれとして。
「あの、もしかしてなんだけど」
「んー?」
「シオって水族館苦手…だった?」
「いや、来たことなかったから…色々びっくりしてて」
「無理すんなって」
そりゃあコンビニの自動ドアで驚いてた彼がこんなところに来たんだもん、驚きでいっぱいかもしれない。でもそういう表情じゃないことくらい、見れば分かる。なめんな同居人。
じっと見つめると、彼はほんのちょっと気まずそうに口をもごもごさせた。これはもう彼の癖なのかもしれない。さっき見たフグみたいでちょっとかわいい。
「苦手ってか、まぁ色んな奴がいておもしろいなぁとは思うけど」
「けど?」
「…狭そうだなぁって思っちゃって」
返ってきた答えは結構斜め上だった。狭そうって、魚たちのことだろうか。だよな、通路は広めだし、人は別に狭そうにしてないもんな。
「例えばその、ジンベエザメとかいる大水槽でも?」
「ううん、まぁ。海には敵わないよなぁって思っちゃうかな」
「そりゃあね」
そりゃそうだ。どこの水族館も広さという点において海には敵うまい。大陸いっぱいの大きさで作ったって同じかそれでも海の方が大きいか。
そんなスケールの話になるとは、シオって結構視野が広いのかな。勝手に世間知らずなのかもって思っててゴメン。良いとこの箱入り息子かとも思ってたけど。
そんな視点で水族館の魚たちを見てるなんて、もしかして本物の海を知ってんのかな。もしかして、だけど。
「あのさシオ」
「なに、しづき」
「シオって、ダイビングとかやってたんだっけ」
「ダ…?」
「ダイビング。人が酸素ボンベ持って潜るやつだよ」
「ダイビング…ああ、あの何かゴボゴボいうやつ。ううん、まぁそうだな。そんな感じ」
「そんな感じか…」
どんな感じだよ、とは心の中だけでツッコんだ。
ダイビングのこと本当に分かってんのかな。ゴボゴボいうやつって表現するひと初めて見た。見方が斬新すぎる。魚視点か?
…水族館。陸にいても、青い世界が広がる不思議な空間。俺は結構好きだ。彼は、苦手みたいだけど。
けれど水槽越しに魚たちをみるシオの瞳はどこか優しくて、ほんのちょっとだけ、何か。
どうしてか寂しそうにも見えた。分からん。気のせいかも。
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