「しづき、会いたかった…」
「おう、うん…」
「しづきは…?」
「いやまぁ、俺もだけど…」
「よかった、あいてっ、ちょっとまって。いやマジで予想外…」
「あの、俺が言うのもなんだけど…大丈夫か?」
久しぶりに会った彼は青いグラデーションの髪だけを俺に見せて浜辺に膝をついていた。主に俺のせいである。いやぁ、つむじがよく見えるなぁ。
俺のボディーブローが思いの外クリティカルヒットしたらしく、しばらく腹を抑えて「くっ…」と魔王に屈する勇者みたいな感じになっていたが、次第に回復してきたらしい。あの腹筋は無駄に割れているわけじゃないらしかった。一緒に住んでたから知ってる、こいつは運動なんてする素振りもなかったくせに謎にシックスなパックを持っているんだ。それにさっきのは俺も別に全力じゃなかったし。ちょっとは加減したし。
じっと側で見守っていると、やっとシオが顔を上げた。眉間にちょっと皺が寄っているのが珍しい。
そうしてそのまま立ち上がるわけでもなく、その場で体育座りした彼の隣に俺も座った。波が近くて遠い。横で彼がはあっと溜め息を吐いたのがはっきり分かるくらい、波の音はさっきより随分と小さい。
「はぁ…。からだよりこころのダメージの方が大きい…」
「お前が悪いです」
「そうだけどさ、会って早々…もっとこう、何かあるだろ」
「…ラリアット?」
「ちがう、こう…ラリアットって?」
ラリアットも知らなかったらしいシオに口頭で説明すると、彼はふるふるととても神妙な顔つきで顔を横に振った。「マジありえん」って顔してる。
「そういう暴力的なんじゃなくてもっとこう、抱き締めあったりさ」
「ところでお前なんでここにいるんだ?」
「わかった、まだ怒ってんだね。ごめん」
ぶつくさ文句を言うシオを華麗にスルーしたことで、俺がまだボディーブローだけで怒りを鎮めたわけじゃないことが伝わったらしい。
あれは、全部が全部シオの意思じゃなかったってことは分かってる。それでも何か一言、説明とかしてほしかったな。
一緒に一年も暮らしていて問い詰めなかった俺も悪いのかもしれないから、これもお互い様っていうやつかもしれないけど。
俺は怒ったのに、シオはいつもみたいに穏やかだ。
ふうと今度は溜め息じゃない息を吐いて、また唇を開いた。
「…しづきが…またここにいるのが見えたから」
「見えたって、どこから」
ていうか「また」って言った?水族館で彼と別れてから俺がここに来たのは一回目なのに、またって。
単純に言い間違えたのかな。横顔を見ても彼は何ら気にする様子もなく話を続けた。
「あそこから、見えた」
「あそこ?」
彼の視線を追って見えたのは、大学からも見えた白い豆粒。じゃなくて…。
「おれ、小さいころからあの家にいた。さっきまでも」
「えっ、うそ」
あの家、と言って彼の長い指が差したのは丘の上にそびえ立つ大きな大きなお屋敷だった。その家は眩しい程に真っ白で、壁一面に窓があるのは分かるがいつもカーテンか何かで閉めきられていて、人が住んでいるのかも分からない。さぞ有名な芸能人か、どこぞの大富豪でも住んでいるんだろうとこの辺じゃ有名な家だった。
周りも私有地だからかな。基本的に屋敷近くに行った人はいないが、どこからか広まった噂によるとそれはそれは大きな、水槽みたいなプールがある超豪邸らしいとか。
まさかあの謎の真っ白屋敷…ここらの子ども達にはではそう呼ばれてる…が彼のお家だとは思いもよらなかった。ていうかマジでお金持ちだな。本当の本当に箱入り息子だったんだろうか。
というかあそこから見えたなんて、こいつ視力めっちゃいいな…。
「それにしても大きすぎ。…城みたい」
「まぁ多分、普通の家よりは、大きいよね」
「大分な。でも、本当に…?」
「おれの我が儘で、小さい頃からあそこに住まわせてもらってた。でも外にはほとんど出たことがなくって」
我が儘で住んでた?なのに、外にはほとんど出たことがない?どういうことか訳が分からない。
厳しいのか甘いのかどっちなんだ。でも聞いている限りでは、厳しい教育方針だったのかなと思える。彼の表情は、どっちとも言わなかった。
「よく窓から外を見てた。夜になると、街の明かりかな。海辺の明かりが星みたいに綺麗でさ。でも見てるだけじゃさすがに飽きるよな。そしたらある日、この浜辺にね、ふふっ」
小さな子どもが座っているのが見えたという。笑いながらも懐かしそうに目を細める彼の横顔を夕陽が照らす。
やっぱり視力めちゃくちゃいいな、と思ったが水を差すことになりそうなので言わずにおいた。
雰囲気的にもこれからいい話に繋がるっぽいじゃん。黙っとこう。
「おれめっちゃ視力いいよ」
「おま、人の親切を!」
折角黙ってたのに!そう思うも彼は一ミリも気にしていないらしく、楽しそうに笑ったままでまた真っ白屋敷の方を見た。あのお屋敷は今も昔と変わらず、多少外壁に蔦が伸びてきたものの、特に古びる様子もない。誰かが小まめに手入れしているに違いなかった。
「その子はね、いつも何か持ってて…絵を描いてたみたいだった」
「絵を」
「うん。ある日からほとんど毎日毎日、同じ場所で、大体同じ時間。おれはそれを眺めるのが楽しみになってた」
「視力めっちゃいいな…」
今度は言った。黙ってても無駄かと思ったので。
すると彼はクスッと息を漏らしてから、ふっと俺の方を見た。覗いた奧は不思議な色で輝いていた。
「…ある時、おれは家を抜け出してその子に近寄ったんだ。いつも何を見て、どんな絵を描いてるのか知りたくて」
「…本当にそれだけ?」
「ゴメン、ちょっと違うかも。本当は話してみたかった。おれが見つけたみたいに、その子にもおれを見つけて欲しかった」
「うん。それで?」
「まだ話す?」
「うん」
「近づいて、話し掛けた。そしたらよほど集中してたのか、その子はものすごくびっくりしちゃって。飛び上がるくらい身体が跳ねて、持ってた色鉛筆落としちゃった」
あぁ、無いと思ってたんだ。一番お気に入りの色。海と空と同じ、俺の一番大好きな色。
彼はそっとポケットからハンカチを取り出した。かと思ったら今度はハンカチを広げて、中から細長い、小さなものを取り出した。
ここにあったんだ。ずっと、彼の手の中に。
「その時その子が落とした色鉛筆。ずうっとおれが持ってたんだ、ごめんね。返したくなくて」
「正直だな」
「だってこれしか、おれときみを繋ぐものがなかったんだもの。今はたくさんあるけどさ」
子どもの彼にはそれだけだった。そう言って彼は青色の色鉛筆を俺に返すでもなくぎゅっと大事そうに握り締めた。まるで自分の心臓でも持ってるみたいに。それはそれは大事そうに。
でもどうして。だってさ。
「俺、すぐ逃げちゃったから、まともに話したことなかったのに」
なのにどうしてそんな奴の持っていたものをそんなに大事に持っているんだ。そう思って怪訝な顔を隠しもせずに見上げると、思いもよらない言葉が返ってきた。
「きれいだったから」
「…は?」
「びっくりして真ん丸になったきみの瞳が、きらきらしててすごくきれいだったから。忘れられなかったし、忘れない」
きれいだなんて、彼のためにあるような言葉だ。そんな言葉を自分に贈られるだなんて考えたこともなかった。だからびっくりした。
すごくすごくびっくりして、目を見開いた。見開きすぎて目が乾いて、生理現象で。
頬に流れるくらい涙が出た。それを躊躇なく舐め取ったのは言わずもがな微笑んだままの彼だった。
「しょっぱいだろ」
「海水より全然」
ふはっと笑う。歯が見えて、新鮮に、何度でも俺はまたそれに見惚れた。多分ずっとそうなんだろう。悔しい。何かめっちゃ悔しい。
あぁ、思い出した。
あの頃俺は都会への引っ越しが決まって、でもこの町を離れるのが嫌で、反抗するみたいにいつも同じ時間にこの浜辺に来てた。ずうっと一人で、それでも晩ご飯の時間にはちゃんと帰って。
そしたら突然、声を掛けられたんだ。波の音しかなかった世界に降ってきた声に、俺に向けられたその声に小さな俺は驚いてしまって。
そうしてろくに目も合わさずに逃げる俺を、あの時の彼は必死に追い掛けてきてくれた。そうして伸ばした手の中にはあの日落とした色鉛筆があったんだ。
あの時、本当は返そうとしてくれていた。なのに振り返った子どもの俺の視線は別のところにあった。彼のお腹、服が風で捲れたその隙間…。
「ちょっと、お腹出して」
「やだえっち」
「もっかい殴るぞ」
「ゴメンナサイ。さっきの、痕にはなってないよ多分」
「違う、それも気になるけど」
「違うんだ…まぁいいけど、ほい」
すっと捲られた服の下を見る。多分もうちょっと、へその下辺り…。まあまあ際どいところだった気がする。だけど見る限り、やっぱりそこには色白の綺麗な肌があるのみだった。虹は、今はない。
あの痣は、彼のお父さんが「痣」と呼んだあのきらきらは…。きっと。
「鱗が見たい?」
「…うん」
悪戯に言った彼はけれどすぐに「ごめんね」と謝った。何も謝ることなんてないのに。
「海の中なら、見られるかもね」
「俺は…」
見上げた先には瑠璃色があった。彼の瞳のその向こう、もうすっかり太陽の沈んだ空が夜に染まる。空と海と、俺達が座っている浜辺までもが同じ色に染まって境界が曖昧になる。
その中でも一番眩しい青がぎらりと光った、気がした。
「俺は、人間だから。海の中には住めないよ」
「やっぱ馬鹿だな、詩月は」
笑うと、彼が俺の手を取って立ち上がった。そのままふたりで歩いていって、さくさくと音を鳴らすように砂浜を踏みしめる。まだ肌寒いっていうのに裸足で、俺の手を握ったまま、まるでワルツでも踊るみたいに。一歩、また一歩。柔らかい砂に、裸足と靴の足跡が残っていく。
ヒレじゃない。鱗もない。泳げはしない。でもこうしてステップを踏むことができる。その証拠に、足跡が確かに残っていく。
「何でおれがここにいると思ってるの」
「何で…」
「ずっと探して、やっと見つけたんだ。離すわけない。それに」
「それに?」
「詩月に出来ないことなら、おれがやるよ」
俺は掃除が出来る。シオは片付けが出来ない。
俺は料理が出来る。少なくともまだ、シオよりかは上手に。
俺は絵が描ける。シオは壊滅的なセンスだ。
俺は、海の中では息すら出来ない。
けれどシオは、海でだって、陸でだって生きていける。
じゃあ、問題ないらしい。
「ね?」と笑って髪を撫でられた。それが子どもをあやすみたいな、色鉛筆に触れるみたいな優しいものなのに、どこか遠慮されてる感じがしてイラッとした。彼はまだ何か隠してる。全てを俺に話した訳じゃないことが指先から伝わった熱で分かる。多分これとは違う触れ方を彼は欲してる。でも言わない。瞳と指先ではやけに雄弁なのに、口では言わない。このやろう。
だからとりあえずは、俺が代わりに触れてやろうと思った。ちょっと背伸びするだけでいい。
頬を固定して、目は閉じないまま、青で視界をいっぱいにして。ちゅっと音も立てずにすぐ顔を離すと、さすがに予想外だったのかぱちくりと夜空を映し込んだ瞳が揺れていた。
ばかめ。してやったり。
「ばかめ」
「………」
「え、あのシオさん…?もしかしてやだった、とか?」
「………え、いや…していいの?」
俺がしたことを確かめるみたいに、自身の唇にそっと指先で触れた彼が数秒の後ぽつりと呟いた言葉がそれである。
駄目だったのかって一瞬不安になっちゃっただろばか。
「じゃあ遠慮なく」
「待った待った待った!ステイ!」
「んん、」
許可が出たと分かった途端思いっきりゼロ距離になりかけた唇に手を当てて、ストップをかける。だって自分から仕掛けたとはいえ、こいつ多分加減しなさそうだったんだもん。それでも訴えるみたいに両腕を腰に回されてぐいっと抱き寄せられるからぴったりくっついた身体は夜なのに温かいどころじゃなくて。
とりあえず離すように言うと彼は本当に渋々といった感じで顔を離した。いや、腕はそのままかよ。
「ぷはっ、しづきの我が儘」
「どこが」
「あのさ」
「うん」
「おれまだ、詩月と暮らしたい。というかこれからもずっと」
「だめだよ」
「えっ、なんで」
「もう一回ちゃんとお家帰って、話しておいで。それから、一緒に考えるんならいいよ」
「…これが、ぷろぽーず」
「違うからな」
「ふつつかものですが」
「違うってば」
ちょっと油断してたらすぐ視界いっぱいが瑠璃色になって、びっくりして目を見開いた間抜け顔の俺がその中に映っているのが一瞬見えた。
彼は、驚いた俺の瞳が綺麗だったみたいなことを言ってたけど…やっぱりセンスが独特すぎる。
俺には星いっぱいの夜にも負けないくらいのこっちの青の方が、ずっとずっと綺麗に思えた。
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