それからも何だかんだで水族館を満喫し、お土産屋さんでお揃いのチンアナゴのキーホルダーを買ったりして外に出るともうすっかり夕方だった。
この一日でシオは水族館苦手じゃなくなったのかな。そうならいいけど、そうでなくても楽しんでいたのが分かる。だって俺もすげー楽しかった。たまにはこうして二人で遊ぶのもいいなと思いつつ、買ったばっかのキーホルダーを揺らしながら水族館を後にした。
あれ…。出入り口辺りがざわついてるな。休日だから人が多いとかそういうのではなくて、何かに視線が集中しているというか…。
けれど流れゆく人混みはそこに留まることはなくて、じろじろと視線を寄越しながらも皆避けるように駅へ続く道や海辺へ繋がる道へ分かれていった。
だから簡単に、見えてしまった。
人混みの隙間から、黒いスーツに身を包んだボディーガードみたいな集団と黒塗りの車、そしてその真ん中に堂々たる雰囲気で一際目立つ男性が立っていたのだ。
…怪しい。あまりにも、怪しい。完全にどっからどう見てもちょっとヤクザっぽい。
しかし真ん中の一際背が高い男性はどうしてか見覚えがある気がした。サングラス越しでもめちゃめちゃ精悍な顔つきなことが分かるあんなイケオジ、会ったことないはずなのに。
一体何の集団なんだろう。
不思議に思ってシオの反応を確かめようと隣を見ると、彼の瑠璃色は大きく見開かれていた。
そうして薄い唇が開くその前に、あのイケオジがこちらに近寄ってきた。隣の身体がほんのちょっと強張る気配がして、俺も思わず警戒する。革靴のコツコツいう音が、喧騒の中でもやけにはっきり耳に響いた。
「汐」
「…父さん」
………え。えっ!?
「お、おおお、お父さん!?」
確かにサングラスを外したその人はシオと少し似ている気がした。瞳の色は、濃い藍色みたいに見えるが辺りも暗くなっていてよく分からない。
というかお前、マジで良いとこのお坊ちゃんだったのか。良いとこっていうか、何ていうか…。とにかくあんな車に乗れるほどのお家なのは間違いないらしい。車詳しくないけど。
けれど驚く俺を差し置いて、親子の会話は続いていく。
「汐。久しぶりだな。ちょっとは成長したと思っていたのだが」
「………」
「こないだ学校から連絡があったよ。それにさっきの騒ぎは何だ?部下が撮影したのを見たぞ。コントロールも出来ないままで、うちを出たのか」
「それは…」
えっと…。全く話が見えない。それでも俺は最早ここにいないものとして、お父さんとやらの話は続く。でもこんなの、会話のキャッチボールというより打てないバッティングセンターみたいに見えた。シオが言葉を紡ぐ前に一方的に次の言葉が飛んでくる。
「どれだけの方に迷惑を掛けたか、分かっているね」
「…はい」
「ならばどうすべきか、分からないお前ではあるまい。そうだな?」
「………」
「汐。もう十分我が儘は聞いたぞ」
「父さん、それでもおれは、」
シオがやっと何かを言おうと顔を上げた。しかしそれを分かっていたかのように、彼のお父さんはぴしゃりと告げた。
「帰って来なさい」
「父さん」
「は…え…?」
かえる?帰るってどこに…。俺ん家じゃなくて?
シオ、お父さん、シオと交互に見つめるも、二人はじっと見つめ合ったまま微動だにしない。
どうやら動揺しているのは俺だけのようで、シオは考え込むようにまた俯いた。
瑠璃色が、見えない。
「…分かりました」
やがてシオがぽつりと呟いた。その言葉に身体から温度が抜けていく心地がした。俺だけ意味がよく飲み込めないまま、二人はまだ何かやり取りしている。
彼は分かったと言った。なにが。帰るってこと?どこに?俺の家じゃなくて、本当の…自分の家に?
それってまさか…。
水族館の青い世界は俺にとっては美しかった。けれどそこに彼が戻るのは嫌だと、心から叫びたかった。なのに。
「そういうわけだから、ごめんね詩月」
「えっ、待って」
俺がぐるぐる考え込んでいるうちにも話はまとまってしまったらしい。黒塗りの車の扉が開かれていて、シオとシオのお父さんだけを待っていた。
「シオ、どこ行くの」
「詩月、今日は楽しかったよ」
「ちがう、聞きたいのはそんなことじゃなくて、」
ねぇ待って、待ってよ。
車に向かう袖を引っ張ると、彼が振り返った。今までの子どもっぽいあれこれが嘘みたいにやたら綺麗に微笑むから、泣きそうになった。
やだよ、そんなの要らない、一緒がいい。
けれど俺がそう引き留めてしまう前に、耳元に彼の唇が寄せられた。波の音に混じってもっと心地好い音がする。いつだろう、真夜中にもこんな響きを聞いたことがある気がした。
「詩月」
「………行かないで、汐」
「大丈夫。すぐに帰るよ」
それだけ言うと、彼は振り返らずに車に乗ってしまった。俺と色違いのチンアナゴのキーホルダーがちらりと見えて、すぐに扉が閉められてしまって…。
やがて視界にぴっしりとしたスーツが映って顔を上げるとサングラスをポケットに掛けた紳士がいた。
「それじゃあ、愚息が世話になったね」
「待ってください!彼をどこに、」
「心配しなくても、悪いようにはしない」
それめっちゃ悪役の台詞!!
そう思ったが、紳士もさっさと車へ向かって歩き出してしまった。
また思わず紳士の袖を掴むと、一瞬見えた手首に何か、何かが見えた。
「あ、えと、ごめん、なさ…」
「いや、気にするな。強引に事を進めたこちらに非があるのは理解している」
「あの、その手首に、あるのは…」
訊くのは失礼だと分かっていても尚、訊かずにはいられなかった。だって、だってそれは…。
「あぁこれは、痣みたいなもので。気にしないでくれ」
シオのお父さんは静かに袖を直すとまた、俺を一瞥して彼の待つ車へ歩いていった。
そうして呆然と佇むしかない俺を置いて、車は発車して遠く小さくなっていく。
気にしないでくれだなんて、無理だ。だってシオの家は俺の家だし、それに、それに…。
痣…?虹色の、きらきらと輝く、痣…。
あんな痣なんて知らない。いや、知ってる…?
俺はそれを、どこかで見たことがある。黒に染まる海の向こうで、きらりと虹色のなにかが光る。
瑠璃色の瞳と一緒に。
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