「あんね雨くん、驚かないで聞いてほしいんだけどね」
「うん」
「おれ、きみのことがだいすきなんだよね」
「………うん?」
「今初めて聞いたみたいな反応だね?」
「ううん、でも…」
「もういっこ驚かないで聞いてほしいんだけど」
「うん?」
「このやり取り通算十五回目なんだよね」
「そうだっけ」
「そうだよぉ」
急に真剣な顔をして見つめてくるから何事かと思った。そう言われてみれば、ここ最近ほとんど毎日言われている気がする。
確か一番初めに言われたときは何を言ってるのか理解出来なくて、暫く間を置いて「まっさかぁ」と笑い飛ばしてしまったと思う。
すると彼はそれまでに見たことがないくらいの真顔になって数分ほど無言になった。
別に睨まれているとかじゃあなかったけれどさすがに「これは間違えたのかな」と思ったので、無闇に否定するのはやめようと思った。
彼のことを怖がったことはないって思ってたけど、あれは唯一ちょっと怖かったかもしれない。
その後何事もなかったかのように同じセリフを言われたから、とりあえず「ありがとう」と返しておいた。彼はふうっと溜め息を吐いてまた「時間が必要」とか色々呟いていた気がする。
それも結構前のことみたいだけど、思ってるより最近のことなんだなぁ。多分。
「はい、せんせー」
「はい、さくくん」
「雨せんせーに相談です」
「僕に?」
「うん。どうしたらおれの言ってること信じてもらえるかな」
「それはもしかして」
そっと自分に指をさすと、彼はゆっくりと頷いた。誰に信じてもらえるかって、僕にか。
他にいないと言うように彼の髪と同じ色の瞳には僕しか映っていなかった。
困った。別に信じてないつもりじゃないんだけどな。
ただ今まで、好奇はあっても好意を向けられたことはなかったからなぁ。猫ちゃんは別として。
「おれが猫だったら信じてくれるのかなぁ」
「そういうわけじゃなくて」
「なくて?」
「ごめん、さくのせいじゃないよ」
「そう」
俯いたら足元に心配そうに見上げてくる灰色の子が居たので、そっと抱き上げて膝に乗せた。
隣から痛いくらいの視線が降ってくるので見上げたら、さくが何とも言えない顔をして僕と猫ちゃんとをじっと見ていた。
「ずるい」
「あ、抱っこしたかった?」
「うん。したい」
「そっか。でもこの子はまだちょっと警戒心が強いから…」
「そうみたい。今は我慢する」
「大丈夫、もうちょっとしたら慣れるよ」
「そうだといいなぁ。そうだよね、まだ慣れてないだけだよね」
「うん。そうだよ」
「逆に考えると、おれが初めてってことだよね。そっか…複雑だな」
「ん?…うん?」
何の話だろうな。この子のことじゃないのかな。首を傾げると、灰色の子が呼応するみたいに「みゃあ」と鳴いた。
それから灰色の子は抱っこにも飽きたのか、さっと膝から降りてどこかへ行ってしまった。
さっきまで乗っていた体温が風に変わってすうすうする。と思っていたら、今度は茶色い毛が膝に乗った。
多分どの猫ちゃんより重い。それに視線がばっちり合う。さくだ。
「にゃあ」
「えぁ、え、なに?」
「抱っこ。は、まだハードル高いらしいから、膝枕」
「なんで、僕の膝?」
「他になくない?」
「いや、えぇと、そうだね…?」
確かに当たりを見渡しても僕かさくしか人間はいない。でも、何でわざわざ。まさか猫ちゃんの気持ちになろうと…?
視線を膝に戻す前に手が伸びてきた。あ、指輪してたんだ。小指に、シルバーのシンプルなもの。こんなことに今更気づくなんて、僕は彼の何を見てたんだろう。
頬に当たったその銀色の部分だけが冷たくて、あとはほとんど僕と同じ温度なんだなと思った。指が頬を撫でてはふにふにしてくる。
遊ばれてるのかな。
「顔が赤いねぇ」
「え、そうかな」
「どきどきしてる?」
「どきどき?」
分かんないな。緊張はしてるかも。こんなに顔を近づけてしまってはどんな顔も見られてしまう。そう思ったら何か恥ずかしいような見られたくないような、なのに嬉しいようなおかしな気分になるんだ。
こういう気持ちをどう言えばいいのかも分からなかったからぐっと俯いて目を合わせないでいると、さっきまで優しかった指先が顎をくいと引っ張った。
僕を見てる目が、いつも見てくれる目が、今は怖い。全部見抜かれそうで、こわい。本当は、ずっと…。
「あのね、不思議に思わないで聞いてほしいんだけどね」
「…うん」
「おれね、雨くんのこと大事なんだよ。だいすきなんだよ」
「…うそだよ」
「うそじゃないんだよなぁこれが。びっくりした?」
「うん。びっくりした…」
「びっくりしないようになろうね」
なんで、そんな顔するんだ。いつものふにゃっとした笑顔じゃなくて、もっと違くて。
転んだ子どもを安心させるみたいな、変な笑顔だ。こんな顔もできるんだ。同い年だって言ったくせに僕よりずっと大人みたい。
こんなひとが僕を好きだなんて絶対嘘だと思った。彼が冗談で言ってるつもりじゃないと分かっていても、否定しなきゃ怖かった。
本当だって信じて、実は違ったってなってしまったら。彼に失望するのは、嫌だ。
だから膜を張って信じないようにしてたのに、彼は僕がそこから出てくるのをじっと待ってる。どうして。
「あのね、雨くん」
「もう何も言わないで」
「言葉じゃ信じられないなら」
「やめて」
「もういいやって言われても、おれが全力で大事にするから」
「もういい、やめてよ」
「雨くんが自分のことだいすきになるまで、いや、だいすきになってもずっと」
「そんなの無理だよっ!!!」
「………」
「………あ、ごめ、ん」
思わず怒鳴ってしまうと、彼がきゅっと口を引き結んだのが分かった。自分でもこんな大声が出せたんだとおかしなことを思う。
でも彼は、膝から退かないでまた話し始めた。
「今はまだ遠いね。遠いけど、一緒に行こう。おれが連れてったげる」
「…どこに」
「まだ、内緒」
「さく」
「おれ雨くんが思ってるみたいに優しくないんだ。だから痛くても引き摺ってくね」
「だから、それって」
「雨くんなんて、せいぜいおれにもういやだってくらい大切にされて、自分のことだいすきになればいいよ」
さっきまでふにふに頬を弄んでいた指が、今度は額を小突いた。痛い気がする。全く痛くない気もする。
何か落ちた。彼の頬に、雨が降った。
その雨を彼は指で掬って舐め取って「このばぁか」と笑った。
自分を大切にできない奴に、誰かを愛せるものか。そういうセリフを、どこかの物語で読んだ。
でも彼の笑った顔を見ているとふと、違う言葉を思い出した。
誰かに愛されることで愛せる自分もいるとか、そんなこと。
急にずしっと胸が重くなった気がして、今まで空っぽだったことに漸く気づいた。彼はまだ微笑っていて、全部知ってるよっていう顔をしていて。
雨がまだ止んでないのに首に腕が回ってきて、それから今までで一番近くに栗色の瞳を見た。
ぼやけてたけど、綺麗すぎて泣きそうになった。
遠くであの子がまた、「みゃあ」と鳴いた。
「さくは変わってるね」
「そうかな」
「本当に変わってる」
「褒められてるのかな」
「どっちでもないよ。でも僕と友達になりたいだなんて変わってるよ」
「………ともだち?」
「友達」
「ともだち」
「好きって、そういうことでしょう?」
「………あのね、雨くん」
「ん?」
「さっき何したか覚えてるかい」
「さっき?膝枕した」
「そのあとは?」
「えっと、あれはその」
「ともだち同士では、ああいうことしないんだよ」
「じゃあさくは、別に僕と友達になりたいわけじゃ…」
また泣きそうになったところで、咲が慌てて「違わないけど違うよ!」と珍しく声を荒らげて両手で僕の顔を掴んだ。
こんな風に慌てたりもするんだ。やっぱり見てて飽きないや。
「おれはきみと、ともだちにもなりたい!」
「そうなの?」
「もちろんそれだけじゃないけども、今はとりあえずそれで」
「いいの?」
「なにが?」
「これからも、その…一緒にいても」
これは自分からすれば結構踏み込んだ、勇気の要る質問だ。おずおずと見上げながら尋ねると彼はふうと息を吐いた。
「ごめんね雨」
「え」
駄目なのかと思って、また視界がぼやけそうになるより先に彼が視界から居なくなった。と思ったら、身体中に彼の高い体温がくっついてて。
ぎゅうと背中に回った腕が力を増して、耳元で声が降ってきた。
「あのね、それ以外の選択肢ないんだ」
「そうなんだぁ」
「そうなんだよねぇ」
何の話だっけ。猫ちゃんの撫で方だっけ。今日の天気のことだっけ。
耳元で聞こえた声に何となく返事をしたけれど、身体中が熱くて、多分赤くなってる顔を見られたくなくて僕はもうそれどころじゃなかった。
ただ分かったのは、まだこれからも彼と一緒にいてもいいらしいということ。それだけで重くなっていた胸が今度はすっと軽くなった気がしてまたもや不思議な気持ちになる。
「んぁー、ばかわいい」
「鳴き声?」
「そう。にゃお」
「にゃあ。ふっ、あははっ!」
思わず笑いが溢れる。彼の肩も震えてる。
「猫語を話す雨くんあとで録音させてください」
「…なんで?」
「………勉強用かな」
「勉強用」
猫語のかな、と思って首を傾げると彼の結わえられた髪が頬に当たった。猫ちゃんのもふもふとは違うけどこれも、触り心地がいい。
不思議だ。どこまでも不思議なきみ。もう僕の日常になくてはならない、大きな、制服を着た話す猫ちゃん。
どこへ続くのか、どこまで続くのか分からない道も、彼となら踏み出していける気がするなぁ。
「見つけてくれてありがとう」と耳元で、彼と僕に分かる言葉で呟く。すると彼が「こっちの台詞」だとまた微笑った。
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