「………ボクサーじゃん」
さあさあと流れる水の音も擦りガラスの向こうに見えるシルエットも、脱ぎ捨てられた服も下着も何もかも刺激が強過ぎて一週回って冷静になった。
そんな彼の手には、脱衣所に入る時踏みそうになり、邪魔だなぁと拾い上げた布が握られていて。
ぼうっとそれを眺めてまた色々とキャパオーバーになった彼が何とか放った一言がその布の名称だったことは彼と、足元に居た猫しか知らない。
お腹もいっぱいでご機嫌で、ふわふわと楽しい心地でシャワーを浴びているとカタンと脱衣所で音がした気がした。まぁ多分しろあんだろうなと思って気にせず風呂に浸かり、ぽかぽかの身体でリビングに出ると見慣れた後ろ姿があって一瞬驚いた。白羽だ。
そういや今日はこいつ泊まるんだったとふと思い出して、彼が振り向く前に、まだ手に持ったままだったTシャツをそっと着た。風呂上がりにちょっと涼んでから着ようと思っていたものだ。
部活の着替えとかで上半身の裸くらい何度かお互いに見たことはあるけれどそれはそれとして、何か恥ずかしい。白羽はソファーでテレビを観てるらしく、俺にはまだ気づいていないっぽい。良かった。
上半身裸とか…意識してるのはまぁ俺だけだろうけど。こんなこと知られたら揶揄われるだろうけど。一応、先輩の尊厳っていうか…。
そういえばタオルを脱衣所に持ってくの忘れたと思ってたけど、風呂から上がったらあったな。実は持ってきてたのかな。
それともあの音…もしかしてもしかしたら白羽が持ってきてくれたという可能性もなきにしもあらずなので、一応訊いてみるべきか。
「白羽ー」
「…っ!!びっくりした…」
「え、なに、そんなに?」
髪を拭きながら彼に近寄り背後から声を掛けると、こちらが驚くくらい肩が跳ねて彼の膝に乗っていたしろあんが稀に見ない俊敏な動きで飛び退いた。
何だどうしたんだ、びっくりホラー映像特集でも観てたのか。違うな、バラエティーだ。しかも俺が好きなやつ。
「風呂上がったの」
「おう。あのさ、もしかしてタオル、」
「次入る」
「あ、うん。あの、タオル持ってきてくれたのって」
「知らない、ちゃんと髪拭いて」
「あわっ」
全っ然目ぇ合わせてくんないじゃん…。とか思っていると、持っていたタオルを奪われてバサッと頭に被せられたため、完全に白羽の顔どころか何も見えなくなった。
わしわしと半ば乱暴に髪を拭かれるが、痛くはない。でも何で怒ってんだろ。怒ってるのかな。目合わせてくれないもんな…。
まさかタオルを持っていかせたことにムカついて…?そんなことで怒るだろうか。分からん、思春期の後輩。一個しか違わんけど。
タオルの隙間から下を見ると、足元でどこからか戻って来たらしいしろあんが「にゃあ」と鳴いた。ご飯はさっきあげたはずなのだが、多分おやつの要求だな。
これ以上もちもちになってどうするんだと思わなくもないが可愛いのでちょっとだけあげよう。白羽が手を離したら。
と思っているものの。中々髪を拭き終わらない不思議。俺、短髪なのにな。これ以上拭かれると禿げるかも知らん。困る。
「白羽さーん、もう乾いてるよ俺の髪」
「…ボクサー」
「ん?何、将来の夢か?」
「違ぇし。なんでもないし」
「そっか。とりあえず、手離してくれると大変助かるんだけど」
「…クロが」
「俺が?」
「裸で、出てきたらどうしようかと思った」
おお…。ぽつりと溢された声は本音なんだなというのがはっきり分かるくらい、真剣だった。
そんなにか。
「それはさすがに…見苦しいよな。しないよお前が居るのに」
「別に…」
部活で見慣れてるだろうとか思ってたちょっと前の俺が恥ずかしい。いや、着たけど。着てよかったっぽいけどさ。
彼にはこんなに気にされてたのかとちょっとしゅんとしていると、漸く手が離されて視界が広くなった。でも白羽の顔は見えない。
何でって、思いっきり逸らされてるから。
「今は服着てますけど」
「知ってますけど」
「それでも見苦しいってかこんにゃろう」
「いやそんな…あの、うん。スッゴイキレイダヨ」
「せめて顔こっち向けて言えよ」
風呂から上がってから、白羽がおかしい。頑なに俺を見ようとしない。そんなに嫌か?部屋着姿くらいならいくらでも見慣れてるはずだろうに。
「しろあん、白羽が俺のこと嫌う…」
「みゃ」
「嫌ってないし!」
あ、やっとこっち向いた。これくらいの冗談を言えるくらいには、彼が本気で俺を嫌ってはいないんだろうなって思えるようになった。多分。
今日は何だか気分が良いし、楽しいし、彼がいつもより近くに感じるから気が大きくなってたってのもあるかもしれんけど。それでもやっと目が合ったことが嬉しい。
ふっと頬が緩むと白羽の顔が赤くなるのが分かった。肌が白いから赤くなるとすぐ分かるなぁ。まだ風呂入ってないのに。
「風邪か?」
「元気だって。あんま見るなヘンタイ」
「何で?服着てるし」
「だからどこで買ってくるんだそれ…」
「格好良いだろ?今度連れてってやるって約束したもんな。楽しみだなぁ」
「あぁ、うん。まぁ」
「行きたくない?」
「そんなこと言ってない。お風呂借ります」
「どうぞ。あっ、着替えとか」
「ある」
「あるんだ」
いつの間に持ってきてたんだ。というか、喜んでるのかそうじゃないのか相変わらず分かりにくい奴だな…。楽しみにしてるの俺だけかも。だったらどうしよ、へこむな。
でも彼は嫌なことはきっぱりはっきりばっさり嫌だって言う性格だし、本人もそう言ってたし。
俺との約束だって、嫌ならちゃんと嫌って言うだろうな。なら、断られないってことはほんのちょっとは行きたいって思ってくれてるってことでいいのかな。
分かんないならそういうことにしておこう。な、しろあん。
「なぁ」
「今溜め息吐いた?食べ過ぎか?」
白羽が風呂から上がるまで、ソファーでしろあんとイチャイチャしながらスマホをいじったりテレビを観たりしていた。
それでも頭の片隅にはずっと彼のことが離れない。一緒に出掛けられることとか、さっき食べたカレーとか、風呂上がりの白羽の態度の意味とか。
ボクサーになりたいのかな、あいつ。
「風呂、ありがとうございました」
「おう…わぁ」
「ん?」
風呂から上がってきた白羽はいつもより気怠げで色気が強くて、どうしてかいつもみたいに直視できなかった。まさか白羽も同じ理由で…?とか一瞬だけ馬鹿なことを思ってしまったが、俺にこんな色気があるはずがないのでその考えはすぐに打ち消すことにして。
ぐるぐる考えている間にも今度は俺が目を合わせないことに苛立ったらしい彼に顎を掴まれたのは割とびっくりした。痛くはないけど、顔が近くて。
「なんでこっち見ないのクロ」
「何となく…というか人のこと言えなくない?白羽クン」
「そう?」
「そう…まぁどっちでもいいや。アイス食お」
「うん」
俺はちゃんと着たのにな。風呂上がりだからか、さっきよりも淡く、けれどほんのり頬が染まったままの彼は上半身に何も纏っていなかった。
マジでどうして、部室でも何度も見慣れてるはずのその姿がやけに恥ずかしく思えて冷蔵庫へと視線を逸らす。俺はちゃんと着たのに。何度も言うけど。
キッチンへ向かうべく身体を離すと俺の顔に触れていた手もするりと簡単に離れていった。それからすぐに後ろで布が擦れる音がしたと思ったら今度は服を着た彼がアイスを選ぶべく横に並んだ。
何で顔熱いんだろ。湯冷めしたんかな…。
やっぱり俺だけが意識し過ぎなんだろうなぁ。
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