昔か今か、ここではないどこかの世界。
とある海沿いのその町に、とても勤勉で働き者の少年がおりました。
彼は学校に通いながらも忙しい親に代わって家の事をたくさんこなし、料理をしたり、町に出て自分で買い物をしたりしていました。
ある時から、学校の帰り道や買い物の途中、少年は何度か不思議な気配の人とすれ違うことが多くなりました。
毎度何かが引っ掛かってすれ違う度に振り向くけれど、姿形はいつだって別の人。男性だったり女性だったり、子どもだったり老人だったり。
少年が違和感を抱いて振り向くとそのひとはいつもふっと微笑んで軽く会釈をしたり手を振って去っていくだけで、少年はいつも不思議に思っていました。
きっとすべて同じ人物だと、心のどこかで確信があったのです。
けれど並みの人間にできることではないことなのも確かで。
あれは妖精か何かの類なのだろうか、それとも何かの悪戯なのだろうかと。
どんな本にも答えは書いてありませんでしたが、少年はそれとすれ違う度にいつも、そのひとの瞳の中に海を見つけた気がしていました。
ただそれだけが、手がかりな気がして…。少年は何とはなしにちょっと遠回りをして、海辺を歩くことが多くなりました。
そうしてある日の帰り道、彼は浜辺に人らしきものが倒れているのを見て思わず駆け寄りました。
うつ伏せに倒れていたそのひとは上半身は何も纏っておらず、そうして波間に見えた下半身は何と…。
「…え、人魚?」
「う………」
波が引いていくその瞬間に見えたのは明らかに人間の足ではなく、魚のような、それもまるで本物のような鱗が輝く尾ヒレでした。
歌や本では伝説として語り継がれていた存在。架空の生き物だと思っていたそれが目の前にあることに驚いていた少年でしたが、彼の呻き声にハッと我に返って介抱することにしました。
ただ何とかしないと、という一心で少年はとりあえずその人魚を仰向けにし、顔を確認してまた…驚きを隠せませんでした。
その人魚はとても、まるで町では見かけたことがないような美しい容姿をしていたのです。
銀糸のような、オーロラを閉じ込めたかのような髪に長く伏せられた睫毛。海底にはないだろう桜のような色の唇は僅かに開いていました。
人魚の頬にそっと手を触れ、呼吸を確認し、少年は持っていた水を飲ませてみました。
そもそも海中に住んでいる人魚に水分補給が要るのかは甚だ疑問ではありましたが、一応考えられる処置を施していると…ほどなくして人魚は目を覚ましました。
ゆっくりと上げられる瞼から、ふと覗く淡い水色。少年はその光景にほっと安堵しながらも、見惚れていました。
今まで見たどんなものよりも透き通った覗き色。じっとそれが顕になるのを見守っていると、やがてその瞳が少年を見つけました。
「………あ」
「あ、えっと、大丈夫ですか?どこか痛いところとか…。あれ、というか人魚って話せるのかな…?」
「…だい…じょぶ…」
「え、あ、ならよかったです…?」
話せるんだ…という小さな感動と、彼がどうやら本当に大丈夫そうだという安堵に少年はまたほっと息を吐きます。
すると、少年から目を逸らさないままその人魚は何やら唇を緩く動かしました。聞こえなくて、少年はその顔に、唇に耳を寄せます。
「………」
「すみません、何て…?」
「見つけてくれた…」
「………は?」
「いや、ずっと…見つけてくれてた…。きみだけが、ずっと」
「え、えぇっと」
少年がもしやと今までの「彼ら」を思い出す内に、頬にちゅっと柔らかい感触が当たりました。
思わず距離を取って人魚を睨むと、彼は先程の様子はどこへやら。全くもって元気そうに上体を起こし、にこにこと花が綻ぶような笑顔を少年に向けていました。
「いやあ、ほんときみってばおれを見つけるのが上手だね!」
「何の話ですか…」
「分かってるくせにぃ。やっぱ大好き!」
「ほんと大丈夫ですか。主に頭とか」
「辛辣なところもすきだよ」
「は?」
途端、ぐうううううっと怪獣の鳴き声のような音が響き渡り少年は思わず身構えます。けれど人魚の方は恥ずかしそうにほんのり頬を染めていて、少年は何だか無性に殴りたくなりました。
けれどぐっと堪えて、人魚を睨みつけたまま「もしかして」と推理しました。
「お腹、減ってますか?」
「うん。めっちゃ」
「めっちゃ」
「あー、手料理が食べたい。あ、おれ好き嫌いないです。野菜はちょっとあれだけどまぁ、きみの手作りなら何でも」
「………帰ろ」
「ちょちょちょ待って?置いてかないでちょっと」
「何なんですか」
「お腹が空きました」
「はあ。ガンバッテクダサイ」
「塩!海水よりも塩!」
「元気じゃん…」
その場から去ろうとする少年のお腹にがっしり腕を回ししがみついてくる人魚を振り払うこともできずに渋々、本当に渋々少年は彼に料理を作ることにしました。
結局のところ少年はお人好しだったのです。それから人魚があまりにしつこかったこともあり、少年には実質選択肢がありませんでした。
それにしてもこの姿を誰かに見られたらどうしよう、海辺から自分の家までどう帰ろうかと思案していると。ふとお腹に回っていた腕が解かれ、その代わり少年の肩に手が置かれました。
少年が驚いて見上げるとそこには先程の人魚の顔をした、けれど下半身も完全に人間の足を持った彼が立っていました。
「…うそやん」
「いやぁ、この姿保つの結構体力消耗するっぽくてさぁ。早く帰ろ?」
「お前ん家じゃないけどな」
人間の姿になると少年よりずっと背が高かったこと、服を着ていなかったくせに彼が変身した途端、上半身も下半身も服を着ていてその上スタイルがやたらと良かったこと、それからパチンと軽快なウィンクをされたことすべてが少年の癪に障りました。
ちょっと肘鉄すると軽く避けられましたが、それでも少年から人魚…だった青年が離れることはなく。
「おれさぁ、人間の町に出掛けるのが趣味なんだよね。でも何か毎回目が合う子がいるなって思って」
「はぁ」
「どんな姿してても見つかるじゃん?もうおもしろいなって嬉しくなっちゃって。ちょうど会いに行こうとしてたんだよねぇ」
「二度と来んなヘンタイ」
「あはは!あ、おれこれ好きー」
「お菓子…」
肩にあった彼の手はいつの間にか少年の手を握り、繋いだまま人間の町を歩く二人。少年はムカつく人魚の話を右に左に聞き流しながら、やはりあれは同じひとだったのかと一人納得していました。
「とりあえず親御さんにごあいさつかな。おれの名前はね、」
「何でずっといる前提?」
「リョウくんが好きだからさ」
「名前…個人情報…」
「でね、おれの名前は…」
「………はぁ」
それからというもの。
リョウというその少年がご飯の度に大量の野菜を出し続けても、その人魚は少年の家に居座り続けたのだとか。
そして人魚の彼の、本当の名は。その少年だけが教えられたといいますが…。
「お菓子ばっか食べてると太りますよ、トワさん」
「めっちゃバラすじゃん、草」
「草て。片付けろ」
「やっぱ辛辣。ツンデレかな」
「違うかな」
そうしてふたりはいつまでもいつまでも幸せに…。なったのかどうかは本当に彼らだけの秘密だそうです。
「別に秘密じゃないよ」
「………はぁ」
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