mitei please, listen to me | ナノ


▼ 1

海の見える町だった。

多分、本当に小さな田舎町だったと思う。
おれの一番古い記憶の中にはいつも潮の香りやさざなみの音、そして穏やかに微笑むあのひとの姿があった。

住んでいたところはよく憶えていないが、多分そんなに良いところではなかった。狭くて壁が薄くて、冬は寒いし夏は暑いし、風が強く吹けばガタガタと窓ごと揺れて、おれはそれが少し怖かったのだ。
吹けば飛ぶような…という言い回しなんて当時のおれは知る由もなかったが、言葉にすればそんな感じの住まいだったかもしれない。

父親のことはよく知らなかった。多分、会ったこともない。赤ん坊の頃にもしかしたら会ったことがあるのかもしれないが、おれの記憶の中にはその姿はシルエットすら浮かばない。
だけど多分、いや絶対にあのひとは彼のことを愛していた。愛していただろうし、きっと今も愛している。

なぜって。
だってあのひとは、もう古びてしまった紙切れを大事そうに指先で摘んではその紙切れにおれに向けるような柔らかな表情を浮かべ、たまに寂しそうに唇を引き結んでいたから。

その表情の意味するところは幼いおれにはちゃんと分からなかったけれど、今思えばそれだけで十分だった。

二人暮らし、海辺の町、ボロいアパート。
それが多分、おれが生まれ育ったところ。まぁ生まれた町が同じところかは実際分からないのだけど。

彼女は忙しく、日中は保育園だか幼稚園だか託児所だかに預けられていた。名前ももう憶えていないので分類はどうでもいい。
ただ朝早くに起きて仕事に向かうそのひとの手に連れられて、おれはたくさんのおれ以外の子どもたちがいるところへ預けられていた。

夕方になると迎えが来る。あの温かい手に、たまに冷えた手に、あちこちが切れてささくれだった手に連れられて、日が沈めばまたあの静かな部屋へ帰るのだ。
それが分かっていてもおれにとっては、人がたくさんいるそこは窮屈で仕方がなかった。

皆おれと同じくらいか少し年上だったり年下だったりする子どもで、数人の大人が一緒に遊んだりご飯を食べたり昼寝をさせたりする。
もうその頃からおれは「普通」ではないことを薄々感じていた。

だって違うのだ。髪の色も、迎えが来る時間も、そして一番は…瞳の色。
おれにとってはそれが当たり前でみんなと何がどう違ってるのか分からなかった。確かに他の奴らは黒いんだな、くらいには思っていけどそれくらいで、大したことではないと思っていた。
なのにどうやら他の皆は違っていたらしい。透明で、表情の変化も乏しかった子どものおれを遠巻きに見てはひそひそ噂したり、面と向かって子どもらしく揶揄ってみたり。
大人に促されてか、たまに一緒に遊ぼうと声を掛けてくる子もいたにはいたが、やはり奇異の目でおれを見ることには変わらなかった。

一番違うなと思ったのは多分、髪や瞳の色ではなくて、そういった見方なんじゃないかと子ども心に思った気がする。
背が高いとか低いとか、髪が長いとか短いとか、赤色が好き、青色が好き、太ってる、痩せてる、どっちでもない。
そういうのは皆あまり気にしないのに、おれの「色」だけがそこでは異質で「普通」とはかけ離れているのだと、そう感じた。

生まれつきのおれの色をおれは嫌っていたわけじゃない。ただおれと、いつも手を引いておれに微笑みかけてくれるあのひと以外はこういう反応をするのだと初めて思った場所だった。
傷つきはしなかったと思う。揶揄われても「ふうん」くらいにしか思わなかったし、特に腹が立つということもなかった。
おれのそういう淡白なところが大人たちには寧ろ気味悪く見えたのだろうか。子どもたちもだが、大人の方もまたおれのことを扱いづらく思っていることが見え見えだった。

もっと子どもらしく泣いたり怒ったり、或いは思い切り喚いたりすればよかったのだろうか。その方が幾分か愛嬌が感じられたかもしれない。
けれどおれが泣くとあのひとはいつも困ったようなカオをするから、幼いおれはそれをちゃんと分かってしまっていたから、あまり感情を表に出すことはしようとしなかった。
というより、できなかったのだと思う。おれはきっと不器用だった。

その箱庭でのおれの扱いも、あのひとが知ればきっとまた困ったようなカオをして、眉を下げて自分が悪いわけでもないのに「ゴメンね」と謝ってくるに違いなかった。
だから、おれは何も言わなかった。

だけどひとつだけ。
「皆」が言う「普通」というものが、一体どんなものなのか。それだけが知りたくて、だけどいくら考えても答えは出なかったんだ。
それは大人になった今でもそうなのだけど、子どもの頃から本当に可愛くない奴だったと我ながら思う。

色が同じなら。
表情が豊かなら。
思っていることをもっと素直に口にできたなら。

おれはその「普通」とやらに紛れ込むことができたのだろうかと、考えたりもしたけれど別にそこまで熱望するほどそれが欲しいとも思わなかった。

そして数年経った頃、多分おれが小学校になって三、四年した頃だったかな。
一人でおれを育て、家計をやりくりし、働き続けてきた彼女の身体に限界が来てしまった。

ある時から彼女は熱を出したり寝込んだり、仕事を休むことが増えていったのだ。おれは学校から帰ってすぐに慣れない手つきで包丁を使わない料理…のような何かを作ったり、タオルを変えたり、汗ばむ身体を拭いてあげたりと忙しなく看病に明け暮れた。
だけどまぁ、子どものすることにはやっぱり限界があって。

長期間仕事を休み、ちゃんとした休養を摂る必要があると突然家に来た知らないおばさんが言っていた。
それから間もなく、おれは施設に入ることになった。

施設の入り口で、彼女はやっぱり「ゴメンね」としきりに繰り返していたのを憶えている。
いつものあの穏やかな、凪いだ海のような笑みを浮かべようとした頬には透明な雫が何度も何度も伝い、車が出る直前までちょっと冷えた手がおれの小さい手を握っていた。
泣かないでって、言いたかった。悪くないのに、あやまらないで。おれだっていやだよ。さみしい。だけどそれ以上に、荷物になりたくない。元気な顔がいいよ。だから。でも。
色んな言葉も感情も、何一つ音にできずにただ「大丈夫だよ」とだけ笑顔で返す。すると彼女もまた、ほんの少しだけ微笑ってみせた。

遠ざかってゆく車を見つめる。波の音も、おれを呼ぶ声も聞こえない。
太陽が水平線に沈む。おれは、その時多分初めて涙を流して泣いた。たった一滴。それだけに全ての感情を込めて。

施設での生活も、おれにとっては無色透明であの箱庭と変わらなかった。
ただ周りと適当に距離を取って、たまに愛想笑いなんて試してみたり、大人の機嫌を窺ってみたりして。

それでも心の奥底ではずっとさざなみの音がどこか遠くで鳴り響いていて、鏡を見ればぼうっと浅い青色がおれの瞳を覆い尽くしていることにたまに安堵を覚えていた。
ここに、ある気がしたからだ。あの頃の海が、浅瀬の色がこの瞳の中に閉じ込められているのだと思えばどんな揶揄だって風より弱く通り過ぎた。

中学生、高校生になると周りの目が段々と、しかし確実に変わっていったのも覚えている。奇異のものを見る目から、明らかに好意を帯びた目が増えていった気がする。
学校でも、施設でもおれのことを恋愛対象として見る奴が多くなって、直接何か言われることはあまりなかったが通り過ぎる度にきゃあきゃあと高い声が煩かった。

そして高校生になって数ヶ月ほど経ったある日。
おれを引き取りたいという老夫婦が現れた。

彼らは「タカハシ」と名乗った。長年連れ添った彼らに子どもはおらず、たまたま施設のそばで迷っていた彼らを道案内したおれを、ずっと気にかけていたのだという。
どうせ高校を出れば出なくてはならないところだった。その上やはり、長く居たいと思える場所ではなかった。

いつかきっとあの手が迎えに来てくれるんじゃないかという淡い期待は、小学校からずうっと胸の中の金庫にしまったまま。
おれはタカハシ夫婦の皺だらけの手を取った。

二人暮らしだった彼らは裕福で、おれは贅沢な暮らしをさせてもらったと思う。食べ物も遠慮しなくていいし、部屋だって一人では持て余すほどの広さのものを与えられ、息子というよりはまるで孫のように溺愛された。
おれもおれなりに、他の奴らみたいに奇異の目を向けてこない彼らのことを好ましく思っていたので、出来るだけ優等生でいることに務めた。
学校で一番の成績を取れば褒められ、体育祭でも一番、何かのコンクールでも一番、その他でも出来ることは出来る限りやった。

その度に彼らはおれを褒めてくれたが、多分おれが一番を取らなくたって彼らは同じように接してくれたのではと思う。
何かで一番になることは、おれにとって「その場所に居ること」の許可を乞うようなことだった。

だって彼らが普通に接してくれても、おれといるだけでどうしたってタカハシ夫婦もある程度は周囲から注目を集めてしまうのだ。
ならばその注目の眼差しを、奇異や憐れみなんかじゃなく、どうせなら羨望の眼差しに変えてやろうと思ったのだ。

彼らはきっとおれ自身を見てくれていたし、叱るべきときはちゃんと叱ってくれた。
今でもたまに連絡を取っているが、凛陽くんが来るまでは食生活についてなんて報告できたものじゃなかったなぁ。

高校を卒業する前から彼ら夫婦は大学に行くことを強く勧めたが、おれはどうしても他にやりたいことがあった。
大学に入って就職して、働いて結婚して。そうして「幸せ」になってくれと、そう言われた。

それが「普通」のことならば、何と贅沢なことだろうと思う。けれどその贅沢はおれにとって「普通」ではなかったし、もっと他に欲しいものがあったんだ。
おれの話を彼らはちゃんと聞いてくれて、多少反対はされたが結局は好きなようにしていいと折れてくれた。
ありがたいと思う。同時に、利用したようで申し訳ないと、あの町を出て行くときに呟いた言葉を彼らは笑った。

「お前がそう思うのなら、それはこっちも同じだよ」と。だけどおれを選んだことを、とても誇らしく思っているとも。
たったの数年の暮らしだったが、彼らとは確かに家族…みたいなものになれたんじゃないかと思う。
そうだったらいいのにと、呟く度に彼らは笑う。あの穏やかな笑みとは似ても似つかない割と豪快なものだけれど、おれにもたらすものはどちらも同じような心地の好いものだった。

それから数年。

探偵業を始めてから知ったことだが、俺の父は海外で学者として働いているらしい。
父親の素性はざっとしか調べていない。国籍、年齢、職業、そしておれたちを置いていった彼は今どこの国にいるのか。
記憶の中でさえ会ったことのない彼については、書面上だけの情報でおれには満足だった。

ただ、ひとつだけ。
もしあのひとが…彼女が父の居場所を知っているのなら会いに行けばいいのに、だなんて。おれが言えたことでもないことを考えなかったわけでもない。
だが、他でもない二人が別々の道を選んだのだからおれにどうこうできることでもなかった。

もしかしたらおれの存在がその邪魔をしていたのかもだなんて思うことも、正直少なからずあったけれど…。
あの笑顔を思い出す度、潮騒が記憶を濡らす度に、そうでなかったらいいのにと願うことを止められなかった。

願って。祈って。おれは未だに何かを探すことをやめられないでいる。
そんなところに、陽の光が舞い降りた。

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