同じ大学に通う奴が多く住むアパートだから、大学からそんなに距離はない。けれど、街中にあるので一つ大きな道路を渡っていく必要がある。
ここの信号、一度掴まると結構長くて俺はあまり好きじゃない。というか歩道橋とか作ってくれればいいのにな。明日になったら出来てたりしないだろうか。
右手に、きゅっと力が込められた。別に離しはしないのに。
隣でふと、俺より頭一つ分高いところから声が降りてくる。思いがけない言葉で、俺は思わず顔を上げた。
「オレときみの初対面、ここだったなぁ」
「え、ベンチじゃなくて?」
「うん。オレが覚えてる限りは、ここだよ」
信号は赤。まだまだ青にはなりそうにない。
それにしても初耳だった。アパートとかあのベンチとか大学構内とかでもなく、まさかの路上が初対面だったとは。すげーどうでもいい。
「ここってさぁ、割と大きな道路の割に時間帯によっては交通量少ないじゃんね」
「そだな」
「何ヶ月前だったかな…。オレがここで立ち止まってた時、後ろから声掛けてくれた子が居たんだ」
「今渡って大丈夫だよ」って。
彼はその時を思い出すように、まだ青にならない信号を見つめながらそう言った。けれど俺にはそんな記憶はない。
そういうことがあったのかもしれないが、なかったかもしれない。そう言ったのが俺だったなんて、コイツの思い違いかもしれないし。
なのにさくらは俺に向かって微笑んだ。いつもとほんのちょっと違う。笑ってるのに、転んだ後で痛みを堪える子どもみたいな顔だと思った。
「オレね、色がよく分からないらしいんだよ」
「そっか」
「いつもと変わんないな。好物の話でもしてるみたい。そういうところ、やっぱいいなと思うよ」
「何か違うの」
「さあ?違うんだって」
さくら曰く、全く色が分からない訳じゃないらしい。別に日常生活に支障は無い。言わなければ。躱していれば。
「普通」にしていれば、彼が見ている世界が何色かなんて、誰にも悟られることはないのだと自嘲気味に言った。
ちょっと腹が立ったので目潰ししようとしたけど届かなくて断念した。利き手は塞がってるしなぁ。クッソ。
話しているうちにも信号が青に変わる。この時間帯は人通りがある方で、車も多く大学へ向かう学生も多い。だから、分かり易い。
なのにさくらは、俺が歩き出すまで進もうとしなかった。
「さくら」
名前を呼ぶ。グレーの瞳が、はっきり俺を見た。
「今、渡れるよ」
繋いでいた手を引いて、促す。それを待っていたかのように、長い脚を前に出してさくらは歩き出した。身長差があるのに一緒に歩いていても俺が置いていかれないのは、きっとさくらが歩調を合わせてくれているからだ。
俺はまたムカついたので目潰しにかかったが、普通に避けられてしまった。クッソ、成長期もっかい来い。
「十色は変わらないな」
「昔馴染みみたいに言うな」
「オレはさ。別にコレが普通だから、何にも思わないんだよ。でもいつだったか、信号の色って分からないんだよーみたいな話をしたら可哀相って言われたんだ。意味が分からなかった」
そこで気づいた。オレの見ている世界と皆が見ている「普通」の世界は違うんだと。
そんなことを呟いてまたちょっと俯いて、まるで自分が悪いみたいな顔をするから、今度は全力でデコピンにかかった。そして今度こそクリティカルにヒットした。よっしゃおらぁっ!!
「ざまぁ」
「シリアスシーンなんですよね…いってぇな」
「お前が悪い」
自分が悪いみたいな顔するから。変態のくせに。探究心旺盛なスウェットの精のくせに。
「十色くん容赦ない」
「当たり前。ほら立って」
ぐいと繋がれたままだった手を引いて、蹲っていた彼を立ち上がらせようとする。なのにそれは失敗して、俺の方が引っ張られて地面に座る彼に抱きすくめられてしまった。道路の上、じゃなくて、もう大学の中なんだけど。
それでも人通りがゼロじゃないのに、スウェットの精は一向に腕を解いてくれる気配もない。俺が傍観者の立場のモブなら朝っぱらからなにイチャついてんだよと思ってしまうだろう光景である。恥ずいんだが。
「うれしかった」
耳元で声がした。顔が見えない分、俺からは隣を無心で通り過ぎる学生たちがよく見えた。だから恥ずかしいんだって。
「離してくれると俺は嬉しいのですが」
「青だよ、じゃなくて、今渡れるよって。あの瞬間から、きみがオレの世界に入ってきてくれた気がした」
「それってもう出られない?」
「うん。出してあげられないな」
「…あのさ、俺はお前が思ってるようないい奴じゃないよ」
「知ってるよ」
「そこは嘘でもそんなことないよって言えよ」
「嘘は吐けないな。すぐ目潰ししようとしてくるし、洗ったもの大体洗剤残ってるし、良くも悪くも淡白だし、無防備だし流されやすいし作ったもんは大体綺麗に完食してくれるしたまに見せてくる笑顔はすげー可愛いし」
「褒めたいの貶したいのどっち」
「どっちも含めて、もっと知りたいんだよ」
「物好きな…」
「オレ今スウェットの精だから。今日から一緒に寝ようね」
「言う場所考えてくんない」
たくさんギャラリーが聞いてますよ。多分、コイツのファンクラブ会員もな。
固い地面にはまだ、遅咲きの桜が残したんだろう花びらがちらほら見えた。いや違うかも。他の花かも。それともただの紙切れかも。
もうどっちでもいいや。何かぎゅっと抱き締めてくるの俺には解けそうもないし、通り過ぎていく学生たちは皆、申し訳ないことに私は空気ですよ感を出して気を遣ってくれてるけど。
なんかもう、俺もコイツのことそんなに嫌いじゃないみたいだから、まぁいいや。そう思ってちょこっとだけ抱き締め返すと、いつか部屋で聞いたグスッて音がすぐ傍で聞こえた。
誰かラーメンでも食ってんのかな。こんな道端で。
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