「ポン酢とー、醤油と…そういや、みりんもか…。調味料ことごとく切れかけてんな」
深夜、誰も居ない空間に響くのはメモ帳に買い物リストを打ち込む自身の独り言と、ざあざあと回る水の音。雨が降ってる訳じゃない。
たまに外の道路を走る車は、ほんの一瞬だけ光の軌跡を残してすぐに去っていく。
なんてでかくてロマンのないホタルたちだこと。
薄暗い四角の空間の中、しばらくぼうっとブルーライトと戯れていると音が変わった。
ガッコンガッコン鳴る音は、多分脱水を始めた音だろう。あともうちょいかな。眠いし、乾燥機に入れ直すのは面倒なのであとは家で適当に干そう。
…コーヒーの染み、綺麗に落ちるだろうか。
一応終業後にも店で手洗いしてみたが、もしちゃんと落ちなかったら弁償…いや買い取りか?
ま、いいか。
ここは俺の家から徒歩数分のところにあるコインランドリー。いつも人気がなく少し寂れていて、古い台と新しい台が混ざりあっている。
管理人はいつも不在。まぁコインランドリーなんて大体そうだろうが、24時間営業ってのは結構助かってる。
あと何分かなぁ。
今日はホント、色々あって疲れたなぁ…。
水曜日のこんな時間、もうそろそろ日が変わろうという時にこんなところに来るのは俺くらいだろう。実際他には誰も居ない。
ふうっと吐いた溜め息に気づく人も、居るはずがない。暗くなって紺色に近い壁を見つめていると、視界の端にはピコピコと数字が光る。
静かだ。
ここはゴウンゴウンと機械の音はするけどそれ以外に音はしないし、人に気を遣わなくていいし、何も考えなくていい…俺はこの時間が結構気に入っていた。
だからまぁ、シンプルに驚いたんだ。
誰も踏み入ってくることなんてないと思っていた俺だけの空間に突然、違う匂いが流れ込んできたことに。
「電気つけなよ、真っ暗じゃん。人いると思わんくてビビったぁ」
「あ…すんません」
パチッと音がして、視界が一気に眩しくなった。まぁ確かに電気点いてないところに人がいたらビビるわな。それは分かる。悪かった。
けどさ、そんなフランクに話し掛けられるとは思わないじゃんな。俺もびっくりしたよ。
俺のあとにコインランドリーに入ってきた奴は、でかめのビニール袋に詰めた洗濯物をドサッと洗濯機の中に入れるとピッピッと軽やかに操作した。慣れてんのかな…と思ってまたスマホに視線を戻すも、次の瞬間チャリンと音がしてすぐに顔を上げる。
ありゃあ、コイン落としたんだな。
たまたま足元に転がってきたそれを拾って、しゃがみこんでいたそいつに渡そうとして…一瞬時が止まった。
さらさらと流れる濡れ羽色の髪に、その隙間から覗く瞳は赤みを帯びていた。
…ルビー?瞬きしてまた現れるそれは、蛍光灯の下でも俺の時を止めるには十分なほど…きれいな…。
「…さん、おにいさん」
「え、あぁ!ごめん、ハイこれ」
「ありがと。ね、今おれに見惚れてたでしょ」
「いや、あー…。まぁ、ちょっと。すげぇ綺麗な目だなぁと思って…」
「………」
「あー、すんません突然。こんなこと言われても困るっすよね、俺のやつもうすぐ終わるんで、それ取ったらさっさと帰り、ま…?」
す、まで言えなかったのは手首を掴まれたのに気づいたから。
思わず視線を落とすとその拘束はすぐに外されたが、視線の拘束は外されない。やたらと引力のある眼差しで俺を捕らえたまま、青年は言った。
「いや、あまりに素直でびっくりしちゃって…。帰るとか寂しいこと言わないで、良かったらちょっと話し相手になってくれません?」
「話し相手」
「そ、ちょっとの間だけ」
「………なんで」
「寂しいから、とか?」
「なぜ疑問形」
俺は疲れてるんだ。今日は仕事でイレギュラーなことがあったし、怒られはしなかったけど結構メンタルは削られたし、ほぼコップ一杯分のブラックコーヒーは手洗いでも中々落ちなかったし、一言で言うと疲れたんだ。
実際さっきからめちゃくちゃ眠い。
青年と顔を合わせてからちょっと目が覚めたとはいえ、身体の疲れまで消し飛んではくれなかった。
でも…。
「だめ?おにいさん」
「だめっていうか…」
「ちょっとだけ、コイン拾ってくれたお礼に、コーヒーか何か奢るよ」
「別に要らないっすよ」
今日はもうコーヒーは十分。
「なら、おにいさんの洗濯が終わるまで。数分でいいから」
「んー。………わかった。いいよ」
いいよって。
口が勝手に言っちゃった。頭がよく回っていないのかもしれない。それとも俺も、本当は誰かと話したい気分だったのかもしれない。
渋々とはいえ俺が承諾すると、彼はきらきらと表情を明るくして本当に嬉しいとでも言いたげな笑みを湛えたまま俺の手を引いた。
古びたパイプ椅子がギッと鳴る。すぐ隣に、ルビーの青年が腰掛けた。深紅の瞳がそれっぽいから、内心でとりあえずそう呼ぶことにする。
「おにいさんこの辺の人?遅い時間に来るんだねぇ」
「うーん、まぁこの時間人いないし、落ち着くし…」
家も近いし、とまでは言わなかった。
一応初対面だしな。個人情報は出しすぎない方がいいだろう。疲れた頭でも、それくらいは考えられる。
まぁ家が近くなきゃこんな時間にこんなところには来ないだろうなっていうことまでは、思考が働いてなかったのだが。
「人がいない時を見計らってたんなら、おれは邪魔だったかな」
「あぁ、いや、そうじゃなくて、」
まずい。そこまでは気が回らなかった。
青年に気を遣わせてしまうなんて。
やっぱり今日は疲れてるんだ。疲れてるからって、さっきの言葉の免罪符にはならないだろうけど。
「ゴメンね、おれ、おにいさんの邪魔しちゃった」
「違うよ、してない。俺も今日は、誰かと話したかったんだよ」
「ホント?」
「ほんと」
「あは、おにいさん優しいね。優し過ぎるよ」
「そこまでではないよ…」
大袈裟な人だなぁ。
俺と話しているっていうだけで目をきらきらさせて、本当に嬉しいんだろうと全身で伝えてくる。何がそんなに楽しいのか俺には分からないけど、俺も彼と話すのは嫌じゃなかった。
不思議と疲れない。いや、身体はもう疲れてるんだけどなんか…精神は回復してる気がする。
それからルビーの青年とは他愛もない会話をしていた。食べ物で何が好きかとか、音楽は何を聴くのかとか、最近あったおもしろいことは、とか。話題は尽きない。
それに音楽はさっぱりだったけど、食べ物の好みは結構合うらしい。そんな何でもないことに嬉しくなって、思わずふふっと笑ってしまった。
俺の洗濯なんてとうに終わってる。
青年の分も、もう終わるところだった。
数十分がこんなあっという間に感じたのはいつ振りだろう。不思議だなぁ。
「おにいさん、洗濯終わってるね」
「君のやつも、終わったっぽいね」
「乾燥機かける?」
「いや、今日は…いいかな」
「そう?お金出すよ」
「へ、なんで?」
「付き合わせちゃったお礼。と、もう少しだけ話したいっていう下心」
「そんなら、自分で出すよ」
「でも」
「俺ももうちょっとだけ、君と居たい」
何気なくそう言うと彼は暫く沈黙して、少しだけ目を見開いていた。ルビーが蛍光灯の灯りをこれでもかと取り込んで輝いて見える。
なに、俺なんかやらかした?
何かおかしなこと言った?
「…じゃあ、よろしくおねがいします」
それだけぼそっと呟いたルビーの彼は俯いてしまったが、気のせいか耳が赤くなっているように見えた。
…いやいや気のせいか。
それよりシャツって、乾燥機入れて良かったっけ。
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