side.シキ
どこまでならば赦されて、どこからが赦されないのか。
分からなくて不安で、なのに心は言うことを聞かなくて、彼の答えを待たずに心のまま触れてしまいそうになることなんて何度もあった。
本当は…。いつだって、ほんの少しでも拒絶されればすぐにでも離れるつもりだった。
絶対に離さないと思いながら、同時にこの手を離さなければならないことも心のどこかでずっと覚悟していた。
そうやって矛盾を抱えながら勝手に引いた彼との境界線を、時に縮めてみたりやっぱり遠ざけてみたりして。
おれが試行錯誤しながら引いたそれを一見いとも簡単に…その実かなりの勇気を持って彼は飛び越えてきてくれたんだ。
いつも、時折想像していた。
彼に拒絶される未来を。
もし本当にそうなってしまったらおれはきっとその線から動くことすらできなくなってしまうのに、現実の彼は朗らかに笑って「そんなものはないよ」とおれの不安をさあっと打ち消してくれる。
なのにおれの方から不安にさせてゴメンな。
きみのこと、信用してないワケじゃないんだ。
心から、信じたいんだ。だけどおれはおれ自身を、まだ信じられないままでいるんだ。
いつかきみが易々と消してしまった境界線を、その跡を飛び越えた先に、何があるのか確かめるのが怖いんだ。
けどきみはきっと、笑って手を広げて待っていてくれるんだろうなぁ。ならおれもちゃんと応えなければと思ってる。
思ってはいるけれど、もうちょっと待ってて欲しい。そう言うのはわがままだろうか。
おれの想いときみの気持ちが同じ重さになるまでの、その時間に、おれにも境界線を飛び越える覚悟はできるだろうか。
きっとするけど。してみせるけど。
ぼうっとしていたことに気づかれたのだろうか。首に回された腕にほんの少し力が込められて、自然とまた顔が近づいた。
さっきまで触れ合っていた唇にまた触れると、僅かにきゅっと引き結ばれる。その反応に離れようかな、と思うがすぐに薄く唇が開いたことに驚いて、やっぱり離れることなんてできずに舌でさっきより乾燥してしまった彼のそれをなぞった。
簡単に招き入れられた口の中に恐る恐る舌を入れ、上唇を食み、彼の舌をなぞれば抱き締めた身体がふるりと震える。
これは羞恥や快感からのものだと、彼の潤んだ目を見ればすぐに分かった。そのせいかな、何か熱いものが胸に込み上げる。
きゅっと服を握る指の力が強くなったのを感じながら、おれは両手で彼の顔を包み込んで深い口づけを繰り返した。彼の手がおれの後頭部を撫でるように優しく触れる。それにまた嬉しくなって、何度も何度も角度を変えて酔いしれていると、知らない内にベッドに二人倒れ込んでいることに気づく。
この体勢は…とハッと我に返ると、おれの下で荒い息を繰り返すショウゴがいた。
頬を紅く染めて潤んだ目で見上げてくる姿は想像していたものよりもずっとずっと蠱惑的で…正直心臓に悪かった。
もうさすがにダメだと身体を起こそうとすると、思っていたよりずっと性悪な彼がおれの背にまた腕を回す。どうやらまだ離してくれる気はさらさらないらしい。
「ショウゴさーん?腹減らない?」
「んー…もうちょっと…」
んんんんんっ…!
お義兄さん、アンタの弟とんでもねぇよ。
これ多分、いや今までもそういう部分は垣間見えてたけど、相当な天然だよ!質悪いよ!いや嬉しいけどさ!
…おれどうしたらいいワケ。
マジで理性に休暇出しちゃっていいの。いや、しっかりしないと。しっかり…。
いやぁ、ダメだったわ。
「なぁ、悪いんだけど、今日冷凍食品でもいいか?…まだ離れたくない」
「全然。俺だってまだ…こうしてたいし」
「んんんーっ!ゴメンやっぱすんごい何か作りたい気分!手のかかるやつ!今からちょっと用意して」
「ダメ。離れないって言った」
「離れたくないとは、言いましたけども…。アレ、言ったっけ?口に出してた?」
ああもう。離れたいし離れたくないし、忙しい。
情緒がとても忙しいんだが。
きみと出逢ってからずっとそう。ずっとそうなんだけど。一分一秒様々な色が心に足されていくようでさ。それが混ざってせめぎ合ってる。
おれはずっと、せめてきみの前では綺麗な色でいたいのに。
また、溢れてきたものを見られたくなくて肩口に顔を埋めた。首筋からおれのものでない体温と、彼にしかない匂いがする。
深呼吸して、ちょっと顔を上げて、耳元で囁いた。ほとんど吐息みたいな掠れた声だった。
「………ありがとう」
「俺の台詞だよ」
馬鹿じゃん。
おれの台詞を自分のもんにすんなよ。おれのだわ。勝手に取るなし。
ぐりぐりと頭を押し付けるとふふっと微笑うような息が漏れたが、それだけでまた泣きそうだった。
自分がこんなに泣き虫だったなんて、全然知らなかったんだよなぁ。
………。
ちょっとムカついたので首筋に吸いついたら彼はびっくりしたのかピクリと身動ぎしたが、背に回る腕は促すように緩く撫でてくる。
ピリッとした、なんて抗議とも言えない声で抗議されたそこには、いつもの赤い花が小さく咲いた。
そして夕食時。
結局冷凍食品ではなく、簡単にだが煮込みうどんみたいなものを作った。
残っていた野菜や肉を一緒くたに煮込んだだけなんだが、それだけでも彼はいつも感動してくれるので作り甲斐がある。
真正面に腰掛けながらまじまじと猫舌な彼の一挙手一投足を眺めていると、先程までのアレコレが一瞬夢のように感じられた。
こういう何気ない瞬間が、日常って感じがして落ち着くんだよなぁ。さっきまでの色気はどこいっちゃったんだか。
あ、やっと口に運んだ。ふうふうして冷ましてやろうかっていう半ば本気の冗談も今日だけは言えなくて、火傷しないか心配しながら見つめてたけど。
そういえば、ショウゴの身体はおれの作ったものでできてるんだなぁなんて。そんな薄暗い考えが浮かんで、僅かな優越感と言い知れぬ興奮のようなものが胸に沸き上がる。と、ふとショウゴがおれの方を向いてふふっと口元を緩めた。
「やっぱ美味しい!そういえば俺の身体って、シキの手料理でできてるんだなぁ。なんて」
「………。はぁぁあああ」
「…?シキさん、めちゃめちゃ溜め息デーしてんね。優勝狙ってんの?」
「まぁな。本当に、誰かさんのおかげでな」
本当に、いつもおれの予想を軽々と飛び越えてくれる。
離すとか離さないとか、離れようとか離れたくないだとか。色んな矛盾がおれの中で交差するけど結局選択肢なんて初めからあるようでないんだと、何度目かの諦めにまた溜め息を吐く。
誰かさんの言う通り今日が溜め息デーなら、まぁ準優勝くらいはするんじゃねぇかな。
幸せもこいつも絶対逃がさんけど、ね。
prev / next