とある平日の夜のこと。
「ショウゴくん、ちょっとここに座りなさい」
「…?はぁい」
俺がお風呂から上がると、壁に凭れかかって待っていたらしい人影に手首を掴まれ、リビングまで連行された。
何だ何だと思いつつ濡れた髪をそのままについて行くと、俺を連行した人物はソファーの上に正座して向かいのスペースをぺしぺし叩いた。
ソファーなのに、なぜ正座。
というか、部屋の中なのに…。
「さて、先生に呼び出された理由は分かるね?」
「せんせー…?てかシキ、何でメガネ?」
「雰囲気」
「雰囲気…」
くいっと伊達のメガネを押し上げたルームメイトは、怒っているのかふざけているのか分からないテンションで目の前に座った俺をじっと見つめてる。先生って…そういうコントかな。
「で、ショウゴくん。先生は怒っています」
「怒ってたんだ」
ふざけてるのかと思ってた。でもそんなに言うほどピリピリした雰囲気じゃないし、本当に不機嫌な時はこんなの比ではないことは知っているつもりなのでもう少しこの茶番劇に付き合うことにする。
ぽたりと、長くもない髪から雫が滴り落ちるのも気にしないで続きを待っているとシキがまたメガネをくいっとして話を続けた。
「あのねショウゴくん、きみがどうしようもないバカで無防備でバカで学習能力がないことは先生も知ってるんだけどね、」
「めっちゃボロクソに言ってくれるね先生」
「心配してるんだよ、おれは」
言いながらシキの手は当たり前の様に俺の首に掛けられていたタオルを奪い取って、正面からわしわしと髪を拭いてくる。ボロクソな言葉の割には眠くなるような優しい手つきに、瞼が落ちそうになるけれど…。
白い布の狭間から見える瞳がどこか真剣味を帯びている気がしたので、俺は黙って言われるがまま、されるがままに身を任せた。
拭くというより撫でるに近い手つきで髪を労りながら、キリッとたまにメガネを押し上げ、やはり謎のキャラクターは崩さずにシキは続ける。
暫く一緒に居て分かったことだが、こいつは結構ノリがいいし、年相応にふざけたりもするのだ。
「で、シキ先生は俺の何が心配なの」
「シキ先生ってめっちゃいい響きじゃん…」
「怒ってたんじゃなかったのか」
「あ、怒ってる怒ってる。ドライヤーするからあっち向いて?」
「説教はどしたん」
「乾かしてからにする。風邪引くっしょ」
本当に怒ってんのか。絶対忘れてただろ。
もう…別にいいけどさ。
いつも通りされるがままに髪を乾かしてもらい、また先程と同じ体勢に向き直った俺たちは暫し無言で見つめ合う。
というか、まだメガネ掛けるんだ…。
「メガネ似合ってんね、せんせー」
「襲うぞ」
「え、めっちゃ怖…情緒どしたん」
思ったままを口にしたらすごい真顔で直球を投げられた。メガネがキラリと光った気がする。
「悪い。本音がつい」
「そこは隠しといてよ…。で、本題は?」
「あぁ、そうだった。ショウゴお前マジでいい加減にしろ無防備過ぎ」
「………はい?」
無防備って…こないだも言われた。言われたしその意味も一応調べたし、結局どうしたら無防備ってことになんないのか分からなかった。
それで今怒られてんのか。分からないことを放置しておくべきじゃなかったな…。
今度からはちゃんと確認しよう。で、一体何が問題だったのか。シキ先生曰く。
「ショウゴくんはお昼寝が好きですよね」
「まあ気持ちいーので。あとよく寝る子なので」
「は?かわいいかよ。違うそうじゃねえの、寝るのはいいの」
「いいんだ」
「問題は、場所!と、寝相!というか服装…?」
メガネをくいっとするのが面倒になったのか、彼は俯いて溜め息を吐きつつ遂にメガネをローテーブルに置いた。先生の設定はもういいのかな。
「えと、ソファーで寝ちゃダメだった?服も…昼寝するときは部屋着アウトなの?」
「それはいい。別に…。ただ、おれが居るってこと忘れてない?」
はて、彼は一体何を言っているのか。
そんなの、同室なんだから居ること分かってるに決まってんじゃん。忘れないよさすがに。
そう思ってきょとんと首を傾げると、また盛大にクソデカ溜め息を吐かれた。怒ってるっていうより、呆れられてる感じがする。
じろりと明らかに生温かい視線を俺に寄越してから、シキは徐にスマホを取り出した。
そうして口で説明するより早いと思ったのか、とある写真を俺に見せつけてこう告げる。
「お前、ホント、どこまでバカなの?」
「うぁ」
明らかな罵倒の言葉と共に見せられたのはソファーの上で昼寝している俺の写真。
部屋着のスウェットは上の方がおへそが見えるくらい捲れ、だらしなくヨダレを垂らしすやすやと気持ち良さそうに眠っている。
当の本人からしてみれば、ぶっちゃけ見せつけられるとめっちゃ恥ずい代物である。
てか何で撮ったの。こんなの撮ってどうするんだよ。
しかしそんな疑問も、次のシキの言葉でさらさらと霧散した。
「マジで誘ってんのかって格好で寝るのやめてくんない。おれの気持ち話したよな?忘れてないよな?」
「あー、そういう…」
そんなん、忘れる訳なくないっすか…。
かあぁっと耳が熱くなるのを感じるが、目の前に突きつけられた自身の情けない昼寝姿はまだそこにあって、視界から引いてくれない。
「こんなの毎回見せつけられる身にもなってほしい。あと普通に風邪引くから寝るならちゃんと布団被れ」
「怒ってるのに優しい…」
「買い物から帰ってきたらこれだよ、おれそろそろキレてもいいと思う」
「ひえ…」
「確かに『公認』スキンシップは言質取った…じゃねぇや、ショウゴも認めてくれたけど。これは手出したら何か違うじゃん」
「つ、まり…シキ、さんは…こんなのでもその、」
よ、欲情していた、と…?
恐る恐る訊いてみると、返ってきたのは鋭い眼光だった。思わず身が縮こまる。
これ、「俺なんかのどこが好きなの」って訊いたときの眼差しだ。怖いんだけど、俺が悪いんだろうか…。
やがてシキは何度目かの溜め息を吐くと、スマホの画面を漸く俺から離し、情けない俺の寝姿をしげしげと眺めながらぼそりと呟いた。
「そりゃあ、好きな奴のこんな姿見て何も思わないワケないだろ…」
「ひぁ、」
好きな奴…。
何度聞いても聞き慣れない単語に背筋がぞわぞわするけれど、嫌悪感はやっぱり無くて。
猫じゃらしで身体の弱いところを擽られているようなむず痒い気分になるのは慣れない。
「そんなエロ可愛い声出さないで勃つ」
「え、あ、ゴメンナサイ…?」
早口じゃん…。もうシキに俺がどんな風に見えているのか全然分からん。
分からないことだらけだけど、大事にされていることだけはこんな俺でも嫌っていうほど分かる。
確かに何も羽織らずにソファーでうたた寝してても、起きたらいつも掛けた覚えのないブランケットが掛けられていた。
服も、自分でやった覚えはないのに目覚めるとぴっちりズボンの中に収められていたのはシキが直してくれてたってことか。
何かもう、色々恥ずかしい…。
「すいませんした…」
「分かればよろしい。なんて、言いたいんだけどなぁ…」
「まだ、怒ってる?」
「怒ってる…ていうか、呆れてるっていうか…。もうちょっと自覚持ってほしいかな」
「じかく」
「おれに好かれてる自覚。…いや、言い方を変えよう。前にも言ったように、ショウゴのこと触りたくてしょうがない奴と暮らしてるって自覚」
「うぉあ…」
真っ直ぐな瞳でなんてことを…。
これでも多分、俺が必要以上に怖がらないように言葉を選んでくれてるんだろうな。
でもなんか、破壊力が、すごい…。
胸がうるさくなって、背筋がぞわぞわして、でも目が逸らせなくて…頬が熱いのがシキにバレるのが恥ずかしい。
「くっっっそかわいいな…。でもまぁ、ちょっとは分かってくれたよな?」
いやいや近い近い近い。圧。圧がすごい。
「わ、わかった、と、おもう…」
「信用ならねぇー」
「気をつけるよ。自覚が足りなかった、ゴメン…」
「まぁショウゴだし、そんな期待してないよ」
「えぇ…」
「とりあえず忠告はした方がいいかなと思っただけだからさ。例え学習能力が無くても」
「めっちゃ言うじゃん。でもさ、だってそんなの、しょうがないじゃんか」
「は?」
そこまで言われると、俺だって反論したくなる。ボソボソと至近距離でも聞こえるか聞こえないかくらいの声で、俺は小さく本音を漏らした。
それがどれだけ逆効果になるか考えもしないで。
「…シキが居る空間って、安心しちゃうんだよ」
「………………は?」
たっぷり間を空けて、漸く乾いた口から声を発したシキの目は少し潤んで見えた。
どうやら瞬きするのも忘れていたらしい。
「シキ、さん?」
「え、マジでショウゴ、おま、マジで………」
「シキ?」
「………………風呂、入ってくる」
「あ、ハイ」
よろよろとソファーから立ち上がったシキは、ふらりふらりとお風呂場へ向かっていった。
その後ろ姿はいつもより縮んで見えるが…。
その理由を、先程の己の発言の意味を、俺が思い知って顔中を真っ赤にしてしまうのはもう少し後のことである。
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