匂いが、する。
馬鹿だとは、自分でも思う。
家に帰る途中、ふと駅のホームの向こうに目を向けた。そんなドラマみたいなことある訳ないって思いながら、いやでももしかしたらなんて期待を抱いてそっちを向くと…あまりにも見慣れたシルエットが立っていた。
あんなシルエット中々見ない。見慣れてなくても、あいつだって分かる。まだそんなに離れて時間経ってないのにせいぜい一、二週間くらいだろうに…目頭が熱くなる。
流れそうになった涙を袖で拭いて、もう一度向こう側のホームを見遣るともうあの姿はなかった。
やっぱり見間違いだった?
幻覚だった?
それとも…俺なんかには会いたくなくて、呆れてどっか行っちゃった?
もう一粒流れる前に、背中にとすんと軽い衝撃。さっきより強くなった彼だけの匂いを鼻が嗅ぎ取り、それからすぐに身体に回される腕。
頬にかかる猫っ毛の柔らかさは変わってない。息遣いがやけに荒くて、耳元を撫でるその息が擽ったい。
もしかしてもしかしなくても、階段、走ってきた…?
「ふじくら…?」
「澤くん!澤くんだ!ホンモノだ!!」
「ちょっ、ちょっと待て!なに、どういうこと、んんぅっ!」
無理やり振り向かされたと思ったら、また言葉を飲み込まれてしまう。ぐちゃぐちゃとした色んな思考も感情も、すべて。
「て、ちょお!ここ駅!」
「はぁー、生澤くん…リアル澤くんんん」
離れてくれない。
実際にはそんなに経っていないかもしれないが、やけに久々に思える温もりに嬉しさでいっぱいになってしまう自分がいる。
だけどこの野郎、自分ばっかり好き勝手しやがって。
俺だっていっぱい色々考えてたのに。
こっちだって、色々言いたいこととか訊きたいことがあるってのに!
「ちょっ…と!離せって!」
しゃがんで腕の拘束から抜け出すと、藤倉はポカンとした間抜けな顔をした。
ああ、そんな表情でも…見たかった。何でもいいから、いや出来れば笑顔が…あの俺に向けてくれる柔らかい笑顔が…見たかったんだ。
また泣きそうになってしまう。
どうしよう、まだ何も言えてない。
伝えてないよ。伝えられてないんだよ。
お前はたくさん、伝えてくれてたっていうのに。
「さ、わくん…?」
「ふ、藤倉の馬鹿!!!」
「………え」
さっきここは駅だろって言ったのは誰だったんだ。俺だ。なのに今度は俺が周りも顧みないで、藤倉の胸ぐらに掴み掛かった。
「お、れは…おれは!」
「…澤くん?」
「やっと、やっと…お前のこと、す、す、好きなんじゃないかって分かったのに!なのにおままた勝手にいなくなるし!連絡、と、取れなぐなる、じ、うっ、て、転校…するとか、言うし…!ふ、藤倉のバカ!アホ!変態っ!」
「ちょっと待って落ち着いて…。て、え?今、何て…?」
「バ、バカ。アホ、変態…」
「あぅ、罵倒も嬉しいんだけどその、もうちょっと前のところをですね…もう一回…」
「転校…する?」
「いやそこよりも…いや、待って転校って何?」
「え」
「え」
「転校、しねーの…?」
「転校?誰が?」
「えと、お前が…?」
「………?」
「え、ちがう?」
「する予定は…無いですね」
「うぇ」
「うん」
………。
か、勘違い…!
恥っっっずかし!え、ちょっと待って勘違い!
恥ずかしい!穴がなくてもどっか逃げたい!恥ずかしい!!
えと、じゃあ何であんな噂が…?
「澤くん」
「あ、ハイ!」
「俺は転校はしません」
「…うん」
良かった。勘違いでめちゃめちゃ恥ずかしいけど、勘違いで良かった。安心した…。
まだこいつと、一緒に居られる…。やば、また泣きそう…。
「澤くん置いてどっか行くことは、今後絶対無いです誓います。寧ろ何処までも着いていくことはご了承ください」
「いやそれはちょっと…」
「今回学校休んだのは…親父がいきなり海外出張に俺と母さんを巻き込んでったからなんだよね…。今までそんなことなかったのにさ」
「そ、だったんだ…」
「いきなり過ぎて準備する時間もなくて…。日本と連絡取りづらいし、当たり前だけどニューヨークに澤くんはいねぇし充電は切れるし充電器もねぇしで…あんのハゲマジで歯ぁ全部引っこ抜いてやろうかと…」
「あの、藤倉さん、落ち着いて落ち着いて」
珍しくヤンキーが戻ってきた藤倉をどうどうと宥めていると、彼が不意に俺を見た。
「ではちょっと失礼して」
「うぉあ」
まただ。違う、やっと。
ぎゅっと身体中に巻き付いた体温は、他の誰でもないこいつのもの。いつの間にか俺の日常に入り込んで、それからいつも一緒にいるようになったこのおかしな変態だけのもの。
あたたかい、安心する、離れたくない…………………すき。かもじゃなくて、もう決定的に。
悔しいけど、認めたくないけど、もう気づいてしまった。めちゃくちゃ悔しいけど。
俺はお前がいないと、結構何も手につかないくらい駄目になっちゃうんだよ。周りからも心配されちゃうくらいさ。
悔しいからそれは絶対言わないけど。
「くっそあのハゲぜってぇ許さねぇ…」
「…藤倉のお父さんってハゲてんの?」
「うん。正しくは次俺に会った瞬間にハゲる予定だよ」
「そ、れは…やめたげようか…」
多分だけど、お前のお父さんは単純に家族の時間が欲しかったんじゃないかと思うよ。
あのお母さんと藤倉の言葉から想像するに、不器用だけど優しい人なんじゃないかと思うから。多分、きっと、知らんけど。
だけど俺の耳元で親父さんへの罵倒を繰り返す彼の声は低く、まだ怒りが収まっていないらしい…。実に分かりやすい。
なんて思っていると藤倉がふと顔を上げた。
「でもまぁ、ちょっと…いや、まぁまぁ感謝してもいいかもな」
「ふぇ?」
「さっきの言葉、ちゃあんと詳しく解説してね?………もう絶っっっ対逃がさないかんな」
「ふぁ…?」
あのー藤倉さん、口調がヤンキーから戻ってないんすけど。
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