コツンと灰色にぶつかって、白い紙ヒコーキは簡単に重力に従った。風が吹くとすぐに飛ばされてしまうほど軽いのに、先っちょはちょこっと曲がっただけだ。
印刷用紙って思ってるより固いんだよな。
俺は昔から思ってることを話すのが苦手だった。顔にはすぐに出るらしいけど、どんなことがあってどんな心境で、どういう風に思っているのか…それを事細かに説明することが、とても苦手だった。
だって自分にだって解っちゃいない。
そんなことを、人にも分かるように説明出来るだろうか。
何となく嫌だなとか、しんどいなぁとか思っていることは分かっても…それが何に対してなのかとか、どこから沸き上がってるのかなんて自分でも分からないんだ。
だから何か嫌なことがあるとすぐに愚痴を言える人を見ると「羨ましいなぁ」と思う。
嫌味とか僻みとかじゃなくて、純粋に。だって俺には出来ないから。
そりゃあまぁ、愚痴ばっか聞かされる人は「いい加減にしてくれ」と思うかもしんないけど…。でもなぁ、吐き出せるっていうのも一種の才能だよ。
落ちた紙ヒコーキが風に飛ばされそうになる。
道端にゴミを捨てるわけにはいかないと手を伸ばすと、先に俺のではない手がそれを拾い上げた。
見上げると、黒い癖っ毛がふわふわ風に遊ばれているのが見える。その隙間にきらりと光る銀色のピアスと、やたらと長い睫毛に…不格好な紙ヒコーキと同じ真っ白なTシャツ。
その人は俺の目の前で無遠慮に紙ヒコーキを広げると、ただの紙に戻してしまった。そうして無言で読み上げている。
何をって、愚痴…みたいな。
俺があわよくば風に飛ばして流そうとした、日々の鬱憤。愚痴というにはあまりに毒気はないだろうが、それでも俺が溜め込んできたもの。
ドロドロと真っ黒…なんていうほどじゃないと思うけど読んでおもしろいと思えるものじゃあ到底ないだろう。
なのにそいつは言ったんだ。
「コレ、ちょうだい」って。
意味が分かんなかったよ。ぼろぼろの紙切れに、汚い文字で綴られているのはこんなどこにでもいる凡庸な奴の日々の愚痴。
もらってどうするんだろう。代わりに捨ててくれるとか?初対面なのに?
それは流石に申し訳ないので、丁重にお断りして返してもらおうとした。けれどひょいと長い腕で躱されて、桜色の唇が緩く弧を描く。
意味が分からない。
長い癖っ毛の隙間から見えた瞳は深い青色で、海みたいな色だった。きれいなのに、どこか維持悪く光るそれは俺から視線を外さない。
「返して」
「やだ。おれが拾った」
「俺が投げたんだよ」
「そ、だから拾った」
意地の悪い彼は紙切れを返してくれる訳もなく、愉しそうにそれをひらひらと振ってみせる。
海から吹く風が強くて、髪が簡単に意地悪な青を隠したり晒したりしている。
「そんなものもらって、どうするの」
「飾るの」
「は?」
「部屋に飾る。額縁に入れて、その前にラミネート加工もしなきゃな。それから、綺麗に見える場所に飾るんだよ」
「…え、何で?」
「だって、お前の一部だろ」
「………えぇ?」
「だから飾るの。大事にするよ」
ますます訳が分からなくなって、暫く思考を停止した。何て?飾る?何を?
その、ぐちゃぐちゃの紙切れを?
どうして。
「どうして?」
「今言った」
「いや、意味が分からない」
「初対面なのにって?同じ学校だったよ、おれら」
「え、と…どなたですか」
「覚えてないんだ」
「小学校?中学?」
「高校」
「うそ」
「うん、嘘」
「嘘なの!?」
「ははっ、ゴメンゴメン」
これ絶対思ってない。
だけど納得。こんなに綺麗な人がいたら、例え俺だってきっと覚えてるだろう。小さなこの町で噂にならない訳もない。だったら、本当に誰なんだ。どこからやって来たんだろう。
「どこの方?」
「そうだな…。どこって言ったらロマンティックかな」
「ロマンティックさは求めてませんよ」
「それは残念」
結局どこの人か教えてくれないその人は、紙切れになった紙ヒコーキを大事そうに抱えたまんまで俺に近づいてくる。
風、ちょっと弱くなったな。
「あのさ、やっぱりその紙返してくんない?」
「どうして?要るの?」
「いや、捨てるけど」
「ならいいだろ、おれにちょうだい」
変な人だ。突然どこからか現れて、道に落ちてる紙切れを拾ってちょうだいだなんて。
何でこんなもの欲しがるんだろう。
紙切れマニア?でもさっき、もっと意味深なこと言ってた。
…俺の一部だから。
「あの、どこかで会いました?」
「ナンパですかぁ?」
「真面目に訊いてるんですけど」
「ふふっ、会ったかも」
「マジすか」
「いんや、会ってないかも」
「どっちなの」
「どっちでしょう」
「どっちだよ…」
曖昧な返事ばかりで結局何にも答えてくんない。意地悪な碧眼の美人さんは、俺よりもすらりとした身長でやっぱり愉しそうにステップを踏んだ。まるで波の音を音楽にしてるみたいに。
やっぱり変な人じゃん。
あまり関わらない方がいいのかな。
でもどうしてか、目が離せなかった。
やがてじわりと滲む視界に、その輪郭がぼやけて映る。よく考えないままに瞬きをすると、頬に一筋の雨が伝った。
空はこれでもかと嫌味なほど晴れ渡っているのに、俺の頬にだけ。たった一粒だけの雨が伝った。
それを見た彼は無表情で、俺と同じ目線までしゃがみこむ。どうしたんだろう。
なんか、泣きそうな顔をしてるなぁ。
「泣きたいのなら、もっと泣けばいいのに」
白く細長い指が頬に触れる。冷たくもなく特別温かくもない、他人の手。指が、雨で濡れた俺の頬をなぞる。
「泣くって、誰が」
「不器用にもほどがあんだろ、他に誰がいんの」
ふはっと破顔した青年は数分前より大分幼く見えた。さっきは泣きそうな顔してたくせに、表現が豊かな人だな。
雨が止んでる。なのに、もっと降って欲しいと思った。
「晴れてるのにな…」
「晴れるまで、泣いたら?」
それができないならまた書けばいいだろう。
そう言って先ほどの紙ヒコーキをひらひらさせる青年は、ふにふにと今度は両手で俺の頬を弄ぶ。痛くはないが…楽しいのだろうか。
けれども青年は楽しそうにふにふにと指を動かしてくる。大して柔らかくもないと思うんだけどなぁ。
「ねぇ、おれん家来る?」
「ひゃんへぇ?(なんで?)」
「おれの部屋、お前の写真でいっぱいだよ」
「ふぇっ?!」
「ははっ、冗談だよ」
「はぁ?」
やっと頬が解放された。
その頃には雨の跡もすっかり乾いて、そこには何も流れなかったかのようにするりとしていた。
「お前さ、」
「なんですか…」
「こないだもここで、紙飛行機を投げたでしょう」
「え、え?」
投げた。何ヵ月前か忘れたけれど確かに、今日と同じようにここで…俺は拙い紙ヒコーキを投げた。その中にまた、しょうもない「俺」を綴って。
だけどあの日投げた紙ヒコーキは見つからなくて、結局拾えないまま家に帰ったんだった。
ゴミになってしまっていたらどうしようと思っていたんだけど…。まさか。
「拾ったよ。ちゃあんと、額縁に入れて飾ってる」
「なんで?」
「だってお前の一部だろう?」
「そ…だけど…?」
「なんて、本当はあの日初めて拾ったんだ。足元にコツンとぶつかって、何となく拾って広げてみたら…おれのこと書いてるのかと思って驚いちゃった。勝手に読んでゴメンね」
「ホントだよ…。いや、そうじゃなくて、」
「ん?」
「あの、さ。あのね、」
「うん」
本当はさ。
拾ってくれて…見つけてくれて、ありがとうって言いたかったのかも。
自分でも聞こえるかどうかくらいの声でぼそぼそ呟くと、海の色が嬉しそうに細められた。
紙ヒコーキって、結構飛ぶんだ。
まさかこんなに遠くまで飛ぶなんて思わなかったんだけど。
「届けてくれてあんがとね」
「勝手に拾ったくせに…」
「それでもだよ」
コツンと足元に落ちたそれは、やっぱり結構固いんだ。
中に綴ったアレコレも、いつかもっと上手く綴れるようになればいいのになぁ。
風がほんの少し、柔らかくなった気がした。
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