「なぁ、すげー今更だけどさ、藤倉って下の名前何て言うの?」
「え?あ、…え?」
鳩が豆鉄砲食らった顔って多分こういう時に使うんだろうな。今度は猫じゃなくて鳩倉。それにしてもこんなカッコいい鳩だったら何か腹立つな。鳩に全く罪はないが。
「何か最近お前から擬音しか聞かねーな。気のせいかな」
「だって吃驚して…てか澤くんのが最近変だよ?何か積極的」
「そうか?てか名前は?」
「俺の?俺の名前は、」
「いおり」
藤倉が言う前に、名前を呼んだ。かしくんから聞いた彼の名前だ。俺の学校にいる藤倉と言えばこいつくらいだし、多分十中八九当たりだろう。
俺の言った名前で合っているのか否か。彼からの返答を待つが、一向に反応が無い。どうやら俺が名前を呼んでから藤倉はぴたりとフリーズしてしまっているようだった。これはいつか間近で見た無表情だ…やっぱ怖い。
「えっと、名前間違ってた?藤倉ー?おーい」
顔の前でひらひらと手を振ってみるが反応無し。生きてるのかな、これ。
「…いおり?」
彼の謎の反応がちょっとおもしろくてもう一度呼んでみる。すると今度はビクッと大きく肩を震わせた。
「藤倉?大丈夫か?」
「あ、うん…え?」
普段あれだけ饒舌なくせに、急にあ行しか話せなくなってしまったようだ。俺のせいなのだろうか。
「名前。合ってる?」
「あ、うん。合ってる。合ってるよ、うん」
何だか最近こいつの色んな表情が見られてちょっと楽しい。だっていつもへらへらしてて余裕たっぷりな藤倉がこんなに動揺してるのは中々にレアだ。最近彼のこういう表情が増えた気がするんだよなぁ。
「そっか。合ってたか」
「澤くん、お願いがあります」
「ん?」
「もう一回、呼んでくれませんか」
「別にいいけど、何で敬語なの」
「さっきは不意打ち過ぎてちょっと流石に準備出来なかったので、さあ!もう一回!」
「お、おう…?えと、いおり?」
「ありがとう!!」
何だか急にいつものおかしなテンションが戻ってきた藤倉。準備って何だろう。彼の言動は良く分からないがひとつはっきり分かるのは今日も通常運転みたいだ。良かった良かった。
「…目覚ましにするね」
「え、何を?」
やっぱ良く分かんないやこいつ。余りにも知らなさすぎることが多いからそう思うのかな。これから知っていけば、ちょっとは理解出来るようになるのだろうか。残念ながらその自信は今は無い。
「なぁ藤倉、ちなみに俺の名前は知ってる?」
「澤くんでしょ?」
「じゃなくて下の名前ね」
「う、あ…えと、」
「知らなかったっけ?」
「や、知ってる!もちろんそりゃ知ってるんだけど!」
また動揺し出した藤倉は今度は胸を押さえて何やらすーはーと深呼吸している。情緒不安定なのだろうか。
「あのー、知らないなら別にいいんだけど、俺の下の名前は」
「待って!」
「えっ何を」
「今言う!ちゃんと言うから…!」
ミュージカルかよ、と突っ込みたくなる大袈裟なリアクションでスッと長い手をかざし俺の言葉を制止した藤倉。ここが舞台上ならお前はきっと立派な役者になれると思うぞ。でもここは学校の廊下だ。普通に通行してる生徒もいるからもうちょっと自重して欲しい。俺の後ろからパシャりと藤倉を撮影する音が聞こえたが恐らくまたファンクラブの方々だろう、もう慣れた。
「別に知ってるかどうかだけ聞きたかったんだけど」
「駄目だよ!折角澤くんが呼んでくれたのに俺だけなんて…!」
「そんな大層なもんじゃないよ」
「待って!今言うから、」
無理しなくていいのに。というか何で名前呼ぶのにそんな準備がいるんだろう。こいつは割と何でも出来る天才肌だと思ってたけど意外に陰では努力家なのかもしれないな。でも名前呼ぶのに努力がいるのかどうか、残念ながら俺ごときの次元では理解出来ない。
すうっと息を整えた藤倉がゆっくりと瞬きをして、眩しい瞳で真っ直ぐに俺を見据えた。
「澤、」
真顔で呼び捨てられ、思わずどきりとする。フルネームで呼びたいんだろうけど、途中だけ聞くと呼び捨てみたいに聞こえてすごく新鮮だ。
「さ、さわ、まさ…くん…」
もうちょっとだ。頑張れ藤倉。何か応援したくなってきたぞ。
「まさお、み、くん」
「うん」
「澤、優臣……くん」
「うん。正解」
ただ名前を呼ばれただけなのに、何だかすごくくすぐったい。思わずふふっと笑みを溢すと、それを見ていた藤倉も一緒にふわりと微笑んだ。名前を呼ばれただけでこんなに嬉しいなんて…こいつも同じ気持ちだったのかな。
また俺の後ろからパシャりというカメラ音と「キャアアア!」という奇声が聞こえた気がしたけど、気にしない。
やっぱり知ってたんだ。俺の名前。
たったそれだけのことなのに、何故だか胸の真ん中がほわほわと温かく気持ち良い。
「澤くんが名前呼んでくれてめちゃくちゃ嬉しいけど、あいつの連絡先は消して欲しいんだよなぁ…」
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