トントンという規則的な音で目が覚めた。
起きたばかりの意識はまだぼうっとしていて、身体も重い。
瞼を開け、じんわりと光を取り込んでゆく景色を眺めながら、俺は周りの音に耳を澄ませる。
遠くで、ぐつぐつと鍋が煮立つような音がする。
トントンという規則的な音の合間にたまに聞こえる金属の擦れる音と、「あちっ」という低めの声。…何だか危なっかしい感じだなぁ。
そうしてふと気づく、開けた窓から流れる空気に逆らった不自然な空気の動き。その中に自分のじゃない誰かの気配を感じた。
母さんかな。
でも今は仕事中で、何の連絡もしていない。それに、さっきの声は…。
自分の家なのにどこか不可思議な空間に居る気分に包まれながら、俺は今日のことについて振り返ってみた。
そう言えば、今日は朝から身体が少し怠かった。
やがて頭が痛くなって、寒気がしたから保健室で体温を測ってみたら案の定、微熱があったんだ。
季節の変わり目だからだろうか。
そうしてお昼頃に早退をした俺はスーパーに寄ることもせず、真っ直ぐ自宅に帰って大人しく寝ていた…はずなんだけどなぁ。
幸い今日はバイトも無い日だから、このまま寝ていようと思ったのに…何事だろう。
なんで。
どうして、このひとがここにいるのだろう。
「あ、起きた。起こしちゃった?」
「………と、ゴホッ、」
「ダメだよ、まだ寝てな。熱下がってないでしょう」
心配そうに近づいてくるそのひとは、上半身だけ起き上がろうとしていた俺をまたそっと横に寝かせた。
名前を呼ぼうとしたのに喉の痛みが邪魔をして、ちゃんと呼べないのが何だか悔しかった。
なのに腕まくりをしたそのひとは、陽の光に簡単に溶けてしまいそうに見た目だけは儚いそのひとは、いつも以上に優しく俺に微笑みかけてくる。
どうしてここにいるのか、何をしているのか、そもそもなんで俺が体調を崩したと分かったのか。
疑問だらけだよ。
真っ白い髪の向こう、キッチンの下に置かれたビニール袋をぼうっと見つめながら考える。
あれは俺が買ってきたものじゃない。
だって今日はスーパーにもコンビニにも寄っていないし、もし自分で買ってきたのならすぐにちゃんと冷蔵庫とかにしまうはずだ。
なのに、あんなところに見慣れたスーパーの袋がある。そしてあの袋の中には、青いパッケージの飲料水や栄養ゼリーみたいなものが見えた。
「…な、んで」
「ほら、無理に喋らない。お粥食べられる?薬も買ってきたんだけど」
病院にも行った方がいいな、なんてぶつぶつ呟きながら、彼はキッチンから何かを持ってきた。
「とわさん」
「とりあえず何かは胃に入れた方がいいと思うから、ほら。口開けて」
もう一度上半身を起こすと、すいと差し出されたのは栄養ゼリーだ。あのビニール袋の中に入っていたものに似てるけれど、少し冷たい。
これは冷蔵庫に入れていたのかもしれない。
これも確かに嬉しい、けど。
「………これじゃない」
「わがまま言わない。何か食べないと」
「そうじゃなくて、あれ」
あれ、と俺が視線で促すと、彼は色素の薄い瞳を少し見開いて驚いたようなカオをした。まるで悪戯が見つかってしまった子どもみたいな表情だが、逆になぜ見つからないと思ったんだろう。
「あれはちょっと…美味しくはないと思うよ」
「…やだ。あれがいい」
「いやまぁ、味は薄めかもしんないけど…液体に限りなく近い気もするけど、何も食べないよりかはいいだろうけど…」
「いいからもってきて」
ムッと口を尖らせると、これ以上の問答は無意味だと悟ったのか今度こそ彼はキッチンからお椀を持ってきた。中から白い湯気が立ち上っている。
「とわさんって、家事でき………ないんですね、やっぱり」
トントンという何かを刻む音が結構慣れてる感じだったからもしかして…なんて思ったけれど、白い液体の上に浮かぶネギの大きさを見ているとそうでもないんだなと変に安心した。
それで、何だかおかしく思えてしまった。
器用なのか不器用なのか、不揃いのそれらは透羽さんそのものを表しているようで…少し食べるのがもったいないなんて思ってしまう。
変装とかメイクとか、手先は器用なんてレベルじゃないのにどうしてこんな風になるのだろう。そういうところが不思議でならない。
たまにわざとなのかなって思うこともあるけれど、どうやら素でこうらしいから困る。本当に、不思議なひとだよなぁ。
そんな不思議なひとが視線を右往左往させながら、やがて手元のお粥に似た物体を見つめて言った。
「いやぁ、お粥なら作れるかなーって思ったんだけど、難しいねぇ」
その器に手を伸ばすと、指先がほんわりと熱を受け取る。
「…あつ」
「貸して」
照れる透羽さんを無視してお粥もどきを食べようとすると、お椀もレンゲも奪われてしまった。そうしてフーフー冷ましてから、口元に運ばれる。
そんなこと、母親にだってされた記憶は無いのに。いや、あるのかもしれないけどそんなの、もう覚えてないくらい昔のことだろうに。
しばらく躊躇していたが差し出されたお粥もどきは引っ込められることもなく、俺は渋々あーんをされることにした。渋々だ。本当に不本意。
「…味しない」
「だから言ったじゃん」
「ねぇ、」
「んー?」
「なんで、」
言わなくても俺の疑問は伝わったらしい。
透羽さんはお粥もどきを冷ますのを続けながら、いつもの調子で飄々と答えた。
「愛の力…的な?」
「とうちょうき?」
「愛のちから」
「………はんざいですよ」
「何とでも。ほら、あーんして」
「…味、しない」
口に入れたらすぐに消えてしまうそれは、まだ少し熱いけれど食べられる温度にはなっていた。僅かに、ほんの僅かに塩っぽい味がするような気もするが…薄味にもほどがある。
まぁ、濃いよりかはいいか。というか、作ってもらっておいてこんなこと考えるのはいくら透羽さんにでも失礼かな。
口の中のほぼ液体お粥もどきを咀嚼していると、額に何かが添えられた。手だと思う。
今の今まで熱いお椀を持っていたせいか別にひやりとはしなかったが、それでも何だか心地好かった。俺の額と溶けちゃいそう。
もしそうなったらすごくやだ。だから早く離してほしい。今、多分熱いし。汗もすごいし。
「ちょっと失礼。…まだ熱いかな」
透羽さんが呟く。
ほうらね、だから早く離してよ。溶けちゃったらどうするんだよ。
あぁ、熱に浮かされてるとおかしな考えになっちゃうんだなぁ。
しかし暫く経っても額から手が離されることはなかったので、不思議に思って顔を見上げた。
透明が陽の光を吸い込んで揺れる。ただぼうっと見惚れていると、限界近くまで端正な顔が近づいてきた。
透羽さんの手越しに、額と額がぶつかり合う。
あつい。どうして、離してくんないんだろう。
「とわさん…?」
「どこか痛いところは?熱だけ?苦しくない?」
「コホッ、移りますよ…?ちょっと熱があって、だるいだけです。………のどもいたい」
「そっか。喋らせてゴメンね」
「とわさん………おこってますか」
「りょうくんには隠してもムダかな。まぁ、ちょびっとね」
「ど、して…」
答える代わりに、額に当たる手が動いてわしゃわしゃと髪を撫でられた。
「汗拭かなきゃねぇ」なんて笑いながら、透羽さんが今度は濡れタオルを持ってくる。
その姿に、やけに手慣れているなぁなんて思ってしまった。
このひとは一人暮らしで、ご家族のことは分からないけれど…こういうことを、誰かの看病をしたことがあるのだろうか。
お粥は味が極薄だったけれど。
額に当てられた感触は今度こそひやりと冷たい。
促されるようにまた横になって、俺はゆっくりと動くその唇を見上げていた。
「心配かけたくなかった?」
「え?」
「お母さんにも、連絡してないんでしょう」
「…はっきんぐ?」
「してないからね。どうせそんなところだろうと思っただけ」
「別に…忙しいと、思うから」
呟くと、頭上で小さな溜め息が漏れた。
ゆるゆると頭を撫でられるとやっぱり心地が好い。眠ってしまいそうになる。
こんな風に、風邪を引いて看病してもらったのはいつ以来だろうか。本当にもうずうっと昔のことのはずなのに、何だか目頭が熱くなった。
きっと熱のせいだと思う。
桜色が、またゆるりと動く。
「あのね。心配するのは、特権だから。勝手に奪わないでほしいかな」
「とっけん」
「そう。前にも言ったような気がするけど、きみを心配したい人がいるってことだけは覚えておくように。今はいいけど治ったら覚悟しておいて」
「えぇ…」
そうして撫でる手を止めないまま、透羽さんは続ける。まるで幼い子どもに諭すような口調だ。
いつものふざけた調子を取ってしまうと、このひとの言葉の威力は強くなるんだなぁと実感した。
でも、いやじゃない。不快でもない。寧ろ本気で心配されていることに、嬉しく感じてしまう。
「病人に説教したりしないよ。まぁバレちゃったからちょっと言っちゃったけど…。これ食べて、薬飲んで、早く寝な」
「だるい」
「口移しをご所望で?」
「とわさん…へんた、ゴホッゲホッ」
「咳き込んでまでディスんなくていいのに…」
「ちがう…。あ、ありがと…ございます」
「どういたしまして。ふっ、いつもより別の方向で素直だなぁ」
撫でられる感触が心地好くて、俺を簡単に眠りへと誘う。
安心する。聞きたいことはたくさんあるけれど、とりあえず今はそんなことは置いておいて、この心地好さに沈んでいたいと思う。
あぁ、俺もしかして…寂しかったのかなぁ。
目を閉じる直前に、俺の一等大好きな色が微笑んだ。
閉じた瞼から、何かがつうっと頬を伝う。汗だと、思う。さっき拭いてもらったのになぁ。
「おやすみ凛陽くん。おれはここにいるからね」
「おやすみ…なさ…い」
起きたらきっと怒られる。
けれどそれも悪くない気がして、俺は再び眠りについた。右手に自分のじゃない温度を、感じながら。
「…困った子だよ、まったく」
心地好さが溢れる空間に、あなたの溜め息がどこか遠くで聞こえた気がした。
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