「じゃあ僕はこっちですから」と、線路沿いを歩き出した。
後ろから吹く風はただ生温くて、先程まですぐ近くを漂っていた匂いを連れてくる。
何にもない夜だった。
ただ人がいつもより少ない電車で、ガタゴトと揺られて帰る道。
その揺れのリズムに眠りそうになるうちに、自分が降りる駅に着いたとき。
転びそうになっているひとがいたから、反射的に後ろを支えただけなのに。
ぺこりと軽く会釈をしたその青年…と思しき風貌のひとは、改札を出ても無言で隣を歩いてくるのだった。
特に強い香りでもないのに、柑橘系の香りが鼻腔を擽る。
背が高い。並んで歩くだけでも、結構足の長さが違うのが分かる。
このひとは一体なにがしたいのだろう。
お礼が言いたいのだろうか。だけどさっきの会釈が、このひとなりのお礼だと思った。
考えすぎだろうか。たまたま帰る道が同じだけなのかもしれない。
曲がり角へやってきたとき、僕はここでお別れだろうと思った。
だから言ったのだ。
「僕はこっちですから」と。
なのに彼は「だめだよ」と言った。
さっきまであれほど無口だった口から漸く言葉が発せられたのに、それは予想だにしない言葉だった。
だめ。だめってなに。
だめじゃないよ、だって僕の家はこの道だもの。
ちょこっとだけ空いた距離を振り返りながら、また柑橘のような匂いが風で遊ぶ。
初めて正面から見た彼は、夜そのもののようだった。
静かで、暗くて、穏やかで。
長めの黒髪で隠された顔は分からなかったけれど、夜みたいなひとだと思ったのだ。
…どうしてこうも落ち着くのだろうか。僕は吸血鬼でもないはずなのに。
でも、帰らなきゃ。だってもう夜だもの。
「じゃあ、僕はここで。お気をつけて」
「どうして?」
今度こそと思って踵を返そうとしたら、また訳の分からない返答が飛んできた。
どうして?なにが?何に対しての、どうしてだろう。
もう無視して走って行ってしまった方がいいのではないか、と一瞬思ったけれどそうもできなくて。
また一歩長い足で近づいてきた温度に向き合った。
「もう、遅いので。僕は帰ります。君も、自分の家に帰ってください」
「………」
「もしかして、どこか怪我してる?」
「………してない」
何だろうその間は。だけど見たところ普通に歩けているようだし、先程足を挫いたということはなさそうで安心した。
でも何だか。何だか、袖が引っ張られているようで…動き辛い。
「あの…手…。もしかして、やっぱりどこか痛いの?」
「………いたい、のかもしれないし、いたくないのかもしれない」
「怪我、してないって言った」
「してないと…思う。けど、離れたらだめだ」
「どうして?」
「………いたいのが、また来るから」
………?
いまいち要領を得ない言葉の羅列を聞きながら、疲れた頭で整理する。
簡単に言うと、彼は僕と離れるのが嫌らしい。理由は分からないのだけれど。
「家はどこ?送っていこうか」
「あっち」
あっち、と言って彼が指した方向は偶然にも僕の家と同じ方角だった。それはいい。
それなら僕が帰るついでに、この迷子のような青年も家まで送っていこう。
再び無言で暫く歩くと、僕のアパートの前まで辿り着いてしまった。彼の家はどこなのだろう。
結局、僕の家に着くまでには見つからなかった。
というより、教えてくれなかった。
「君の家、通り過ぎちゃったんじゃないの」
「………ついた」
そうして彼が指差したのはまさに、僕のアパート。そして一階の、僕の部屋。
「………勘違いでは?」
「あってる」
「いやいや」
「ここ。おれんち」
「いやいやいや」
「助けてくれて、うれしかった。それがあなたで、ほんとによかった」
深い夜色の髪の隙間から、これまた深夜のような瞳が見えた。
何も明かりのない場所から見上げた星空のような瞬きが、すぐ傍で広がっている。
緩く弧を描いた唇は、開くと鋭い犬歯が見えた。
「きゅうけつき?」
「ちがうよ」
「なんで僕の家、知ってんの」
「たまたまだよ」
「自分の家は?」
「ここ」
「じゃなくて」
「今日から、ここ」
「じゃ、なくって」
そんな簡単に入れませんよ。防犯対策はしっかりとしていく所存なので。
だけど家に入ろうとしたら、当然のように彼もついて来た。
しかも「お邪魔します」じゃなくて、「ただいま」だって。
「ただいまじゃないよ」
「おかえり?」
「うーん、ちがう」
「じゃあ、とりあえずよろしく」
「なにが?」
「ご飯食べた?まだだろうから、おれ作るね」
「まだだけど、なんで?」
「冷凍ばっかりじゃあだめだよ」
「不法侵入もだめだと思うよ」
「そうだねぇ」
普通に頷かれた。
しかして、不摂生と犯罪行為を同列に並べてよいものだろうか。しかし両方ともだめなものはだめなのである。
だめだ、思考が働かない。
そもそもこの場合、彼は不法侵入したことになるのだろうか。なるのかな。
何だか普通に招き入れちゃったような気もするんだけれど。
「本当にここに住むの?」
「そうだねぇ」
「だめっていったら?」
「それはだめだなぁ」
「住まないってこと?」
「だめって言うのが、だめってこと」
だめだめって、もう反抗ばっかり。さっき出逢ったばかりだろう。
「わけわかんない」
「あなたが本当に嫌なら、出て行くよ」
「じゃあ本当に嫌なので」
「うそはだめだな」
イヤイヤ期ならぬ、だめだめ期かな。なんだろうそれは。
「なら今晩はとりあえず仕方ないとして、」
「受け入れちゃうんだ」
「殴ってい?」
「いいよ」
それはいいのか。そこもだめって言うかと思った。しかも殴りやすいように頬を差し出してくる。
何だかこっちが悪者みたいだから、やっぱり殴るのはやめておこうかと思う。
「明日になったらちゃんと自分の家に帰ること。おけ?」
「おけぃ。ちゃあんとここに帰ってくるね」
「うん、ちがうなぁ」
だめだこりゃあ。
夜に出逢った夜色の彼は、僕の家に住み着くことにしたらしい。
明日になったら追い出そうと決意し、僕は布団に入った。
夜明け、布団も被らずに窓際で空を見上げる彼が居た。
白い月明かりが映し出す頬に見つけた流れ星。
あんなに寂しそうな流れ星を見たのは初めてだと思う。
「いたい」って。帰り際、確かそんなことを言っていたのを思い出した。
「…ねぇ、」
「ごめん、起こしちゃった」
「まだ、いたいの?」
「………うん。ちょっとね」
「どこが…いたいの」
「わかんない。わかんないんだよ。でも、気づかなかったんだ」
あなたに出逢うまで、自分が痛がっていたことにすら。
月明かりを浴びて歪む口端は何かできらりと濡れていて、自然に手がそこを拭った。
透明でしょっぱいそれは。あぁ、さっきのあの星だった。
「………治るまで、いていいよ」
「いいの」
「うん、まぁ、いいよ」
「治らなかったら?」
「治らないの?」
「わかんない」
「…治ってほしい?」
「………できることなら。だけど…」
「だけど?」
「ぜんぶ、消えちゃうのも、きっとこわいんだ。いたくなくなるのは、いいことかもしれないけれど」
「不安なの?」
「うん、きっとそう」
「そっか」
「ごめんね、訊いてくれて、ありがとう」
「どういたしました」
「どういたしました、か。ふふっ」
「やっと笑った」
痛いのももちろん嫌だけど、全部消えちゃうのも怖いと思った。どういうことだろう。
痛くない方がいいに決まっているのになぁ。
夜は静かで、彼も静かに微笑うだけ。
ほんとはね。
僕にもあるんだ、いたいところ。
忘れたいことなんてたくさんあるのに、その中にきっと忘れたくないこともあるんだろうな。
きれいなものだけ覚えていられたらいいのにね。
「あなたには、やっぱり光が似合うよ」
prev / next