mitei だめだよ | ナノ


▼ だめだよ、独りで泣かないで

「じゃあ僕はこっちですから」と、線路沿いを歩き出した。

後ろから吹く風はただ生温くて、先程まですぐ近くを漂っていた匂いを連れてくる。

何にもない夜だった。
ただ人がいつもより少ない電車で、ガタゴトと揺られて帰る道。
その揺れのリズムに眠りそうになるうちに、自分が降りる駅に着いたとき。

転びそうになっているひとがいたから、反射的に後ろを支えただけなのに。

ぺこりと軽く会釈をしたその青年…と思しき風貌のひとは、改札を出ても無言で隣を歩いてくるのだった。
特に強い香りでもないのに、柑橘系の香りが鼻腔を擽る。

背が高い。並んで歩くだけでも、結構足の長さが違うのが分かる。

このひとは一体なにがしたいのだろう。
お礼が言いたいのだろうか。だけどさっきの会釈が、このひとなりのお礼だと思った。

考えすぎだろうか。たまたま帰る道が同じだけなのかもしれない。
曲がり角へやってきたとき、僕はここでお別れだろうと思った。

だから言ったのだ。
「僕はこっちですから」と。

なのに彼は「だめだよ」と言った。
さっきまであれほど無口だった口から漸く言葉が発せられたのに、それは予想だにしない言葉だった。

だめ。だめってなに。
だめじゃないよ、だって僕の家はこの道だもの。

ちょこっとだけ空いた距離を振り返りながら、また柑橘のような匂いが風で遊ぶ。
初めて正面から見た彼は、夜そのもののようだった。

静かで、暗くて、穏やかで。
長めの黒髪で隠された顔は分からなかったけれど、夜みたいなひとだと思ったのだ。

…どうしてこうも落ち着くのだろうか。僕は吸血鬼でもないはずなのに。

でも、帰らなきゃ。だってもう夜だもの。

「じゃあ、僕はここで。お気をつけて」

「どうして?」

今度こそと思って踵を返そうとしたら、また訳の分からない返答が飛んできた。
どうして?なにが?何に対しての、どうしてだろう。

もう無視して走って行ってしまった方がいいのではないか、と一瞬思ったけれどそうもできなくて。
また一歩長い足で近づいてきた温度に向き合った。

「もう、遅いので。僕は帰ります。君も、自分の家に帰ってください」

「………」

「もしかして、どこか怪我してる?」

「………してない」

何だろうその間は。だけど見たところ普通に歩けているようだし、先程足を挫いたということはなさそうで安心した。
でも何だか。何だか、袖が引っ張られているようで…動き辛い。

「あの…手…。もしかして、やっぱりどこか痛いの?」

「………いたい、のかもしれないし、いたくないのかもしれない」

「怪我、してないって言った」

「してないと…思う。けど、離れたらだめだ」

「どうして?」

「………いたいのが、また来るから」

………?
いまいち要領を得ない言葉の羅列を聞きながら、疲れた頭で整理する。
簡単に言うと、彼は僕と離れるのが嫌らしい。理由は分からないのだけれど。

「家はどこ?送っていこうか」

「あっち」

あっち、と言って彼が指した方向は偶然にも僕の家と同じ方角だった。それはいい。
それなら僕が帰るついでに、この迷子のような青年も家まで送っていこう。

再び無言で暫く歩くと、僕のアパートの前まで辿り着いてしまった。彼の家はどこなのだろう。
結局、僕の家に着くまでには見つからなかった。

というより、教えてくれなかった。

「君の家、通り過ぎちゃったんじゃないの」

「………ついた」

そうして彼が指差したのはまさに、僕のアパート。そして一階の、僕の部屋。

「………勘違いでは?」

「あってる」

「いやいや」

「ここ。おれんち」

「いやいやいや」

「助けてくれて、うれしかった。それがあなたで、ほんとによかった」

深い夜色の髪の隙間から、これまた深夜のような瞳が見えた。
何も明かりのない場所から見上げた星空のような瞬きが、すぐ傍で広がっている。

緩く弧を描いた唇は、開くと鋭い犬歯が見えた。

「きゅうけつき?」

「ちがうよ」

「なんで僕の家、知ってんの」

「たまたまだよ」

「自分の家は?」

「ここ」

「じゃなくて」

「今日から、ここ」

「じゃ、なくって」

そんな簡単に入れませんよ。防犯対策はしっかりとしていく所存なので。
だけど家に入ろうとしたら、当然のように彼もついて来た。

しかも「お邪魔します」じゃなくて、「ただいま」だって。

「ただいまじゃないよ」

「おかえり?」

「うーん、ちがう」

「じゃあ、とりあえずよろしく」

「なにが?」

「ご飯食べた?まだだろうから、おれ作るね」

「まだだけど、なんで?」

「冷凍ばっかりじゃあだめだよ」

「不法侵入もだめだと思うよ」

「そうだねぇ」

普通に頷かれた。

しかして、不摂生と犯罪行為を同列に並べてよいものだろうか。しかし両方ともだめなものはだめなのである。
だめだ、思考が働かない。

そもそもこの場合、彼は不法侵入したことになるのだろうか。なるのかな。
何だか普通に招き入れちゃったような気もするんだけれど。

「本当にここに住むの?」

「そうだねぇ」

「だめっていったら?」

「それはだめだなぁ」

「住まないってこと?」

「だめって言うのが、だめってこと」

だめだめって、もう反抗ばっかり。さっき出逢ったばかりだろう。

「わけわかんない」

「あなたが本当に嫌なら、出て行くよ」

「じゃあ本当に嫌なので」

「うそはだめだな」

イヤイヤ期ならぬ、だめだめ期かな。なんだろうそれは。

「なら今晩はとりあえず仕方ないとして、」

「受け入れちゃうんだ」

「殴ってい?」

「いいよ」

それはいいのか。そこもだめって言うかと思った。しかも殴りやすいように頬を差し出してくる。
何だかこっちが悪者みたいだから、やっぱり殴るのはやめておこうかと思う。

「明日になったらちゃんと自分の家に帰ること。おけ?」

「おけぃ。ちゃあんとここに帰ってくるね」

「うん、ちがうなぁ」

だめだこりゃあ。
夜に出逢った夜色の彼は、僕の家に住み着くことにしたらしい。
明日になったら追い出そうと決意し、僕は布団に入った。

夜明け、布団も被らずに窓際で空を見上げる彼が居た。
白い月明かりが映し出す頬に見つけた流れ星。

あんなに寂しそうな流れ星を見たのは初めてだと思う。

「いたい」って。帰り際、確かそんなことを言っていたのを思い出した。

「…ねぇ、」

「ごめん、起こしちゃった」

「まだ、いたいの?」

「………うん。ちょっとね」

「どこが…いたいの」

「わかんない。わかんないんだよ。でも、気づかなかったんだ」

あなたに出逢うまで、自分が痛がっていたことにすら。

月明かりを浴びて歪む口端は何かできらりと濡れていて、自然に手がそこを拭った。
透明でしょっぱいそれは。あぁ、さっきのあの星だった。

「………治るまで、いていいよ」

「いいの」

「うん、まぁ、いいよ」

「治らなかったら?」

「治らないの?」

「わかんない」

「…治ってほしい?」

「………できることなら。だけど…」

「だけど?」

「ぜんぶ、消えちゃうのも、きっとこわいんだ。いたくなくなるのは、いいことかもしれないけれど」

「不安なの?」

「うん、きっとそう」

「そっか」

「ごめんね、訊いてくれて、ありがとう」

「どういたしました」

「どういたしました、か。ふふっ」

「やっと笑った」

痛いのももちろん嫌だけど、全部消えちゃうのも怖いと思った。どういうことだろう。
痛くない方がいいに決まっているのになぁ。

夜は静かで、彼も静かに微笑うだけ。

ほんとはね。
僕にもあるんだ、いたいところ。

忘れたいことなんてたくさんあるのに、その中にきっと忘れたくないこともあるんだろうな。
きれいなものだけ覚えていられたらいいのにね。

「あなたには、やっぱり光が似合うよ」

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