mitei Time will tell | ナノ


▼ someday

ぽたりと落ちた雫は、冷たい表面を覆っていった。

伝って伝って、地面に落ちることなく吸い込まれてゆく。いや、自ら染み込んでいったのだろうか。

少年の凍った心を溶かしたのは、たったひとりの涙だったという。

氷の女王に凍らされた心。
小さな棘から凍っていったココロ。

彼を想う一雫が温かい涙となって、呪いを解く魔法になって、ふわりと冷たい氷を溶かしてしまった。

寒い冬の向こうにやがて来る春のように。
雪を溶かし軽やかに吹き抜けて、芽吹いた花を揺らす風のように。

そんなことをふいに思い出したのはどうしてだろう。
幼い頃に読んだ童話のワンシーン。
今はもう記憶の奥で色んなことがあやふやになってしまったお話の、そんなシーンがふと思い浮かんだんだ。

俺の周りに、氷の女王に心を凍らされたひとがいただろうか。
いたとして、俺の涙なんかでそのひとのココロとやらを溶かせるだろうか。

そもそもあれはファンタジーだ。実際に泣いたところできっと涙は地面に落ちるばかりで、心とかいう何処にあるかも分からないモノに届くだろうか。

ぼんやりと窓の外を見る。空が青い。と、言いたいところだけれど今日は微妙に曇っている。
シャーペンの芯がそろそろなくなる。先生の声がBGMみたいになって、俺はいつかこの景色を思い出すんだろうなと何となく思った。
実際のところは知らないけれど。

…そう言えば、心を凍らされたひとは知らないけれど、氷みたいな見た目のひとならいるな。

色のない、透き通ったガラスみたいなひと。氷…の要素はどこだろう。瞳の色くらいか。
ちょっと薄めの水色が、透き通ったあの青が雲間に垣間見えた青と重なる。

氷とはやっぱりちょっと違うかもしれない。
そもそも中身は氷とは全く無縁だし、冷たい要素が思い当たらない。

寧ろ性格は鬱陶しいくらい熱いかもしれない。うん、儚げなのは見た目だけだあのひと。

そろそろ前を向かなきゃ、先生に注意されてしまうな。
あと何分、何秒で学校が終わるだろう。あの場所に着くまでに、何を買っていこう。

俺が居なきゃどうせまともな食事さえしやしないあのろくでなしは、今日も今日とて他人の皮を被っているのだろうか。
今日はどんな容姿で俺を出迎えてくれるのかな。

授業が終わる。先生に呼ばれて何故かノート運びを手伝わされ、時計を気にしながらホームルームの終わりを待つ。
その間ずうっとあの色が浮かんでいたのは秘密だ。バレたら絶対からかわれるに決まってるんだから。
まぁ、俺が自分から言わない限りバレる筈はないのだけれど。



「ねぇ、今日ずうっとおれのこと考えてくれてたでしょ?」

「………はぁ?」

「いやいやめっちゃキレるね怖いから真顔」

「…考えてませんけど?」

「考えてたのか…。半分冗談だったんだけどなぁ」

「考えて、ません、けど?」

「分かりやすくてかわいいなぁりょうくんやい」

「もう帰ろっかな…」

「残念、鍵かけちゃった。おれが開けなきゃ開きません」

「チッ、クソが…」

軽く漏れた舌打ちまでもを拾われてしまった。それなのにこの変態は…俺の下品な舌打ちにすら嬉しそうな笑みを濃くする。
全く何なんだこのひとは…。

バレないと思っていたのに。これが本当の本当に冗談で、図星じゃなかったならこんなにこの変人を喜ばせることもなかった。
このひとは職業柄もあってかいやに勘が鋭いけれど、まさかこんな恥ずかしいことまでも言い当てられるなんて。

いつもみたいに躱せなかったのはそれが本当のことだったからだ。

本当のことで、俺は早くこの変人に会いたいと…思っ…いや、思ってたっけな。
気のせいかも。あぁ、うん。気のせいだわ。

ただ何となく、本当に何となぁく思い出してしまってただけだ。うん。いや本当に。

「おれは会いたいと思ってたよ。いや違うなぁ…。ずぅっと会いたいと思ってるよ?りょうくんに」

「そうですか」

「そうですよ。今何してるかなーとか、授業ちゃんと聞いてるかなーとか、お昼の弁当は昨日の残り物かなーとか」

「暇なんですか。シゴトしろよ」

「しながらだって考えてるんだよ。早く放課後になって、ここに来ないかなぁとか、もう迎えに行っちゃおうかなぁとかね」

「重いなぁ」

「嬉しいなら嬉しいと言っていいんだよ」

「ワァーウレシイ」

「棒読みだなぁ。すき」

「文脈って知ってます?」

「ゴメン溢れ出た」

「しまっといてください」

「ムリムリ、許容量超えてるから」

「………チョコでも食っててくださいもう」

「あ、照れた」

照れてない。照れてないから。
煩い口にくいっとチョコレートを放り込んで、半ば無理やり黙らせる。
よく喋るこの口は薄い桜色で、いつかの公園の風景を俺に思い起こさせた。

やっぱり氷とは無縁じゃないか。
似ているのは見た目の透明さだけだ。本当にそれだけ。
中身は全然透き通っていないと思う。

チョコを頬張りながらニコニコと嬉しそうにしている透羽さんは目が合うと殊更優しげに微笑んだ。
一見周りに天使の羽でも見えそうな爽やかさだが、中身はかなり強かなのを俺は知っている。

そうでなければ一人で探偵業なんてやってられないだろう。
それに、笑うのが上手い人ほどきっと裏では重い荷物を抱えてる。…これは俺の偏見だけど。

「りょうくんは、」

「ダメ。まだチョコ食ってなさい」

「食べるな、なら分かるけど食ってなさいとは…。ぶふっ」

「いいから、まだ喋らないで。アンタ余計なこと言いそう」

「じゃあ食べながら言うけど…あま」

「行儀悪いからどっちかにしろよ」

「よっし、じゃあ喋るね」

「ダメ」

「ダメなの?」

「まだダメです」

「ふっふふ、なんで?」

「言わなくても、何か…もう十分っていうか」

「まだ何にも言ってないのに」

言葉で言わなくたって視線が煩い。目は口ほどにって諺を考えた人も、こういう状況だったのだろうか。
それとももっと別の…って今はそんなことはどうでもよくて。

視線だけで訴えかける覗き色がずるい。
きらきらと瞬いて、たまに真っ白な睫毛に隠されて、また見えたと思ってもずっと俺を見てる。
鬱陶しいくらいに、俺だけを見てる。

氷みたいな色合いの透き通った眼差しは全然冷たくなんてなくて、寧ろ触るとこちらの心が溶かされていく感覚がして困ってしまう。
このひとの手の平の上、みたいな感じがして少し腹立たしくもなる。

なのに俺も。目が、離せないんだ。
この魔法みたいな瞳から、目が離せない。

「というか見すぎでしょうとわさん」

「いや、りょうくんも見てくるからいいのかなって」

「いや、何がだよ…」

「んー…。何がだろう」

「分かんないの」

「分かるけど、言わない。今はね」

「ずるいオトナ」

「そっちはずるいコドモだね」

「俺は子供じゃあ…あ、でも未成年か」

「未成年だなぁ」

一つ、また一つと茶色い欠片を口に運ぶのを再開して、真っ白いその人は感慨深そうに言った。

「…ねぇ透羽さん」

「なぁに凛陽くん」

「大人になったら…例えば成人したら」

「うん」

何か変わるの?
そう訊こうとして、俺は口を閉じた。

そんなこと訊いてどうするんだろう。何が知りたいんだろう。
知りたかったものがあったとして、この人はその答えを持ってるんだろうか。

そしてそれを、大人しく俺に渡してくれるだろうか。

「俺が、いつか大人になって」

「うん」

「もし…もし、」

俺が今よりもっとしっかり出来たら。貴方を支えられるくらい強くなれたら。
離れないで、側に居てくれますか。

風のように急に消えたりしないで、ずっと。俺の側に根を張って笑っていてくれますか。
いつもの笑顔のほんの隙間、たまに見せる安心させるような笑顔じゃなくて。

いつも俺に向けてくれる柔らかな眼差しを曇らせることなく、ただ心からの笑顔だけを、俺に…。
俺だけに向け続けてくれますか。

いつも隣でふわふわ微笑うこの人を見ながら、俺はいつかこの人が急に目の前から居なくなってしまうんじゃないかとそんな不安を抱えていた。
そんなことに気づいたのはつい最近のことで、この人があまりにも自己に無関心だと思い知ってからだった。

あぁ、やだなぁ。
こんな時に限って言葉が出ない。いつもみたいな嫌味も悪口も言えない。

本当の、心からの本音を話すときはいつだって、言葉を搾り出す痛みに耐えるかのように涙も一緒に溢れ出るから、困ってしまう。
本当に、困ってしまうなぁ。

そんな俺の表情を見て透羽さんは何を思ったのだろう。
視線を逸らさずに言葉の続きを待ってくれていた彼は徐に俺をソファーの上に誘って、自分の膝の上に座らせた。
向かい合って見下げた瞳は酷く優しく、雪のように白い手は飼い猫でもあやすように、俺の髪を梳いて撫でてくる。

「きみがオトナになるのは、まだまだ時間がかかりそうだなぁ」

「…なんで」

「そのままでいて欲しいなぁって意味だよ」

「バカにしてますか」

「してないよ。でも、やっぱり溜め込む癖は治そうね、りょうくんやい」

「とわさんも…」

「おれも?」

「うん。とわさんも、隠す癖なおしてくださいね。俺の前だけでいいから」

「………何だかすっごい殺し文句を聞いた気がする」

「は?」

「で」

「で?」

「きみが大人になったら、何が心配なの」

「あ…忘れちゃった」

「うそ」

「ほんと」

「じゃあ、思い出したらまた言ってね」

「絶対言わない」

「絶対言わせる」

そう言ってにやりと不敵な笑みを浮かべた透羽さんは脇腹をこちょこちょしてきた。
つい擽ったくて身を捩るも、攻撃の手は止まない。

「セクハラですよ、このヘンタイ」

「そう?その割には楽しそうですよ、この意地っ張りめ」

「ふふっ、るっさいなぁ、もうやめっ、うぁっ」

「あ、ここが弱いんだ?新発見」

「くっそう…マジでどっからそんな力出てるの」

決めた。絶対ムキムキになる。こないだも確かそんなこと誓った気がするけど。
俺は新たに決意を固くした。

「本当に、氷とは無縁なんだよなぁ」

「こおり?」

「あ」

やば、声に出てた。
俺の小さな呟きはこんな至近距離じゃ容易に拾えてしまったようで、それを聞いた透羽さんは一瞬きょとんとしていた。

「ねぇ、氷ってなんのことかな」

「…ナンデモナイデス」

「やっぱり分かりやすい。嘘吐くのがニガテなりょうくんすげー好きだよ。もちろん嘘つきになっちゃっても大好きだけど、そのままの方がいいかな」

「そう、すか」

「ところで」

「だから何でもないんですってば。それよりいい加減離し」

「やだ」

ぎゅうっと引き寄せられた体温は思いの外温かく、こんなんじゃやっぱり氷なんてすぐに溶けてしまうんじゃないかと思った。このひとの口の中で溶けてしまったチョコのように。
俺をじいっと見つめる覗き色も、寒色なのにやけに熱を持っている。気がする。

「とわさん」

「もっと呼んで」

「急に駄々っ子に…。とわさん?」

「もっと」

「透羽さん」

「わんもあ」

「今日はもう閉店です」

「…りょうくん」

「何すか」

「りょうくん」

「うん」

「凛陽…くん」

「………さむいの?」

「ううん。もう、さむくない」

だいじょうぶ。
薄い桜色の唇は俺の胸に埋められたまま、ぽつりとそう呟いた。

色のない髪を撫でる。
すると気持ち良さそうに、もっと撫でろと言わんばかりにすりすりと頭を擦り付けられる。

ねぇ、透羽さん。
いつか貴方の心が凍ったら、そんな事態あって欲しくはないんだけど、それでもそんな時が来てしまったら。

その心を温める役目はどうか、俺にさせてね。
出来るかどうかは分かんないけどさ。

それでもきっと、いつか貴方を支えられるようになるから。

気付かれないよう彼の髪にそっと口づけを落としてから、俺は密かにそんなことを誓った。










氷の女王に凍らされたある少年の心。
そんな彼を救うべく奔走する一人の少女と、彼女の涙で溶けてゆく氷のトゲ。
彼女のおかげで少年は温かい心を取り戻して、めでたしめでたし。
昔々に読んだ本で、そんな童話があった気がする。

「おれは、自分のココロが凍ってたなんて思ってもなかったんだけど…」

少しずつ。いつの間にか。
気が付いたら溶かされていく、不思議な感覚。

言葉で、眼差しで、仕草で、その存在で…。
全てが春の日差しのように暖かく、時に熱いくらいに遠慮なく踏み込んでくる。

そうして溶かされてから、あぁ、自分はこんなにも気を張っていたのかと思い知っていくんだ。
がんじがらめの縄の中、周りから、或いは自身の過去から、全てから守るために凍りづけにしたモノ。
凍らせたのは氷の女王なんかじゃなくて、自分自身だった。

それをいとも簡単に陽の光の下に引き摺り出した少年は、自分がどれだけのことをしでかしたのかまるで分かっていないようだけど。

暖かな日差しの中はとても心地好くて、安心して、離れがたく、そして怖い。
だって何もかも透けてしまいそうだから。
暗闇に隠していたいものまで見えてしまいそうで、いつもその影に怯えてしまう自分を嫌でも見つめなければならない時があるから。

だけど隣には必ずきみがいて、その毒舌で「またですか」なんて溜め息を吐いて。
呆れたように笑いながらこの手を握ってくれるから、おれもまぁいいかなんて思う。

投げやりな「まぁいいか」じゃないよ。
たぶん、きっと、確証は無いけれどどうにかなるんだろうなっていう意味の「まぁいいか」だよ。「だいじょうぶ」に似た感じかな。

おれはあの少年ではないし、もしココロに刺さった氷のトゲなんてものがあったとしたらそんなもの、ひとつやふたつじゃないだろうけれど。

きみは確かに俺を救っていく。溶かしてゆく。
ひとつずつ、ゆっくりと。だけど本人はそんなこと知りもしないまま。

いつかきみにも分かるだろうか。
分からなくてもいいけれど、分かってくれたら嬉しいな。

一滴の涙を溢すこと。
大人になると、それだけのことがとても難しく感じる時もあるけれど。

その一滴を、固まったココロの欠片を外の世界へ導くだけの力がきみにはあるんだと、知ってくれたら嬉しいなぁ。

彼がおれの髪に口づけを落とすのに気付かない振りをしながら、欲深いおれは今日もこの手を離せない。

きみの優しさに付け込んで、離さないままでいる。

ねぇ、お願いだから…。

きみが思う以上に幼く、なのに狡猾なこんなおれにも。

いつか気付いて欲しい。
ずっと気付かないで欲しい。

そんな矛盾をそっと抱いたまま、全身でその温かさを閉じ込めた。

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