mitei 秘密のひととき | ナノ


▼ 7

「それで?」

ことり、と。

白魚のような指先がガラスの曲線を撫でるのを、まるで映画のワンシーンを観る気持ちでじいっと眺めていた。

砂が落ち始める。
先程まで反対方向へと落ちていった砂は、今度は男が容易く変えた重力の向きに従ってまた下へ下へと落ちてゆくのだ。

彼の指先はその小さな曲線に触れたまま、視線の方はずっと俺を見ていた。

紅茶を淹れておく時間を計るために、一緒に運ばれてきた砂時計。
その時計をもう何度引っくり返したのか。
紅茶はもうすっかり濃くなってしまっていることだろう。

俺も顔を上げる。
砂時計を弄ぶ指先にばかり気を取られている間は気づかなかったが、彼の視線にはどこか責めるような、しかし寂しそうな色が見え隠れしていた。

「それで…とは」

「きみはどうしてあの店に勤め続けているのかな」

そう問い掛ける視線は鋭かった。

それはつい先程の事。休日に街をぶらついていた俺は、聞き覚えのある声に呼び止められた。

低過ぎず高過ぎず、耳に心地が好い声。
何度も何度も俺に注文を聞いたり雑談を持ち掛けたりする、ここ最近で一番聞いている声だ。

そんな声と共に、細長い指が俺の手首を掴む。あの日よりも荒々しくなく、ずっと柔らかに引き留められた。

振り向けば予想通りの人物が立っていて、俺はあまり驚かなかった。
強いて言えば、何故こんなにも人が多い中で俺だけを見つけ出せたのかってことくらいだ。

…さっきから後をつけられてる気配があったが、それはきっとこの人じゃない。
そんな確信がどこかにあった。

この人が現れる少し前から不審な気配は消えていたから、もしかしたらこの人が守ってくれたのかもしれない。

だけどそこまでする理由が分からない。
こんな風に俺を問い詰める理由も。

「辞める理由が、無いからです」

「危険に晒されるっていうのは、理由にはならないんだね」

やっぱりか、という顔をしたのは俺だけではなかったようだ。

駅からは少し距離のある喫茶店は俺の勤め先とは違い人がまばらで、時の流れがゆっくりに感じる。

それにしても何なんだ、俺は何かいけないことを言ってしまったというのか。

真っ直ぐな言葉と視線に思わずたじろいでしまう。

かと言って俺の仕事についてこの人にとやかく言われる筋合いは無い訳だし、堂々としていればいいだけの話なんだろうが。
美人の圧っていうものが、この世に実在することを俺はこの時初めて悟ったのだ。

「俺が危険な目に遭ったとして、あなたに何か関係がありますか」

我ながら意地悪な言い方をしてしまったと思う。だけど口をついて出たこの言葉は俺の本当の疑問であり、頼りない防御線でもあった。
なのにそんな線をさらっと越えて、この人はふっと微笑う。

いつもの穏やかなものじゃない。
やっぱりどこか寂しそうな、痛々しい表情だった。

「あるよ。大アリだ。おれ自身が危ない目に遭った方が何千、いや何億倍もいいさ」

あれ…。
この人の一人称って、「おれ」だったっけ…。

「どうしてそこまで」

「どうしてだと思う?」

「………なんで、俺なの」

分かるけど、解らなかった。
この人の言いたいことは言葉としては理解出来る。けれどその理由が俺には全く理解出来なくて、一種の気味悪さすら感じてしまう。

出逢った時から思ってた。本当は…多分、ずっと分かってたんだ。
だけどなんで、どうして、どうして俺なんだっていう疑問ばっかり浮かんで消えない。

まるで理解が出来ない。
だって俺はこの人に好かれるようなことは何一つしていない…筈だ。覚えが無い。

「きみにはそうでも、おれにはあるよ」

「な、にが」

「好きになる理由っていうのが必要なら、いくらでも。でも本当は…そうだな。そんな単純に言い表せない」

まるで心を読んだみたいだ。
淡い翠を携えた光が、真っ直ぐに俺を見つめた。

声が。
地下室で一度聞いただけの筈のあの声が、蘇る。

「あなたは、」

「うん?」

「もしかして、」

「うん」

「あ…やっぱ、何でもないです」

「せつか」

「はい?」

「おれの名前。雪花って言うんだ」

「せつか、さん?」

「そう。よろしくね、蓮華くん」

「………っ!何で!!俺の名前っ?!」

「言ったでしょう?超能力者だって。きみの情報知るのなんて簡単簡単」

「いやでも、そんな…」

ぐるぐると再生される、あの日の会話。
正直ほとんど嘘だと思ってた。或いはこの人の妄想だと。

嘘であって欲しいと、そう願ってた…のに。

「居たぞ!あそこだ、うっ?!」

「きゃああっ!!」

ガタンッという大きな音とともに、店内に居たお客さんや店員さんまでもが驚きで悲鳴を上げる。
俺も咄嗟に席を立って声と音のする方へと顔を向けた。

「え、なになに!!」

突然のこと過ぎて何が起きたのか一瞬理解出来なかったが、数秒して俺は漸く冷静さを取り戻した。
店内に突然、物騒な輩が乗り込んできたのだ。そして入ってくるなり不自然に倒れた。それもまた突然に。

大丈夫…なのかな。
辺りに木屑や割れたコップなどが散乱しているのを見るに、恐らくテーブルにでもぶつかってしまったらしい。

おかしいな。
あんな入り口にテーブルなんて置いていなかった筈だ。そもそもあんなところに置いていたらお客さんが通れない。
有り得ないレイアウトだ。

よくよく見てみると、倒れた男性はピクピクと手足を動かして呻いていた。
店員さんがすかさずどこかに通報している。

ざわめく店内の視線は、その一連の光景に釘付けだった。

それにしても、倒れているあの人は多分…。

「ご名答」

「へ…?」

「さっきまできみの後をつけてた輩だよ。わざとこっちまで誘導したんだけど…思ったよりビビってないね」

俺の向かいに座る彼は、もうすっかり濃くなっただろう紅茶を優雅に啜っていた。
長い足はやはりテーブルの下で窮屈そうに組まれている。

「まさか今のって…」

「信じられない?彼、起こそうか?直接聞こう」

「………は?」

何でもないことのように言って雪花さんが倒れている男の方へ手を翳した。
瞬間ふわりと辺りのガラスや木の破片が宙に浮いて、倒れていた筈の男の身体も不自然に浮き上がり始めた。

「ちょっ、ストップストップ!!!」

考えるより先に、俺は慌てて雪花さんの手に縋りつく。

するとドサッという鈍い音と低い呻き声を上げて、浮いていたものはまた再び床に落ちた。うっわぁ、痛そう…。

物理法則をまるで無視したその光景を目撃していた店内の人々は、更にざわざわと混乱しているままだ。

どうしよ、写真とか動画とか撮られてたりしたら…。超能力とか、そんなの信じられないだろうけど…こんな風に直接目撃してしまった人々にはどう受け取られるんだろう。

この人はずっと秘密にしてきたって…そう言っていたのに。

「ふふっ、まぁたおれの心配」

「何を呑気なことをっ」

警察が店の中に入ってきた。
これじゃあ完全に事件沙汰だ。
もっともっと騒ぎになったらどうしよう。

もしそうなったら、俺のせいかも知れない。
自分だけの問題だと甘く考えていた、俺のせいで…。

そう思ったのに、店内はいつの間にやら先程までの静寂を取り戻していた。

警察に淡々と事情を話す店員さん。
聞こえてくる言葉の端々から、どうやら酔っ払いが店に乱入してきたようだと説明しているらしい。
当の「酔っ払い」はまだ床に倒れているが、今はもう規則的な寝息を立てている。

もう一度辺りを確かめると、先程まで動揺と困惑でざわめいていたお客さんたちが何事も無かったかのようにまたお喋りに花を咲かせているではないか。

どうして。
俺はまだ混乱したままだというのに。

「もう大丈夫だよ。だぁれも超能力なんて見てないし、気にもしてない」

「今…なに、したの」

恐る恐る訊いてみると、翡翠の瞳を妖しく揺らめかせて彼はまた微笑った。

それから指折り自分のしたことを、懇切丁寧に説明してくれた。本当に何でもないことのように、淡々とした口調だった。

「まずアイツの前にテーブルを移動した。勢い良く入ってくるもんだからすげぇ盛大に転んでくれたよね、笑いそうになっちゃった。それから浮かそうとしたけどきみが止めるからそれはやめて、おれの心配してくれてるみたいだからこの店の人間の記憶をちょっとアレした」

「アレって何すか…」

「いい感じに」

「あ、もういいです」

これ以上深く聞くのはやめておこう。
いい感じに、と言った時のきらきらした笑顔があまりにも眩しくて、言葉の調子と実際にやってることのバランスがちぐはぐだ。

というかもしかしたら俺の記憶も、知らないうちに?

「するワケないない、きみには一切チカラを使ってないよ。誓ってもいい」

「使ったらどう…やっぱ何でもないです」

「ふふっ、かわいいなぁ。素直だね、蓮くん?」

この人は知れば知るほど謎が多い人だ。
超能力云々とか関係なく、性格的な面で。

そもそも何でこんな人が『地下室』に。

「それは本当に気紛れだったんだけど。それでも行って良かったなぁって心から思う。半信半疑でも真剣におれの話聞いてくれるカオ、本当に可愛かったよ」

「ことごとく心を読んでくるなぁ…。というか可愛いとかアンタ何言って、あ!」

そこで俺は漸く気づく。
超能力とかいうファンタジックなものが実在したことより、この人が俺のことを好きだとかいうことよりもっと衝撃的な事実。

絶対破ってはいけない掟。

俺の正体を、知られてはいけない…。
なのにこの自称超能力者には、いや、本物の超能力者だったこの人にはいとも簡単に見破られてしまった。

「最悪だ…」

「だーいじょうぶ、おれが言わなきゃいいんでしょう?」

「そういう問題じゃ、」

「大丈夫。そういう問題だよ」

「………ウソだろ」

「ホントだよ」

おれ、超能力者で良かったって、きみに出逢って初めて思えたんだ。

そんなことを呟きながら無邪気に笑うその人は、幼い子どものようだった。
どうして信じられたのだろう。

超能力とかそんなの、ある筈ないのに。
魔法とか超能力とかそんな超常的なモノ、存在する訳ないのに。

その筈だったのに。

「ウソつき」

「は?」

「きみはもうとっくに知ってたハズだ。おれの正体も、この力のことも」

「そんなことはっ」

ないとは言い切れない。
何もかもこの人にはお見通しなのだ。
俺にすら見えていない俺のことも、きっと。

「超能力って聞いて真っ先におれの心配してくれたきみはあまりにも純粋で、正しく天使かと思った」

「一応ニンゲンのつもりですけど」

「怖がるとか気味悪がられるとかなら全然想定の範囲内だったんだけどね。それでもきみは何よりもおれの立場になって考えようとしてくれてた」

「…やっぱり読んでたんだ」

あれだけ嘘であって欲しいと願ったのに。このひとの為というより、俺自身の保身の為に。

「何をおっしゃる、きみは自分よりも初対面のおれを心配してたよ」

「…そんな、ことは」

「あるんだよ」

いや、ないと思うけど…。

「いやいやぁ、あるんだって。きみが信じなくてもさ」

「だからモノローグにも返事しないでくださいよ…」

「やだった?慣れてね」

「え、なんで」

「なんでって、そりゃあ」

ふうと溜め息を吐いたその人は徐に立ち上がると、向かいに座る俺の方へと近寄ってきた。

それからまるでプロポーズをする紳士のように、椅子に座る俺の前に跪く。

「雪花さん?なにを」

「プロポーズみたいって、思ってるでしょう」

手の甲に柔らかな感触を受け取ってから、視界が一瞬暗く翳る。

俺のじゃない体温が近づいて、すぐにまたあの香りに包まれた。

…あったかいんだ。

背に回った腕の感覚に、やっぱりこの人は手足が長いんだなぁなんて場違いなことを考えてしまった。

「かわいいねぇ。ずうっと一緒にいようね、蓮くん」

抱き締められていたから分からなかった。
吸い込まれそうな引力を持つ翠が、俺の肩の上で濃く妖しく光っていたことを。

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