「この先の深い森を抜けると、大きな湖がある。その辺りにアンタの探している花は咲いているだろうが、気をつけな」
しわがれた声で老婆は言った。
暗い森の奥を指す指先はやはり皺だらけで、長く尖った爪が鈍色の空と混ざる。
「その湖には、世にも恐ろしい怪物が居るのだ」と。
そう告げた老婆の声は、内容の割に淡々と興味のなさげな色だった。
まぁ、場所が分かればそれでいい。
俺は短くお礼を言って、鬱蒼と茂る木々の中へと足を踏み出してゆく。
暫くは背中を追うような視線を感じていたが森に踏み入った瞬間にその気配すらも消え、振り向けば老婆が居た場所にはただ大きな岩が鎮座しているだけだった。
さて。行こうか。
暗い森はどこまでも暗く、空があるはずの場所を見上げてみても視界を覆うのは濃い緑色の葉っぱだけ。
たまに吹く風はどこか生温く、心地好い訳でもなければ嫌な感じがする訳でもなかった。
そうして俺の短い黒髪を弄んでは去ってゆく風たちの、きゃっきゃと愉しそうな声を聞きながら俺は草を踏み進む。
どれほど歩いたのか分からないが、さして遠くなかったような気もするし、もう何日も歩いていたような気もする。
突然開けてきた視界には先程の暗闇が嘘のような明るい光景が広がっていて、見ればかの老人が言っていたような湖が広がっていた。
…まるで海のようだ。先が見えない。
湖のはずなのに、今は風も吹いていないはずなのに湖面は本物の海のようにさざめいて、耳を澄まさずとも規則的で気持ちの良い音を届けてくれる。
この辺りにしか咲かないという花。
確か、青い色をしているのだとか。
淡い青をしている湖の水のような、とてもとても美しい花なのだとか。
俺はどうして、そんなことを知っているんだろう。
…どうして、そんな花を探しているんだろう。
一面に広がる湖をぼうっと眺めながら、不思議と疲れていない身体に気づいた。
座るのも面倒だから、このままその謎の花とやらを探しに行ってみようか。
その時だ。
穏やかにさざめいていただけの湖がぴたりと凪ぎ、辺り一面が痛いほどの静寂に包まれたのは。
何か、来る。
嫌な予感が背筋を走っていくのとほぼ同時に、湖の底から地響きのような悲鳴のような音が鳴り響いた。
さっきまでの穏やかさが嘘のように湖面は大きく波打って、中から何かとてつもなく巨大なモノが現れる。
………蛇だ。
竜、かもしれない。どっちでもいいし、どちらでもないのかも知れない。
だけれどあの老婆が言っていた「怪物」というのは間違いなくこいつのことだろうと俺は確信した。
その怪物が現れたときの水しぶきが辺り一面に降り注ぎ、まるで天気雨のようで。怪物の向こうに虹を作っている。
大きな蛇は、俺を見下ろすなりガバリとその大きな口を開いて今にも襲いかからんとしていた。のに。
何故だか俺は怖くなくて、寧ろ…こいつに喰われるのもいいかもしれないなんて、薄暗い考えを抱いていた。
蛇だから、丸呑みにしてしまうのだろうか。俺なんて喰って、美味いのだろうか。とてもそうは思えないのだが。
悲しい、気がする。俺の感情かこの「怪物」とやらの感情か分からない何かが胸の内からぽろぽろと顔を出す。
なぁ、お前もしかして、泣いてるの?
手を伸ばすけれど見えるのは大きな口の中とあまりにも鋭い牙だけで…。瞳なんて見えやしなかった。
なのにさ、おかしいなぁ。お前が俺を喰らうのは、きっと本心からそうしたい訳じゃあないんだなぁ。
苦しんでるの?何に?どうして?
もうほとんど喰われてしまう、そんな瞬間によく知るあの声が鼓膜を驚かせた。
「澤くん危ないっ!!!」
見慣れた赤みのある髪が、視界の端を掠める。
あぁ、馬鹿だなぁ。
こんなところまで来ちゃうなんて、お前ってホント馬鹿。お人好しとかそういうレベルを超えてるよ。
見上げると大蛇はいつの間にか居なくなっていて、湖面も初めて見たときのように穏やかだ。
ただひとつ、俺がここに来た時と違うのは…。
震える体温が俺の身体を包み込んでいるということ。
「なぁ、泣いてんの」
「………」
「答えなくてもいいよ。でも、ねぇ」
一織。
お前はどうしてそこまでできるの。
『俺なんかのために』。
「逆の立場だったら、絶対同じコトをする癖に」
あの大蛇は、今湖の底で泣いているのかな。こんな風に抱き締めてくれるやつはいるのだろうか。
ごめんな。俺が、抱き締めてやれたらいいんだけど。
「きみにだったら、できるよ」
風が吹いた。
さっきみたいに生温いだけの感覚じゃなくて、どこか泣きたくなるような気持ち好さだった。
頬を触る。濡れていない。
泣いていいよって、言ってくれているんだから。
いいんじゃないかなぁ。
「なぁ、俺、弱くてごめんな」
「弱いことの何がいけないのか、分からないよ。きみはもう十分過ぎるほど強いけれど、これ以上強くならないで」
弱いところも、全部見せてよ。
そう呟いて俺を見据えた瞳は潤んでいるままだった。
流れ星が白い肌を伝う。
満天の星空だから、溢れちゃったのかな。綺麗だなぁ。
いつ見ても何度見ても、見飽きないんだ。だけど笑った顔の方が、俺は何倍も何倍も好きだなぁ。
「おれもそうだよ。でもね、」
泣いてもいいんだよ。
違うか。
泣かなきゃいけないときも、あるんだよ。
「訳の分からないことを言うなぁ」
「そうでもないよ」
じゃあそれはいつなのって訊いたら、じぶんの心に聞いてみて。だって。
「そんなの分かるかな」
「きみになら、できるよ。おれも手伝うから」
だから一緒に居ようね。おれの時も、手伝ってね。
あ、あの花は。手を置いていたところにちょこんと、探していた花が咲いていた。
俺は、どうしてこれを探していたんだろう。
誰のために、何のために探していたんだろう。
「そのワケを、これから探しに行こう」
満天の星空が今度は明るい夜明けに変わって、こんな俺にふわりと微笑んだ。
「………み、まさおみ」
「ん…」
「起きて、まさおみ。朝っていうか…もうお昼だよ」
「い…おり」
「うん」
「いおり?」
「うん…」
「あれ、なんで…」
そんなカオしてるの…?
今にも泣き出しそうなカオで、俺を見下ろしてるの。
「怖い夢みちゃったの?」
問われて、俺は暫くぼうっと陽に透ける彼の髪を見ていた。
怖かったっけ…覚えてない。最初の方は薄暗い気がしたけど、最後の方はそんなこともなかった気がする…。
「こわくは…なかったけど…」
「けど?」
「………さみしかった、のかもしれない」
「それは…きみが?」
俺が?分からない。
寂しかったのは、一体誰のことだろう。でもあいつが悲しそうだったのはきっと…。
「………いたかったのかなぁ」
「そっか」
「わかんない」
「そっかぁ」
「うん。もう、だいじょうぶだよ」
「今は、そうだな…。うん。おはよう、まさおみ」
「おはよう、いおり。………だいすき」
俺の頬をゆるゆると撫でる心地好い手に擦り寄れば、自然とそんな言葉が零れてしまった。
どんな反応をされるだろうかと恐る恐る見上げるも彼の顔は見えない。
代わりに、全身がぎゅうっと温かな温度で包まれたのだった。
今度は、震えていないや。
耳元で声がする。どこまでも俺を甘やかして安心させてしまう、心地好い風のような声。
甘やかして包み込んで、倒れる時のクッションにもなってくれる優しくて痛い風の声。
「きみの夢の中にも潜り込めたらいいのになぁ」
「よく覚えてないけど、お前は居たよ」
きっといたよ。
夢の内容はもうほとんど覚えていない。
けれどきっと俺がどこにいても、何をしていてもこの変態はついて来て俺を守ってしまうのだろう。
俺も、言えないけれど、そんな風にお前を守れる存在になれればいいのにな。
そうなれれば、いいのになぁ。
そうすればきっと、あの「怪物」くんも泣かなくたって済むんだろう。
「なぁ、あいしてるよ」
この言葉が適切かはわからないけどきっと、あいしてるんだよ。
そう堂々と言えるようになれるまで、あいつを癒してやれるまで、やっぱり俺はもうちょっと強くなりたい…かも知れない。
「…ねぇ」
「ん?」
「おれを離さないでね」
「どうせ離れないんだろ」
「うん」
泣いてもいいんだって。
そんな当たり前のことを当たり前に言ってくれるお前を、離せる訳がないのになぁ。
どうか。
互いに飼っている怪物も、一緒に抱き締められるように。
鏡のように似てしまった俺たちは、少なくとも俺は、そんなことを願っている。
「まさおみ」
「なぁに」
「…おれも」
おれも。
頬に手を当ててみる。今度はちょっと濡れているみたいだ。
流れ星が、俺の手の中で溶けて染み込んでいった。
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