始まりは確か、ぼうっとしてた俺が走ってくるトラックにあわや接触しそうになったところを助けてもらったことだと思う。
いつも通りの何の変哲もない帰り道。
友だちと別れて、家まで数分のところで今日の晩ご飯は何だろうなとか、ゲームはどこまで進められるかななんて至極どうでもといいことを考えながら帰宅していたところだった。
だけど不思議な感覚だった。
足元はしっかりしているのに何故だか頭はぼうっとしていて、現実的な考え事はできるのにまるで身体は半分夢の中にいるような心地で。疲れてるのかな、なんて考えたりもして。
そんな時だ。気づけば前方から少しスピードを出しすぎたトラックが近づいてきていて、避けようと思う間も無くただ突っ立っていると突然強い力で腕を引かれた。
直後、ぶわっとすぐ隣をトラックが通り過ぎるのを風で感じる。
びっくりした…。
どうやら誰か親切な人が、鈍臭い俺を道の端っこへ引っ張って助けてくれたらしい。
ありがたいことこの上ない。そしてご迷惑をお掛けしたことも少し申し訳ない。お礼を言わねばと俺は振り返って、絶句した。
お礼の言葉も謝罪の言葉も、振り返った先にいたその人の前では紙屑みたいに吹き飛んでしまった。
あまりにも、綺麗だった。
国語が得意な俺でさえこの美しさを適切に表す語彙が見つからないほどに、とにかく美しいモノだと思った。
本当に同じ人間だろうか、とも。
特徴的だったのはスッと通った鼻筋と白い肌、うなじ辺りで纏められている清流みたいな艶のある髪。
瞳は長い前髪に隠されて見え辛かったが、銀色に薄い水色が入ったような不思議な色合いの髪は少しウェーブがかっていて、その人の肩の辺りで毛先がぴょこぴょこ跳ねている。
服装は白いTシャツに、普通のジーパン。こんな格好でも十分すぎるくらいの光を放っているその人は、中世的な顔立ちの男性だった。
それにしても脚が長い。腰の位置が俺と比べたら悲しくなるくらいの高さにある気がするが、そこは深く考えないでおこう。
助けてもらったお礼も忘れてじろじろと品定めするような眼差しを向けてしまっていた俺は、暫くすると漸く我に返った。
我ながら何と失礼なことを。
しかし目の前の美人さんは、特に咎めるでもなくただ俺の様子を窺っているようだった。
やがて悪戯な風が通り過ぎて、彼の前髪を揺らした時。
バチッと、視線がぶつかる。
身体に電流が走るような衝撃ってこんな感じのことを言うのだろうか。
どくんと心臓が驚いて、また俺の思考能力は固まってしまった。
ユークレース。
それが一番に脳裏に浮かんだ単語だった。
ユークレースという石を、画像で見せてもらったことがある。
浅い海辺みたいな、氷の結晶のような、透き通っていて美しい水色の鉱石だったと思う。割れやすくて扱いづらく、とてもレアなのだと鉱物オタクの友だちは教えてくれた。
そのユークレースのような青を湛えた瞳と視線が重なった。髪色とはまた違う色合いの、どこまでも澄んだ瞳だ。
真夏には涼やかな印象を与えるであろうその青は、口を半開きにして唖然としている間抜けな俺をただじっと映していた。
そして、軽く首を傾げる。
その仕草だけで、俺はもう別次元のモノを見ているような気になった。髪もさらりと揺れて、ふんわりとその人の頬を擽る。どこまでも白い肌に寄り添った髪は、また少しだけユークレースの瞳を隠してしまった。
どきどきする。
外国の方、なのだろうか。この派手な出で立ちと高い背丈からも、別世界な感じがする。
本当にスタイルが良いなぁ。背も高いし。
腕を掴まれた時も結構大きな手なのかなと思ったけれど、あれ…。
まだ、掴まれたままじゃん…。
なぜ。俺が固まってしまっていたからか。
早くお礼を言わねば。
そしてこんな目立つ人が道端に居ては芸能人でも来たのかと人が集まって大変なことになってしまうかもしれないから、早く立ち去らねば。
ただでさえご迷惑をお掛けした御仁にこれ以上の迷惑をお掛けする訳にはいかない。
「あの、すみません。さっきは…!あ、ありがとうございました!」
逸らされない視線をむず痒く思いながらも頭を下げ、もう一度上げるとその人は満足そうにふっと微笑った。
何という破壊力だろうか。
でも、腕を掴まれたままだったので頭は少ししか下げられなかった。何なら頭を下げた今でも腕…先程は二の腕辺りだったのが、段々と下りてきて居間は手首辺り…は掴まれているままだった。
何だろう、まだお礼が足りないかな。
やっぱり言葉だけじゃあ足りないだろうか。だけどどうしたら。
早くしないと、人が集まってきちゃうかもしれない。
穏やかな顔で俺を見つめ続ける視線から逃げるようにきょろきょろと辺りを見回すも、誰一人として俺たちを気にする人は居なかった。
何故だ。
ここは駅にも近い割と大きな通りで、特に人通りが少ない訳でもないというのに。そんな中で、こんなにも人目を引く綺麗な人が居るというのに。
周りの人々と俺の手を取ったままの美人さんとを交互に見ていると、自転車に乗ったおじさんが通りかかった。
ご近所さんだ。俺が幼い頃から近所に住んでいた人で、会うとたまに挨拶を交わしたり、野菜を分けてもらったりするくらいの仲ではある。
「ようおかえり!今学校帰りか?そんなところで何突っ立ってんだい?一人で」
そのおじさんは俺の隣で一瞬自転車を止めたかと思うと、俺の返答も待たずからからと笑いながら去っていった。
………。
再びの思考停止。何か、何かが引っ掛かる。俺は一向に手を離してくれない長髪のひとを見て、それからもう一度周囲を見回した。
満足そうに自転車を走らせるおじさんの背中は既に遠くて、もう一度さっきの言葉を聞かせてもらうのは難しそうだった。
待て待て。待って?
あのおじさんは今何と言った?
そんなところで何してんだ、だっけ?いや違う、そこじゃない。その後だ。
一人で。…一人で?
おじさんは確かに俺の目を見てそう言った。この美人さんのじゃない。俺の、目を見て、だ。
いやいやまさかなと一瞬思い浮かんだ可能性を掻き消すように俺は正面に向き直って、もう一度口を開いた。
「あの、手、離してもらえません…か」
恐る恐る尋ねると、彼はまたこてんと首を傾げる。それに合わせて、不思議な色の髪もふわりと揺れる。
ついでに俺の心も、ぐらぐら揺れる。このひとの一挙手一投足にはなぜこんなにも不思議な引力があるのか。
そして俺の主張はどこへやら、細長い指は手首からついに手の平まで下ろされた。
白くて本当に人形みたいな艶やかな手は、俺をトラックから助けてくれたその手は、特に冷たくもなく温かくもなかった。
温度が、ない。感じられない。
いやいや、ただ単に俺の手の温度と同じくらいで、そのせいで感じ辛くなっているだけかもしれない。
きゅっと手が握られる。
その行動の意図が読めないままあわあわとしていると、頭上でまたふっと微笑みが漏れた気配がした。
今顔を上げるとまたあの破壊力にやられてしまう気がすると思いながらも、やはりおじさんの言葉が引っ掛かってしまって。
そろりと顔を上げてみるとやはり、テレビの中でも中々お目にかかれないような美貌が俺に向かって微笑んでいた。
どきどきする。
本当に、色んな意味でどきどきする。
きっと俺の顔は真っ赤だろうか。それとも真っ青だろうか。
固まっていると、薄い桜色の唇がふっと笑みを強くした。
駄目だ負けるな。完全にこのひとのペースに飲まれてしまう。
「あの、助けてもらったのはかなり、それはもう感謝してるんですけど、」
「………」
「手を繋ぐ?必要性は…」
言いかけて、俺たちの隣を通りがかったマダムが怪訝な顔をして俺を見ていることに気づいた。その視線にか、それとも先程のおじさんの言葉も加わってか、何故だか嫌な予感がする。
きつい香水の残り香を漂わせ、マダムは薄水色の美人には一瞥もくれずに去っていった。
何だ、どうしてだ。
あまりにも綺麗すぎて、浮世離れしているように見えるからか。だから皆、素通りなのか。
ぐるぐると思考を巡らせている内、決定打が後ろから俺の肩をポンと叩いてやってきた。
クラスメイトである。彼は無邪気に笑いながら、言った。
「よーッス!お前さっきから一人で喋ってるみたいに見えたけど、何してんの?コントの練習かぁ?」
「えっ」
「え?何なに、どした?」
「いやあの、」
「んだよぉ!もしかして、何か困ってんのか?大丈夫か?」
「一個だけ、聞きたいんだけどさ…」
「おう。何だよ?」
「………このひと、見える?」
クラスメイトの位置から彼が見やすいように、俺はそっと一歩横にずれてみた。怖々と聞いた俺の顔を一瞬不思議そうに眺めた後、クラスメイトは律儀に俺の向こう側へと視線をずらす。
うーんと唸るような声を出した後、クラスメイトはやっぱり無邪気に笑って言った。
「なぁんだよ、コントじゃなくて怪談の練習かよ!誰も居ねぇじゃん、ドキッとしたわぁ」
「………え、え、ホントに言ってる?」
「え…冗談じゃねーの?マジで、何か居るのか…?」
「………」
「………」
俺は迷った。真実を打ち明けようか、どうすべきか。
迷って迷って迷った挙げ句、引き攣る頬を何とか笑顔に変えてみせた。
「いやぁ!冗談でしたー!俺って演技の才能あるんかな!」
「…んだよマジでビビッたわぁ!お前覚えとけよー!俺こういうの苦手なんだからな!」
「悪かったって。ありがとな、ごめんて」
「別にいいけどさぁ!プリン一個貸しだぞ」
「あっはは…は…」
じゃあなぁ!とクラスメイトは笑って帰っていった。本当、笑える。
いやぁ、そっか。そっかそっか。
………嘘だろ。
俺はバッと繋がれていた手を振り解いて、ユークレースの瞳を振り返りもせずに走った。
とにかくその場から離れようと、一刻も早く離れようと走って走って、息切れがしたのでちょっとだけ休憩してから、すぐにまた走った。
言っておくが俺にそういうチカラは無い。一切無い。全くもってそういうオカルトな経験はしたことがないし、興味もない。
そしてホラーなものはどっちかって言うと、いやもうどっちかなんて言わなくても苦手だ。苦手というか、無理だと思う。
何だろう、皆して俺を騙しているのか?
クラスメイトや近所のおじさんにマダムまで、この街総出で俺をドッキリにはめようとでもしているのか?
その内その角から、「ドッキリ大成功ー!」なんて大仰な札を持った芸能人がカメラクルーと共に出現したりするのか?
そうであってくれ。そうであって欲しい。
だって、有り得ないだろ。俺にしか視えていない、なんて。
有り得ない有り得ない。それか俺は夢をみていたのかもしれない。本当はあの時トラックに轢かれていたとか?いやそんな、それはそれでやだわ。
走りすぎで肺は痛いし、心臓はこれでもかってくらいどきどきバクバクしてるし、汗も尋常じゃないほどに流れてる。
これで現実じゃないとか、そんな、そんなことって………。
ひやりと、背筋を何かが走った。
汗じゃない。何かもっと、感覚的なものだ。
すっごい見てる。多分だけど、後ろからものすごく視線を感じる。
そういう映画とかは観ないようにしているが、こういう時どうなるかの定石は何となく分かる。
振り返ってはいけないのだ。
だけど映画の登場人物たちは振り返る。何故だろう。
分かっているのに、駄目だと俺の感覚全てが警鐘を鳴らすのに俺は映画の登場人物たちと同じ行動を取ってしまった。
振り返るとそこにはやはり、先程のユークレースが立っていた。
ヒュッと喉が鳴る。
恐怖やら驚きやらで失神しそうになる俺を心配そうに見つめながら、ユークレースのそいつは一定以上近づいてこようとはしなかった。
だけど怖い。それはもう、はちゃめちゃに怖い。
着いて、きたのか。何で、どうして。
まるで山の中で熊にでも遭遇したみたいに、俺はそいつから目を離すことが出来ず、けれど追い払う方法も思いつかず一歩一歩距離を取った。
どうしよ、どうしたらいい。
危害を加えてくる様子は…感じられないけども。
そういう問題か?というか何で俺なの?
もしかして俺ってあの時本当にトラックに轢かれてたりして?
でもそうしたらおじさんやクラスメイトには俺の姿は見えなかったハズだ。今だって、痛いくらいに心臓がバクバクと騒ぎ立てている。
どうしたらいいか分からないまま油断していると、薄水色の影が一歩こちらへ近づいてきた。
ビクリと身体が震える。あまりの事態にキャパオーバーで、視界が真っ暗になる。
そこでもう、駄目だった。
何か気持ちいい…。
そう言えば視界が真っ暗になる寸前、きらりと光る何かが見えた気がする。心配そうな、誰かの顔。
駆け寄って咄嗟に俺を支えてくれたあのひとは、一体…。
ゆっくりと意識が浮上する。
ぼやけた視界には清流みたいな銀色と、氷の結晶みたいな綺麗な水色が輝いて見えた。
頭の下にはクッションか何かが敷かれているようで、痛くはない。倒れる寸前に誰かが支えてくれたのだろうか、頭を打ったという感じもしない。
意識がはっきりしてきた頃、俺はぱちりと目を開けた。
「………う」
「…!」
「う…ん…。あれ、俺なんで…」
「………」
「………」
「え、うっ、うわぁぁぁあああっ!!!」
目を開けるとそこには、先程のユークレースの幽霊が居た。
思わず叫びながらガバリと勢い良く飛び起きると、貧血が起こったのかまたクラッとした感覚が襲ってきて俺は倒れ込んだ。
だけど頭には何の衝撃も来ない。
何故なら…。
膝枕、されているからだ。
………何でだよ。
頭上にはどうどうと俺を宥めながらも、心配そうにじいっと覗き込んでくる不思議な存在が居た。
肩をぽんぽんと規則的に叩く手はどこまでも優しく、まるで泣いている赤ちゃんをあやしているようで。
もう片方の手は熱があるかどうかを確かめるみたいに、俺の額に置かれていた。
やっぱり温度がない。なのに。
ひやりともしないし特に柔らかいワケでもないその感触を、俺はどうしてか心地好いと感じてしまったのだ。
額に置かれた手が勝手に緩々と動いて、小動物にするみたいに俺を撫でる。俺は暫く、されるがままにその感覚を堪能していた。
風が吹いて、さわさわと木々を揺らす。遠くで子どもの遊ぶ声が聞こえる。
そうか、ここは公園か。
俺が倒れて、この近くの公園まで運んできてくれたのだろうか。
トラックのことといい、結構親切な幽霊である。
………あ。
そこで俺はまた堂々巡りの思考を始める。
そうだよ、何で俺幽霊に膝枕されてんの?というか、何で幽霊なのに触れんの?というかというか、何で。意味の分からないことが多過ぎる。
そもそもこいつは他の人には視えていないんだよな?ならば今の俺は周囲からすればどんな状況に見えているんだろう。
空気椅子、みたいに頭を浮かしてる変な人?
前髪が風とは無関係に不自然な動きをしているやっぱり変な人では?
もういいからと、額を撫で回していた白い手を掴み取った。やっぱり冷たくも温かくもない。そしてとても綺麗な手だ。
未だに心配そうな顔をする幽霊を尻目にゆっくりと上体を起こすと、温度の宿さない手で背中を支えられた。
やっぱりとても親切なやつである。
きちんとベンチに座って、まだ残る恐怖を携えながらも俺はユークレースの彼に向き直った。うん、やっぱり視える。それはもうはっきりと、本当にそこに居るみたいに。
どうして俺にしか視えないんだろう。他の人には触れもしないんだろうか。
「………あの、さ」
恐る恐る切り出すと、彼は長い髪を揺らして俺の言葉に耳を傾けようとしてくれた。その姿だけでも絵になってしまう。
涼やかな色味の彼が醸し出す雰囲気はどこか温かくて、どこまでも穏やかだ。おかげで気持ちもいくらか落ち着いて、声もちゃんと出るようになったと思う。
「さっきは逃げて…悪かった。介抱してくれて、ありがとう」
そう告げると、彼はふっと満足そうに微笑んでくれた。その笑顔にほっとする。けど。
「あの、あなたって…ゆ、ゆ、」
中々言い出せない。この奇妙な状況に順応しつつある自分がおかしく思えるけれど、それ以上におかしく親切な幽霊さんはただじいっと俺の言葉を待っているようだった。
口を気持ち大きめに開く。喉を震わせて、声にして吐き出した。
「………ゆうれい、なんですか」
沈黙。
心臓が今日はとても忙しい。さっきまでただ風だけがさわさわと木を擦らせて、この奇妙な沈黙の時間を穏やかな空間に彩ってくれていたのに。
早く何か答えて欲しい。イエスでもノーでも、どっちでもいいから。いや、出来ればノーと答えられて、どこか木の陰から「ドッキリ大成功!」の一団が現れてくれることを俺はまだ望んでいた。
しかし返ってきた答えはそのどちらでもなく。首を傾げた曖昧な反応だった。
彼は顎に手を当て、探偵のように考える仕草をしながら目を細める。分からない、ということだろうか。
それは一体どういうことなんだ。自分でも分からないなんて。というか、さっきからずうっと気になっていたことがもうひとつあるんだが。
「もしかしてアンタ、喋れないのか?」
「………」
聞くと、彼はコクコクと頷いた。この返答はイエスらしい。
何てこった。じゃあ俺はこれからこのひとらしきモノとどうやってコミュニケーションをとればいい。というかこれからがあるのか。
申し訳ないが、出来ればナシの方向でお願いしたい。
しかし事態はそう上手くはいかないようで…彼は俺の家までついてきた。この場合、憑いてきた、という表現の方が正しいのだろうか。
笑える冗談だ全く。いや実際、全然笑えないけどね。
家に帰ってから、俺は嫌というほどこのユークレースの彼の存在がこの世のものでないらしいことを突きつけられた。
家族にももちろんこいつの存在は視えてはいないのだ。
家に入るとおかえりと普通に迎えられたし、背後に当たり前のように居る超絶美形に面食いのはずの妹は見向きもしなかった。
手を洗いに洗面所に行ってもそいつは何食わぬ顔でついてきた。鏡にもはっきり姿が映っているのに本当に他の誰にも視えていないのか。
俺は帰ったらいつもゲームをするため一直線に自分の部屋に向かうのだが、わざと飲み物を取りにリビングにいる母に顔を出してみてもやはり彼には無反応だった。
そして狭い台所であわやぶつかる、というところで俺の疑問が確信に変わってしまう出来事があった。母とこいつがぶつかると思ったのも束の間、何と彼はすり抜けたのだ。
いや、何で。俺には触ってたじゃん。めちゃくちゃ触れてたじゃん?やっぱり俺以外には触れられないのか?
俺が唖然と台所の入り口で突っ立っていると、訝しげな顔をした母に心配された。
大丈夫だと取り繕って、着替えるために自室へと続く階段を上る。実際、やっぱり全然大丈夫じゃない。
部屋に入ってベッドに倒れ込むと、緩やかに頭を撫でられる感覚がして顔を上げた。
あぁやっぱり、居ますよねぇ…。
まだ具合が悪いと思われているんだろうか…。ベッドの端っこに遠慮がちに腰掛けた幽霊さんはやっぱり心配そうに俺を見下ろしている。
触れるんだよなぁ、俺には。
倒れてしまった俺を心配して家まで送ってくれた、という解釈はあまりにもポジティブすぎただろうか。
どうやら彼の目的は他にあるらしい。
成仏できないのかな。分からないけど、唯一彼のことが視えるし触れるらしい俺に懐いてしまったのかな。
何ていうか…これって大丈夫なのかな。
着替える時も、ご飯を食べている時も、お風呂の時も…。
俺に遠慮しているのかしていないのか最早分からないくらいの微妙な距離で、美形過ぎる幽霊は居た。
仕事から帰ってきた父も廊下ですれ違う…というかすり抜けていたし、俺以外には視えてすらいないことがもう確定してしまった。
出来るだけ視ないようにしていてもやっぱり気にするなという方が無理である。
たまに目が合うと、不思議なそのひとは嬉しそうにふわりと微笑んで手を振ってくれた。
その笑顔に心臓が色んな意味でもう無理ですと訴えかけてくるけれど、俺もどうしたらいいか分からない。
とにかく俺はどうやら、とても変なモノに懐かれてしまったらしい。
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