まるで示し合わせるようにピンと、真っ直ぐ糸が張るような感覚がした。
視線を向けた先には何の変哲もない黒髪の少年が、ぼうっと道端を歩いている。
彼をこの目で捉えた瞬間、おれの口は勝手に動いた。
「決めた。あの子にしよう」
そうと決まれば話は早い。
おれは小さな刃物でほんの少し腕を切って、カプセルに血を垂らした。
少量だが、零れないようにきちんと俺の血を閉じ込めたカプセルを手に車を降りる。
そうして真っ直ぐ彼の元へ。
正面からぽかんとおれを見上げるその姿は小動物みたいで可愛かった。
突然自分の前に人が立ち塞がったことに驚いたのか、目を瞬かせてその場から動こうとしない彼の顎を手でそっと掬い上げる。
そうして自分の口に忍ばせていたカプセルを、口移しで少年の口内に流した。
ごくんと、反射的に飲み込む音がする。
少年は何が起きたのかまるで分からないようで唇を離した後もぽかんと口を開けて呆けていたが、やがて状況を理解したらしく段々と頬が真っ赤に染まっていった。
………あ、初めてだったのか。
まぁ本当は、おれの体液さえ取り込んでくれればこんな方法じゃなくても良かったのだけれど…。
初めてを奪ってしまったことにほんの少しの罪悪感を抱きつつ、それ以上に満足感が胸を満たしていく。
だけど残念だなぁ、きみはすぐに今の出来事を忘れてしまう。
反論しようと口を開きかけた彼の目元にそうっと手を翳すと、ふっと力が抜けて少年の意識が飛んだ。
膝から固いアスファルトに崩れ落ちる前に、その身体を抱きとめる。
…目が覚めたらきみは、おれのことを覚えていない。
だけどこれからたくさん、ふたりだけの時間が取れるからね。
ものの数秒で意識を取り戻した少年の体温を名残惜しく思いながら手を離し、おれは一旦その場から去った。
さて、今回の実験で俺には三つの誤算があった。
一つ目は、使用中は使用前の記憶がなくなってしまうということ。
これに関してはまぁ、目覚めた後に覚えていたから良しとする。
二つ目は、使用中に声を発することができなかったということ。
これは結構もどかしかった。まだまだ未完成、ということなんだろう。
だけど色んな方法でコミュニケーションを図ろうとしてくれたのが愛おしかったから、これはこれでデメリットばかりというわけでもなさそうだ。
そして三つ目。
三つ目は、予想以上にターゲットに夢中になってしまったということ。
見た瞬間に一筋の糸がピンと張る感覚がして、おれはひとりの少年に夢中になった。
視線を向けた先にはどこにでもいそうな、これといって特筆すべきところもなさそうな少年。
ただ、目が離せなかった。
それが彼を選んだ理由。
たったそれだけ。
一週間彼と過ごすうちに彼への想いは自分でもどうしようもない程に膨れ上がってしまって、欲しくて欲しくてしょうがなくなった。
そうして目が覚めてから少しだけ、いや結構、後悔した。
彼に少しでも怖い思いをさせてしまったこと。
別れ際、彼にあんな悲しそうな顔をさせてしまったこと。
そしてもう二度と…おれから逃がしてあげられないこと。
勢い良くベッドから飛び上がり彼の元へ向かう。
この一週間の記憶は、隅から隅まで鮮明に覚えてる。
彼を助けた道路。彼に怯えられて逃げられた先で、彼を介抱した公園。
カラオケ、学校、通学路。
彼の家へと続く道に、彼の部屋、彼のベッド。
全てが綺麗に繋がっている。
その全てを反芻しながら、足早に家を出て一直線に彼の元を目指した。
依斗。依斗。あぁ、いと。
会いたい。会いたい会いたい会いたい、早く会いたい。
生身の身体で、温度のある身体で、透けたりしない身体で。今度こそぎゅっと抱き締めて、その匂いでおれを包み込んで。
「あ、結くん」
「依斗!おかえり」
「ただいま。…というか毎日毎日、大丈夫なの?俺の家まで来てもらっちゃって」
「全然?おれが来たくて来てるだけだから」
「でもその…外出が厳しいっていうのは」
「俺ももう、そこまで子供じゃないから大丈夫だよ。というか、やっぱり学校まで迎えに行っちゃ駄目なの?」
「駄目だよ…。お前が来たら大騒ぎになる、絶対」
「大騒ぎになっちゃ駄目なの?」
「駄目っていうか、俺がやなの」
「やきもちかぁ」
「違っ!わないかもしれないのが悔しい…」
「あーあぁ」
「ゆうくん、重いです」
「ふふふっ」
嫌そうな素振りでも全然力が籠ってないのが更に愛おしい。
捕まったのは一体どっちの方だろう。
本当に欲しかったのは透明になれる薬でも普通の生活でもなくて、自分だけを見てくれるひと。
こんなしっちゃかめっちゃかな中身を知っても尚、自分のことを愛しく想ってくれるひと。
ただ真っ直ぐに、見てくれるひと。
腕の中のこの温度を、匂いを、声を。
つまりはきみを。
おれはずっと、探していたんだ。
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