カランカランッと小気味良い音が来客を知らせ、いつも通りガラスの扉が開かれた。
「いらっしゃいませ」
「おや。今日はいつもの店員さんは?」
男がいつものように店に入ると、そこにはいつものように出迎えてくれる可愛らしい笑顔はなかった。綺麗な花が並ぶこの店で最も目を引く、この世で最も美しい花…それが今日は見られないなんて。
何故知らなかったのだろう。聞き逃したか?いや、そんなはずは。
「彼はちょっと別件で、今日は一日出払っております」
内心少し、いやかなり落胆した。
あの子がいないのならば、ここに通う意味もあるまい。
何度見たってあの笑顔が現れる訳でもないのに、諦めきれず花の隙間からちらりとレジを覗く。
爽やかに紳士を出迎えた店員は目が合うとニコニコとこちらに笑いかけてくる。
何度確認してもやっぱり違う。あの子じゃない。
しかしいくら彼が居ないからといっても、いつも通り来店して何も買っていかないのは流石に怪しい。
男はひとつ適当に手にとって、いつも通りレジへ向かった。
「ありがとうございます。プレゼント用ですか?」
「いや、今日は…」
言いかけて一瞬、あの笑顔を思い出す。
笑顔だけじゃない。ぼーっとしている顔や何が起きたか分からないという風に困惑した顔、謎の気配に怯えた顔…。
やはりどこをとっても愛おしい。
「プレゼント用で、お願いします」
男がそう伝えると、店員は鮮やかな手つきでラッピングを始めた。器用な手先でリボンを愛らしい形に結びながら、男に話し掛けてくる。
「奥様へのプレゼントですか?」
「いや、奥様じゃないよ。まだ、ね」
「ということは、プロポーズはまだされていないのですね」
「まぁ、そうだね」
何だろう。
この店員いつもはあまり喋っているところを見ないが、今日はやたらと口が動くな。
…そう言えばこいつは、あの子に「店長」と呼ばれていた奴だ。段々と思い出してきた。
上司だかなんだか知らないがいつもいつもあの子にベッタリして、あの子も迷惑そうじゃないか。そうだ、あの子は優しいから邪険に出来ないんだ。
大体この店に女性客が多いのも大方こいつ目当ての客がほとんどだからだろう。ならばそっちと大人しく仲良くしてくれていればいいものを。
そう考えて男が苛々してきたところで、店員はラッピングを終えたようだ。
「どうぞ。喜んでくださるといいですね」
「あぁ。ありがとう」
本来ならば今日、バラの花束であの子に想いを伝えようと思っていたのに。
しょうがない…また出直すしかない。
今度は聞き逃さないようにしないと。
そう思いながら男が店を出ようとしたとき、「お客様」と先程の店員に呼び止められた。
「これ、お忘れでしたよ」
辺りの女性客が思わず赤面するほど爽やかな顔で微笑んだそいつは、去り行く男に小さな何かを手渡した。
渡されたのは…小さな機械。レコーダーのようなものだ。こんなものを忘れた覚えはないがこの色、もしかしたら。
「…ありがとう」
短く礼を述べると男は店を出た。手にはあの子がいなかったから適当に選んでしまった花束を持って。あの子じゃない手でラッピングされた、花束を。
そしてあの腹が立つまでに物腰柔らかな店員のラッピングは完璧なまでに美しいものだった。
…しかし妙だな。
去り際に手渡された忘れ物を思わず受け取ってしまったが、こんなものを忘れていった覚えは全くない。そもそもこんなものを人前で出した覚えもない。
しかし似ている。
ふと気になって右ポケットをまさぐるが、目当てのものは見つからなかった。無くしていることにも気づいていなかった、ってことか?そんな馬鹿な。
しかしここに無いということは、彼に手渡されたこれが正しく俺のものということか。
家に帰って確認してみる。
すると新しい日付で見覚えの無いデータが入っていた。
何だろう。俺も覚えていないデータだろうか、いやでもそんなはずは…。
イヤホンをつけ、再生すると…
…ガサッ、トントントン…
これは、生活音か?
トッ、ガサガサ…
カバンか何かを置く音やビニール袋の音がする。やっぱりどこかの生活音らしい。
しかし違う。これは、いつも聞いている音とは違う。
ガチャ、ゴトゴト…
………これ以上、聞いてはいけない。
何となく頭の片隅の片隅で、誰かがそう言った気がした。しかしその危険信号は身体を動かすにはまだ遠く、男はイヤホンを外せない。
『…っ!』
今度は、人の声、だろうか。何か喋っている。
『…だ、あぁ、今日も…った、』
聞き覚えのある独り言。
そして確かに這い寄ってくるぞわり、ぞわりとした嫌な感覚。
…駄目、だ。これ以上は…しかし、もう、遅い。
男は音の正体に気づき始めていた。元々勘が良い、というのもあるがそれだけではない。何故ならそれは、その音は…男がよく知る音でもあったからだ。
但し、誰のものであるかという重大な点は決定的に違っているのだが。
そして薄々感じていた恐怖は、鮮明に聞こえだした次の一言で決定的に男の背中を突き刺した。
『あぁ、今日も最っ高に可愛かった!』
聞こえてきたのは、男が人生で一番聞いてきた声だった。
『明日だ…ついに明日…あの子に言うんだ…』
「っ!!」
声にならない声を上げてイヤホンを引きちぎるように外し、咄嗟に部屋の隅まで後退る。しかし今更イヤホンを外したところで、もう遅かった。聞いてしまった。
自分がしていることを自分もされている。誰かが、どこかから、どうやって。
言い知れぬ恐怖と疑念に男は支配されていた。どくどくと心臓が忙しなく脈々打っているのに、足に力が入らない。怯えている今この瞬間でさえ、この情けない姿までその誰かに見られているかもしれないのだ。
いや、その人物が誰かなんてもう明白だった。
未だ混乱する頭で部屋中を見回すがそれらしいものはひとつもない。そもそも誰かを部屋に招き入れたことなどない。ふと、ガサリとした感触が手に当たった。
こ、れは…今日買った、花束。文句の付け所がない美しさでラッピングされた、花束。
なん、だ…これ…?
見ると、リボンの間に何か小さな紙が挟まっているのに気づく。男が選んだ花束には、頼んでもいないのに小さなメッセージカードが添えられていた。
可愛らしい小さな花の模様が入った折り畳み式のカード。表面には、美しい字で「お客様へ」と書かれている。
…開くな。見てはいけない。
どくどくと大きくなる音。まるで耳のすぐ横で「やめろ」と叫ぶみたいに、男の心臓が今度こそ気づかずにはいられないほどの危険信号を発していた。しかし、いやでも、まさか…。
駄目だと思うのに、男の震える手は勝手にカードを開く。
そして、驚愕で言葉を失った。
可愛らしいメッセージカードに書かれていたのは、愛の告白とは程遠いメッセージ。
綺麗な花で装飾された小さなスペースに男の住所、実名、生年月日、家族関係や口座番号、誰にも教えていないはずのSNSアカウントなどがところ狭しと綴られていた。
「ひっ!!」
ゾクゾクっと背筋をとても嫌な感覚が通り過ぎ、全身から一気に血の気が引いた。
ガチガチと小刻みに歯が震えて噛み合わず、自然と涙が溢れる。本物の恐怖を目の前に、男は暫く動くことが出来なかった。
ここで漸く男は気づく。
自分が獲物を捕らえるつもりで泳いでいた場所は、実はとんでもない化け物の口の中だったのだと。
ぱさりとカードを落とし、男は深く項垂れた。
床に落ちたメッセージカードの裏面には一言、「またのご来店お待ちしております」の文字が光っていた。
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