「いひゃっ」
「?」
夕食中、それは突然のことだった。
二人だけの空間、いつもの如く言葉少なに食事をしていた。
特に忙しく口を動かしていた訳でもないのに、ドジな僕はふとした瞬間に口の中を噛んでしまったのだ。
それも結構深く…。じんわりと鉄の味が魚の塩味と混ざって、痛いやら不味いやらで嫌な気分である。
これは絶対大きな口内炎になる…。やだなぁ、薬あったかなぁ。
お茶で流し込んでも何の解決になるでもなく、はぁと小さく溜め息を吐いた。
噛んでしまった右頬を外側から手で擦りながら涙目になっていると、真正面からその光景を眺めていた緋色が問い掛けてきた。
「もしかして、口の中、噛んじゃった?」
「かんじゃった…」
「あーあぁ。馬鹿なの」
「うるひゃい」
相も変わらず起伏の無い表情でそう告げる幼馴染は不意に立ち上がると、未だ頬を押さえている僕の隣にやって来た。
座っていると分かり辛いけれど、こうして立って隣に並ばれると改めてこいつのスタイルの良さが分かって腹立たしい。
そんなことを考えちゃうのも口の中を噛んでしまった痛みで苛立っているせいかもしれない。
僕という奴は最低だなぁ…。
ぐるぐる考え込んでいる間にも緋色は僕の隣で上半身を屈めて、顔を覗き込んできた。
いくら見慣れている顔だからといって、突然目の前に現れると流石に少しびっくりしてしまうじゃないか。
その上、予告もなしに顔に手を当てられたのだからこれには肩がピクリと跳ねてしまった。
ほんのちょっとだけだから、気づかれていないと思いたい…。
「見せて」
「なにを?」
「口の中」
「へ」
「噛んだところ」
恐らくまだ涙目のままの僕はされるがままに顔を上げて、ほぼ反射的にあーんと口を開けた。
ここは歯医者さんだったかな。いいや、僕の家だ。
そして恐ろしいまでの美貌を携えて僕の口の中をじいっと凝視している無表情の彼は、お医者さんではなくてただの幼馴染みだ。
そう、ただの…?
「ひょっほ?!」
ちょっと、何をするんだと言いたかったのだけれどそれははっきりした言葉にならなかった。
何故か。口の中を噛んでしまったから。というのもあるけれど…。
何故だか、緋色の親指が僕の口に無遠慮に入り込んできたからだ。
それによって否応無く口を大きく開けさせられるし、人肌の生々しい塩味がやんわりと口の端に広がる。
舌の先に触れてきたそれは気のせいか、撫でるようにして僕の舌の柔らかさを楽しんでいるようにも思える。
いくら長い付き合いだからといっても、この状況は中々に恥ずかしいものなんじゃあないだろうか…。
全国の幼馴染みさん達がどうかは知らないけれど、少なくとも僕はそう思う。
というか緋色も緋色で、何でそんなにまじまじ見てるの?
僕の口の中ってそんなに見る価値のあるものなの?
抵抗代わりに、僕の口を押さえている緋色の手をトントンと叩いてみるけれど、反応は無し。
けれどそれで漸く我に返ったのか、綺麗な瞳が長い睫毛を揺らしてやっと数回瞬きをした。
ゆっくりとしたその動きがいやに目を惹きつけて、口から唾液が漏れそうなのも忘れて見入ってしまう…。
唾液。そうだヤバい!
開けっ放しにされていたせいで飲み込むに飲み込めなかった唾液が溢れて幼馴染みの綺麗な指までもを濡らしてしまう。
恥ずかしい、居た堪れない…傷口も渇いてしまうから早く離して欲しいのに、当の緋色は一向に目を逸らしてくれる気配も無くて…。
このまま指ごと噛んでやろうかと思った瞬間に、目の前の空気が動いた。
ふっと視界が暗く翳って、さらりとした髪が顔を擽る。
そうして僕の口の中に、明らかに僕のものでない温度の何かが入ってきたのを感じた。
何が起きたのか分からなくて動けずにいると、僕の右頬を大きな手が固定した。僕の手の、上から。
そして咥内に侵入してきた何か…本当は何かなんて検討はついているけれど、その何かが先程の傷口をなぞった。
どくんと身体の中心が大きく脈打つ。全ての温度が近くて、嗅ぎ慣れた匂いがいっぱいで、訳が分からなくて。
僕は先程トントンと叩いた彼の腕にしがみついた。呼応するようにして、口の中のそれも僕の舌と重なる。
…熱い。痛い。いや、痺れてよく分からない。
ゆっくりと確かめるように僕が噛んだ痕を舐める緋色の舌は、想像よりもずっと熱を持っていた。
いや、想像なんて…したこと、そんなにはなかった、けど…。
顔が熱い気がする。口の中も、お互いの舌も、頬に添えられている手ですら…。
くらくらするのに、触れられた箇所はいやにはっきりと熱を持ってその感触を覚えている。刻み込んでくる。
「…いっ、」
「………」
舌先が傷口に触れる度にピリリと弱い電気が走るようだった。痛いかどうかなんて、もう分からない。
血の味も、魚の味も何もかもよく感じ取れなくなってしまった。
ただ分かるのは…やけに熱いということ。触れ合っているところから溶けてしまうんじゃないかということと、この感覚が嫌じゃないと、いうこと。
「う、ぁ…」
「………」
「んぅ、いっ、ぁ」
「ん」
やがてじゅっと淫猥な音を立てて、緋色は口から零れそうになっていた唾液を啜った。ごくりとすぐ傍で嚥下する音がする。
そうして口を離した瞬間…今まで見たこともないような恍惚とした表情で微笑う幼馴染みが居た。
僅かに頬を朱に染めて、普段は無機質な瞳には妖しい光が見え隠れしている。
その姿に…僕は余計に身動きが取れなくなった。
「…は、はぁ、ひ…いろ?」
「んー、ちょっと血の味がする。結構深くいったね?」
そう言うと緋色は先程まで僕の口をこじ開けていた親指を自身の口に含んで、丁寧に舐めた。
物凄く美味しいものを食べるような表情で、仕草で舐め取ったのが何かなんて考えるまでもない。それは、僕の…。
「…しんじらんない」
「なにが?」
「だっ、て…お前…」
「いやだった?」
「そういうことじゃなくて、」
「紺がいやだっていうなら、もうしないよ。二度と」
「…っ!」
数秒すると彼はもう、いつもの無愛想な幼馴染みに戻ってしまっていた。
舐め取った後の親指をティッシュで拭いて、大人しくまた僕の目の前の席に収まる。
頬杖をついてこちらを試すように覗き込むその瞳はいつも通りに見えるが、まだ熱がどこかに燻っているようにも見えてしまって…口の中にもあの感覚が残ってしまっていて、僕は直視できなかった。
「嫌、だった?」
「…ちょっと、痛かった」
「嫌ではなかったんだ」
「ちょっと、びっくりした」
「嫌じゃあなかったんだね」
「………緋色きらい」
「それは困るなぁ」
そんなことを言う癖に声は笑っている。いつになく楽しそうな雰囲気を感じるけれど、僕は色んなことに理解が追いつかなくて少し居心地が悪かった。
「緋色も噛めばいい」
「その時は紺が、治療してくれる?」
「あんなの治療じゃないっ!」
思わずカッとなって正面を向くと、普段は無表情を貫いている相貌が簡単に崩れて僕を見た。
「ふっふふ、酷くなったら言ってね。薬塗ったげる」
「言わない…」
ずるい…。そんな子どもみたいな無邪気な顔で笑うなんて、ホントに勘弁して欲しい。
「………痛い思いはして欲しくないけど、血は嬉しい」
「は?何て」
「なぁんでも」
僕が長い溜め息を吐く間に落とされた独り言は、悔しいことに拾うことができなかった。
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