誰かの幸福の条件に、自分が組み込まれているなんて考えたことがなかった。
大事なひとが幸せならそれでいい。
おれがどこで何をしていたって、生きていたって灰になっていたとしたって。
ただ記憶の片隅にも残らないほどに幸せになってくれていればいいんじゃないかと。
大体そんなことを言うと目の前の少年はただでさえ丸い目を真ん丸く見開いて、バシッとおれの頬を叩いた。
いつものふざけた力加減じゃない。本気の本気で、思いっ切り引っ叩かれたのだ。
それから彼は何かを言いたげに顔を歪めて、零れ落ちそうになった透明を隠すように顔を伏せてしまった。
俯いた瞬間にやっぱり光る、落ちていく幾筋もの水滴。
あぁ、泣かせた。
泣かせてしまった。
何がいけなかった?どれが彼を傷つけた?
口の中で鉄の味がする。きっと叩かれた時に切れたんだ。じんわりと赤くなっていることだろう。
だけどこんな傷は痛くも痒くもないんだ。
どうしようもなく痛いのはもっと別の…どこかよく分からないところ。
手を伸ばしてみるけれど、触れていいのか分からない。
もう水滴は落ちていないけれど今、どんな顔をしているのか分からない。
何が彼をそうさせた?
普段どれだけ口が悪くたって、こんな風に本気で怒ることなんてそうそうないのに。
どうして俺は叩かれた?根は心配になるほど優しくて本当は温厚な彼に、どうしてこんなことをさせてしまったんだ。
教えて欲しい。
いつもみたいにその辛辣な口で、きみだけの言葉で教えて欲しいけれどそう思うのはきっと甘えだ。
考えなくちゃ。
何の話をしてたんだっけ。
そうだ、幸せがどうとか、そういう。
結婚するんだっていう依頼主さんが不安だからとパートナーの浮気調査を頼んできたのだ。
おかしな話だ。
今からその人と二人で歩んでいこうとする時に、わざわざそんなことを頼むなんて。
何年か共にしたご夫婦のどちらかからそういったご依頼を受けることは少なからずあるけれど、まだ新婚にすらなっていない方からそんな依頼が来るのは珍しかった。
折角これからなのに。
いや、これからだから、だろうか。
これから歩んでゆく未開の道に、少しでも不安要素があれば取り除いておきたいという心理からだろうか。
そこからたしか「幸せってなんなんだろうね」って話になって、おれが何かを言ってしまって、そして…。
あぁ。全然顔を上げてくれない。
艶のある黒髪で顔を隠したままの凛陽くんはやがてポツリと呟いた。
「…めんなさい」
「りょうく、」
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
水滴じゃない。なのに血のように、どこか痛々しい声で。
ダメだ。この言葉はダメだ。傷つけている。きっと彼自身を傷つけている。
彼はおれに謝ってるのか、それとも本当は…。
「顔上げて。おれが悪かった。ゴメンね」
「叩いたのは俺なのに」
「手、痛かったでしょう?そんなことさせてごめんなさい。それなのに、」
叱られたことを嬉しいと思ってしまってごめんなさい。
きみは心を削って泣いてくれたのに。血が滲むような声で謝らせてしまったというのに。
「怪我したのは透羽さんでしょう?口…切れてる…」
そう言って口元に手が伸びてきた。さっきおれを叩いた手。思いっ切り引っ叩いた手。
申し訳なさそうになぞりながら、遠慮がちに触れてくる手。
漸く見えた瞳にはきっとおれだけが映っている。
「りょうくん」
「言わないで」
「え」
「居なくなるなんて、言わないで」
「おれそんなこと、」
「もう、二度と、言うな」
「………うん」
そんなこと。
言っただろうか、と先程までの会話を思い返してセイカイを探した。
大事なひとが幸せならいいと言った。
例えその時に、おれがどこで何をしていようとも。
だから…そう。
誰かの幸せの条件に、おれの存在が組み込まれているなんて今まで考えたこともなくて。
無意識のうちにその幸福な未来予想図の中からおれは自身の存在を入れたこともなかった、気がする。
分からない。誰かの幸せを心から願ったことなんて今までそんなにないから。
分かんないな。
言い訳にしかならないか。うん、こんなのはただの言い訳だ。
口元から離れようとした手を掴んで、もう一度おれの頬へ擦り寄せた。
すいと合わせた視線にはまだいつものような調子は戻っていなかったが、それでも抵抗はされない。
綺麗な手に俺の赤がついてしまったらゴメン。それは後で洗ってしまおう。
「…ごめんなさい」
「もう謝らないで」
「やです。俺、感情的になって…最低だ」
「おれのために感情的になってくれたんなら、最高だよ」
「ちがう」
「変態って言ってくんないんだね」
「………」
「ごめん」
「…重なって見えたから」
「うん」
右手で彼の髪を梳いて掻き上げた。先程より痛々しい表情ではなくなっているけれど、まだ睫毛には光るものが残っている。
瞬きをするとつうっと頬を流れていったそれは、暗い夜に見る流れ星みたいだった。
願い事をするならばたったひとつ。ひとつだけだ。
漸く落ち着いて話し始めてくれた彼の黒髪を耳にかけてやりながら、おれは言葉の続きを聞いた。
「俺も、大事なひとが幸せならいいなって思います」
「うん」
「母さんも…。俺の為にいつも頑張ってるけど、もう自分の幸せの為だけに生きて欲しいってたまに思うんです」
「きっとりょうくんが元気なだけでお母さんも幸せだと思うけどなぁ」
「ほらそういうとこ」
「ん?」
「何で他人のことには鋭いのに、自分のことはそんなに疎いんですか」
「え、そう?」
「何でひとには当たり前のように適用される価値観が、自分には適用されないんですか。阿呆なんですか」
あ、辛辣さが戻ってきた。
「阿呆って…」
「じゃ馬鹿ですか。救いようのない馬鹿なんですか」
「そうかもしれません…」
返す言葉も無くて視線を彷徨わせていると、握っていた手が離されてしまった。それを追い掛けるようにパッと彼の方を向くけれど、姿が消えた。
一瞬本当に消えてしまったのかと思って、どくんとこれ以上ない嫌な鼓動が響く。
りょうくんがいない。
考えたくもない。一瞬たりとも考えたくなんてない。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。………やだ。
有り得ない。
けれどそんな杞憂は身体全体に受け取った衝撃で一瞬のうちに吹き飛んだ。
少し視線を下げるとさっきまで撫でていた黒髪がある。というか、彼の身体がおれに密着している。
抱きつかれたのだと理解するまでに数秒かかった。だってこんな風にりょうくんから来てくれるなんて滅多にない。
明日は大雨どころか嵐になるかもしれない。どうしよう。そんなバカなことを考える暇もなく、彼の言葉は続く。
「俺も、誰かの幸せに自分の存在があるなんて考えたこともなかったです…最近までは」
「そう、なの」
「どっかの変態真っ白馬鹿のおかげで、そんな価値観は塗り替えられました。………クソが」
「おう…」
クソがって言った?言ったな。
全く口が悪いんだからこの子ったらもう。
いいけどさ。
言ってることはこの上なく優しく温かいことなのはいつだって分かるから。
そういうところが堪らなく嬉しくて、堪らなく心配でもあるけどなぁ。
そんなことを考えながら細っこい身体を抱き締めていると、おれにしがみつく腕に力が籠った。
ポツリと、愛しい振動が汚い部屋の空気を揺らす。
「………だ」
「ん?」
「…やだ」
「え」
「とわさんが居ないなんて、やだ。考えたくもないし、そんなのありえない………やだ」
「りょうくん…」
あぁ、そういうことか。
俺は本当に阿呆で馬鹿でどうしようもないやつだなぁ。
「俺、幸せになりたい」
「うん」
おれも。って…言っていいのかな。
言葉にするだけでどうしてだかすごく怖いんだけどさ。
「なのに残念ながら」
「うん?」
「誠に遺憾ながら」
「う、うん」
「とわさんが居ないと、俺は幸せになれない…みたいです。………………クソが」
「ん"っ!そう、なの…」
思わず咳き込みそうになった。プロポーズかと思った。いやプロポーズか?
そんなことを考えている内にもおれを抱く腕は離れる気配がない。
おれも離す気はさらさらないからお互い様だ。
顔は俺の胸に埋められたまま、やがて服にじんわりと湿った感触が広がっていくのを感じた。
また、きみは…。
後頭部に手を回してまた髪を緩く梳いてやる。
こんなに温かい温度を心地の好い感覚を、離せるわけがなかった。
いやそもそも、離すつもりなんて毛頭なかったのに。
おれに染み付いた自己への無関心さが、彼をこんな風に傷つけてしまったんだろう。
自己嫌悪でも自己否定でもない。それはどちらもきっと、とても苦しい。
だけど多分そういうものの方がまだマシかもしれない。おれの勝手な考えだけど。
彼を傷つけたのはきっと。
無関心。どうでもいい。どうでもいいとすら、思わない。
愛の反対は、か。
考えたこともなかったんだ。
誰かの…大事なひとの幸せに自分という存在がこんなにも色濃く刻み込まれているなんて。
今更になって頬が痛みを取り戻した。心地好い痛みだ。
おれはきっとこの痛みを知っている。気がした。
だいじょうぶだよ。なんでもないよ。ちゃんと、みえてるよ。
『あなたが、必要だよ』
潮風が部屋を吹き抜ける。窓の外にはビルしかないのに、どうしようもなく広い青が過った。
「俺の幸せのために、とわさんが、必要なんだ」
「…うん。うん」
おれにもきみが、必要だよ。
顔が見えなくて良かった。海水じゃないしょっぱい水が、切れた口端に染みて鉄の味と混ざっていった。
「…不本意だけど」
「ふっ、それはどうも。なら、ねぇ」
「なんですか」
「おれを幸せにしてね、りょうくん」
おれを幸せにして。もう既に幸せだけど、これ以上を求めている。
傲慢でも我が儘でも、何だっていい。
だっておれの願いは、願いは。
多分きみの願いと一緒だと思うから。
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