覗いた先は深海だった。
実際に海に潜ったことはない。
けれど深い深い海の底、光が届くぎりぎりのところはきっとこんな感じなのだろうなと、指先の欠片を見て想像した。
「透羽さん、これは」
「何かもらった」
「もらった」
「うん。依頼主さんから」
もらったって…あのおじいさんからかな。
確か、突然居なくなってしまった古い付き合いの友人を探して欲しいと。
二週間ほど前にうちを訪れた老年の紳士は「タカハシさん」にそう依頼した。
そうしてたまに俺が手伝いつつ「タカハシさん」が依頼を完遂し、無事お二人を会わせることが出来た後、依頼主さんはそれはもう喜んでいた。
ぶんぶんと握手した手を振り回し、何度も何度も頭を下げては、おばさん姿の「タカハシさん」にしきりにお礼を言っていたのを覚えている。
その時に報酬以外にも何かを手渡しているなとは思っていたが、それがこの石だったわけだ。
「それにしても…何でまた、石を?」
「趣味なんだって、集めるのが。きれいだよねぇ」
「まぁ確かに………きれいですけど」
本当に、深海の欠片をそのまま持ってきたみたいだ。
俺は真昼間の空の鮮やかな青も、隣でにやにや笑う変人の瞳のような浅い青も好きなのだが、こういう深い青も結構好きかもしれない。
見ていると何だか心が落ち着く、気がして。
カチッと透羽さんが小さなLEDライトを消すと、石は元の色に戻ってしまった。少し緑がかった、透明度の低いネイビーブルー。
これはこれで綺麗なのだが。
しかし先程の光景をもう一度見たくなった俺は変人からライトを奪って、再び自身の手元で石を照らした。
すると紺碧の欠片だった石の中に突然空間が現れて、そこに本当に海の世界が広がっているかのような幻想的な光景を映し出してくれる。
何故だろう。汚部屋に居るのに美しい青の世界に入り込んでしまったような、暗闇から突然宝箱が現れたような、そんな感覚。
びっくり箱を開けたようなこんな不思議な感動を、俺は今まであまり感じたことがないかもしれない。
俺があまりにもその青に見入っていたからだろうか。隣から綿帽子みたいな声がふわりと降ってきた。
「気に入っちゃったならあげるよ」
「いえ、いいです」
透羽さんが話し掛ける隣で、俺は視線を石から移さずに言った。
頬に視線を感じる。俺も視線を返さないことがちょっと失礼なのは分かってはいるけれど、このひとに対して今更そんな気遣いは無用だと思う。
それより今はこの不可思議な青い世界をもっと堪能していたい。
そうして俺は遠慮なく、しげしげと深い海を眺めていた。
「別にそんなに高価なものじゃないって言ってたし、気にしなくていいのに」
「や、そういう問題じゃなくて。これは透羽さんがもらったものなので」
「おれのものならほとんどりょうくんのものってことだよ」
「俺は某ガキ大将じゃありませんよ…」
「まぁ似ても似つかないよね」
「似てるって言われても返答に困りますけどね」
けらけらと笑う幼いそのひとは、俺が振り返るより先にゼロ距離まで近寄ってきた。
頬に髪が当たって視界の端に白い糸のようなものが見える。
抗議するように視線だけ向けると、この深海の石より幾分浅い色の青が目に入った。
この石が深海ならば、こちらの色は山の上流にある、とても澄んだ湖の水のようである。
…ずるいな。
何故だかそんな感想が浮かんでしまう。
楽しそうな透羽さんは俺から石へと視線を移し、俺と一緒に深い青を眺めた。
不思議な感覚だなぁ。例えるなら、そうだな…。
「一緒にダイビングしてるみたいだね」
「えっ」
「んー?あ、まさか同じコト考え」
「てないです。全然そんなこと考えてないです」
「かわいいなぁ」
「考えてないって言ってんでしょ」
「ぶふっ」
「…もういいです」
そろそろ疲れてきた俺の指先から今度は透羽さんがライトと一緒に石を奪い取る。
そうして俺にもよく見えるように、ころころ角度を変えながら白い手の上で深い青を転がしてみせた。
「…あの、ご老人は」
「うん」
「これを見て、友達のことを思い出してたんでしょうか」
「さあ?どうだろうなぁ」
色の無い髪を揺らして、そのひとは遠くを見るように目を細めた。
長い付き合いの友人。学生時代からの何十年という、俺にとっては途方もなく長い時を分かち合ってきた友人。
一体どれほどの出来事や感情を、あの人たちは分かち合ってきたのだろう。俺には想像もつかない。
だけどそんな人が突然姿を消したとなれば、あんなに慌てるのも当然だろう。心配もするだろうし、もしかしたら自分のせいなんじゃないかとか、色々考えてしまうのもしょうがないと思う。
この石を「タカハシさん」に渡す時、あの老紳士は言った。
「これはもう必要の無いものだから」と。
それはきっとこの石が、ご友人とあの人を繋ぐものだったということだろうか。
離れている間もあのご老人はこの石を見てどこに居るかも分からない友のことを考え続けていたのだろうか。
久しぶりに会ったというご友人は、依頼主の老紳士よりも随分とお年寄りに見えた。
同い年だと聞いていたけれど、見た目だけならば十歳くらいは離れているようにも思えてしまって。
深く刻まれたその皺に、見えない苦労が刻まれている気がした。
高校生のバイトの俺にも終始穏やかに接してくれていた依頼主の老紳士。依頼完遂後、俺にまで深々とお礼をしてくれた誠実で優しい素敵なひと。
そんな彼が久方ぶりのご友人との再会に喜んだのも束の間、ご友人の身の上話を聞くと段々とあの穏やかな相貌を崩していったのを覚えている。
彼は確かに、怒っていた。
そうしてただ一言、静かに呟いた。
「頼って欲しかった」と。
ただそれだけの一言にたくさんの愛情やら怒りやら悲しみやらが混じっている気がして、それを聞いたご友人も皺の寄った目尻に涙を滲ませて謝罪を繰り返していた。
頼って、欲しかった…か。
彼らの仲について俺が分かることはほんの少しだけれど、あの言葉と似たような言葉を俺はいつか何処かで聞いた気がする。
誰からだったか。
そんな答えは決まっている。
たったひとりの、このひとからだ。
「頼ってくれなかったら、怒っていたかも」だったかな。確かそんなことをこのひとに言われた気がする。
俺も多分、怒るだろうか。
自分に何か出来ることがあるかもしれないのに隠されてしまうのは、独り暗い方へ歩き去っていこうとされてしまうのはきっととても苦しい。
苦しくてもどかしくて、「どうしてそんなことをするんだ」と怒鳴りつけてしまいたくなるかもしれない。
その想いが傲慢かもしれないと分かってはいながら、頼って欲しいと望むのはきっと自然なことだと思う。
相手が大切な存在ならば、尚更。
良い様に利用してくれてもいいから、独りを選ばないで欲しいと思う。
頼ることを迷惑だなんて思わないで欲しいと、俺なら思う。
今なら、そう思う。
「透羽さんは」
「んー?」
「こういう石とか、好きですか」
透羽さんは。
そんなことしないですよねって言おうとしたけど、やめた。
このひとが独りを選ぼうとする時はきっと、俺も独り善がりな選択をすると思う。
今のこのひとならきっとそんなことはしないと思うけれどそれでも、このひとも独りで抱えてしまう性質だろうから。
性根というものは、中々治らないものだろうから。
「そうだなぁ。前はきっと何とも思わなかっただろうけど今は…好きだな」
今度こそ視線を重ねる。
すると深海から浮上してきた浅い青が真っ直ぐに俺を捉えていた。ずるいなぁ。ずるいよ、本当。
比べようもなく、このひとの持つものだからこそこんなにも惹かれてしまうのだろう。
石とか全然詳しくなかったけれど、こんな色の石もあるのかな。あるかもしれない。
ちょっと調べてみよう。
そんなことを考えながら、白い手の平にそっと指先を滑らせる。
覗いた先はやっぱり深海だった。
いくら見ていても呼吸が苦しくなることはない、それどころか寧ろ心地好く沈んでゆける暖かい青だ。
静謐で涼やかで、美しい。
俺の隣にも丁度、そんな色がある。
ちょっとずつ分けてもらおう。
このひとが抱えているものを俺は全て把握している訳ではないし、全て知りたいなんてきっと傲慢だけど。それでも。
ちょっとずつでいいんだ。
他でもないそう教えてくれたこのひとが、もっとたくさんのものを綺麗だと思えるように。
ちょっとずつ、ちょっとずつ。
たまに俺のも持ってもらいながら、ふたりで分け合っていこうか。
そうしていきたいな、なんて。
「りょうくんさ」
「なんですか」
「いや、きれいだね」
「そうですね。見てて飽きないです」
「…ちょっと妬ける」
「子供ですね」
「ねぇ、おれの瞳とどっちが」
「こっちですね」
迷わずに青いフローライトを指差すと、軽くデコピンされた。理不尽だろ。
「やっぱりカラコン…」
「だめです」
「この色の」
「不要です」
「ふっ、くく…」
今度は俺がデコピンした。いてて、とわざとらしく擦る白い肌に、俺のつけた赤い痕が残る。
真白い手元にはまだ、深海の塊が鎮座していた。
この石を見る度に、固く抱擁を交わしていたあの人たちを思い出すだろう。そうしてどこか、俺とこの変人とも結びつけてしまう気がする。
今はどうしても考えてしまう。あるかもしれないし、ないかもしれない未来とやらのことを。
だからこの石はもらわないし、持っていかない。
その代わり覗き色の石を見つけたら、そっと自分だけの宝物にしよう。
だけど例えこの瞳の色と同じ石を見つけたとしてもきっと、このひとには言うまい。
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