「紺」
「あ、緋色」
振り向けばそこには学校仕様じゃない、僕の幼馴染みの緋色がいた。
顔には表情がなくて一見冷たい印象を与えるかも知れないが、その眼差しには確かに昨日僕の部屋を照らしていった灯がある。
心配…してくれているのだ。
「無理して登校しなくてよかったのに」
「無理は…してないよ。多分、もう、だいじょう、っいて!」
軽いデコピンをお見舞いされて思わず情けない声を上げてしまったが、ほとんどの人が教室移動を終えた廊下では他に聞いている人もいないだろう。
そう願うが、目の前の幼馴染みは呆れ顔で僕の顔を覗き込んできて、どうにも逃がしてくれそうにない。
彼はこれ見よがしに盛大な溜め息を漏らして、細い指を遠慮がちに僕の頬に伸ばした。
ゆっくりとした動作で少しだけ、眼鏡をずらされる。
「はあ…。こんな目真っ赤にして、サボっちゃえばいいのに無駄にマジメなんだから」
「無駄ってなんだよ」
「………」
何か言えよ。
そう思うのに、伏せられた瞳に見惚れてしまって僕は言葉を紡げなかった。
今朝は緋色と一緒に登校して来なかった。ただ教室に来るといつも通りの人だかりと、その中心に「北村緋色」が居て、僕はその光景を何だか安心したような気持ちで見つめていた。
声を掛けられたのは移動教室の途中。人に囲まれていた筈の緋色がいつの間にか抜け出してひょいと僕を人気の無い廊下の角に連れ込んだのだ。
授業の合間の休憩時間は短い。
教室はそう遠くないけれど、気を抜けばあっという間に予鈴が鳴ってしまうだろう。
昨日あれだけ恥ずかしい姿を晒したというのに緋色はいつもの調子で、表情も少なく僕の心配をしてくれている。
痛いくらいに優しい声音に、雲間から射すような柔らかい陽の瞳。
昨日僕に起こった出来事を彼はどれくらい知っているんだろうと、気になって仕方がない。だけどこの様子からしても何かがあった事は、いやきっと、もしかしたら誰と何があったのかまで把握しているかも知れない。
何故、という問いは無意味だろうか。
たまたま通りがかったのか。
それとも先輩から直接聞いたのか。
或いは他に、何か…。
「紺。やっぱりいつもよりぼうっとしてる」
「緋色、僕は、だいじょうぶだから」
「紺の『大丈夫』は信用ならない」
「うっ…。でもホントに、」
言わせないという意思表示なのかな。ふいと細長い人差し指が下りてきて、僕の唇に触れた。自然に言葉の続きが紡げなくなってしまう。
抗議の意を込めて見上げると、何故だか緋色の方が不機嫌そうな顔をしていた。あからさまに眉を顰めて、むっと唇を引き結んでいる。
何も言えないでいるうちに両頬に大きな冷たい手の平が下りてきて、そうっと僕の顔を包み込んでしまった。そしてやはり親指の腹で、眼鏡の下の涙袋を撫でる。
擽ったさに閉じそうになる瞼をきっと開いて目線を上げ直すと、やっぱりどこか不機嫌そうな顔。
…他にも何か言いたいことがあるんだろうか。
そう思って見つめ続けているとやっぱり。引き結ばれていた薄い唇が開いた。
「今日、昼休み」
「うん?」
「また、あいつと食べるの」
「あいつって…。うん、そうみたい」
「…そう」
「緋色?」
「時間だ。行こうか」
「うん」
「…あのさ、紺」
「なぁに」
「いや…なんでもない」
「緋色?なんでもないって」
なんでもないって、そんな顔じゃないだろ。
そう言って引き止める前に予鈴が僕らの邪魔をしてしまった。
どこか不機嫌なままの緋色はさっさと背を向けて去ってしまったけれど。
変だなぁ。あいつに触れられたからだろうか。不思議とどこか、身体が軽い。
あいつは実は回復が得意な魔法使いなんだよって言われても簡単に信じてしまいそうだ。
僕もそんな風になれればいいのに。
緋色が辛い時にこんな風に癒してやれる、魔法使いにでもなれればいいのに。
prev / next