「あっ、茅ヶ崎。もう大丈夫なのか?」
「え?えと、」
いくら泣き腫らした目が酷いからといって、学校を休むほどの理由にはならない。
それにどうせ長く伸びた前髪と分厚いガラスのバリアーで、僕の目の異変に気付く人などいないだろう。そう、思っていたのだが。
「悪い。昨日お前が何か焦って帰っていくのが見えたからその、心配で」
「え」
どこかバツが悪そうに、けれど心底心配そうに僕に声を掛けてくれた人物はいつも通りとても優しい。
心なしか大きな身体がしゅんと縮こまって見える理由はよく分からないのだけど、昨日の怒涛の放課後を一気に思い出してまさか、と思い至った。
そう言えば昨日誰かにぶつかったと思ったんだけどアレってもしかして…。桃谷くんだったのかな?
あまりに夢中で走っていたから他の人のことなんて気にかける余裕も無かったけど…あの姿も見られていたんだろうか。
だとしたらぶつかった上に心配までかけてしまって、すごく申し訳ない気持ちだ。
…昨日起こった出来事についても、彼には一応話しておくべきだろうか。
しかし僕が謝ろうと口を開くのに被せるように、桃谷くんが先に口を開いた。
「元気なら、いいんだ」
「だいじょうぶ、だよ。色々とゴメンね。それから…ありがとう」
僕が薄く微笑むと、彼も柔らかい笑みで返してくれた。昨日何があったのか。何故僕は取り乱していたのか。詳細なことを訊かれるかと思ったけれどそういう気配は一切無かった。
彼は本当に、ただ単純に、僕のことを心配してくれていたらしい。それが何だかむず痒くてつい、いつもの如く視線を逸らしそうになるけれど、お礼の気持ちも込めて真っ直ぐに彼の黒い瞳を見つめ返した。
緋色と話す時は何でもないのに、目を見て話すというのは結構勇気が要ることなんだなぁと今更ながら実感してしまう。
僕が目を逸らさない様子を見て桃谷くんはぱちりと一度瞬きをした後、また凛々しい眉を下げて微笑った。どこかほっとしているような笑みだ。
「何だか以前よりしっかり目を見て話してくれるようになったな」
「まぁ桃谷くんにはもう知られちゃってるし、それに、練習しなきゃと…思って」
「練習?」
「うん。その、今まで俯いてばかりいたから、もうちょっときちんと人と話せるように…なれたらと…」
「いいんじゃないか?俺で良ければいくらでも練習台になろう」
「ホントに?ありがとう!」
今まで目を見られるのが怖くて、とても怖くて、見られる前に自分から逸らしてしまう癖がついてしまっていた。
だけどこのままではいられない。ずっと鏡から目を逸らし続ける訳にはいかないのだ。
この色を綺麗だと言ってくれた、緋色のためにも。そしてもちろん、僕自身のためにも。
簡単にはいかないだろうことは重々承知しているつもりだ。正直、立花先輩にもまだどう向き合えばいいのか分からないでいる。
昨日の今日であの人と面と向かって話し合える気はしない。
恐ろしいと感じてしまったあの感覚はまだ消えてはいないし、その恐怖心が先輩に対してなのか、それともなりふり構わず彼を突き飛ばして逃げ去った僕自身に対してなのかもまだよく分からないままだ。
ただ、先輩にも知られてしまった以上はこのままにしておく訳にもいかない。
言い触らされるなんて思ってもいないし、それが怖いという訳でもない。だけど昨日の出来事を知った緋色はどういう反応をするのだろうとか、いや、もしかしたら既に何かしらの行動を起こしてしまっているんじゃないかとか。様々な心配事が宙を舞う。
これは僕と、先輩の問題でもあるのだ。緋色が傷つくような事態だけは避けたかった。
珍しく声を荒らげた幼馴染みを思い出す。僕の部屋に訪れた彼は、きっともう昨日の出来事について知っていることだろう。
だからこそああして僕の元へ来てくれたんだと思う。
立花先輩の行動に全く非が無かったとは決して言えないが、それでもいずれは向き合う必要があるだろう。
そうしてそれは、まぁ本音を言えば嫌だけれど、出来るだけ早い方がいいのだろう。
先輩があそこまでして僕に構う理由と、先輩と緋色との関係も。はっきりさせなきゃいけないことがたくさんある。
「…あ」
「どうした?」
ぐるぐると考え事をする僕を覗く凛々しい顔を見て、とても重要なことを忘れてしまっていたことに気がついた。
寧ろ本人を目の前にして、何故今まで忘れていられたのか。
「あ、や、えぇと…」
「ん?」
心配そうに見つめる瞳は、その中にやけに優しい色を携えている。僕はそれが彼の性格ゆえなのだと思っていた。強く優しく凛々しく。空手部の主将であるという彼にぴったりの表現だ。
だけどこの色に含まれているのはそれだけでは、ない。自惚れでも妄想でもなくて、この優しさは彼の好意の表れなのだと思う。
僕は確かに、そう、桃谷くんに告白された。
はっきりと、僕に「恋愛感情を抱いている」と。
正直色んな事があり過ぎて忘れてしまっていたことが非常に申し訳ないが、彼は僕のことをそういう意味で好きなのだと言った。
誠実な彼のことだ。あの言葉が嘘だとは到底思えない。いくら自尊感情が低いと自覚している僕でも、この人が向けてくれる真っ直ぐな気持ちまでもを踏みにじっていい訳がないんだ。
正直なところまだ信じられない、何で僕なんだという思いが無いと言えば嘘になるけれど…。
それでも、気のせいだとかきっと聞き間違えたんだとか、人違いだとか。あそこまで真っ直ぐに言い切られてしまうとそんな言い訳もあっさり意味を失って、もう逃げ場が無いようにすら思えた。
向き合わなきゃいけない。この人とも。
意識してしまうと途端に恥ずかしくなってふいと顔を背けてしまったが、変に思われなかっただろうか。
大体そんな大事なことを忘れるだなんて失礼にもほどがあるが、桃谷くんは特に気にする風でもなくただふわりと微笑うだけだった。
昨日の出来事も、僕の気持ちも無理に詮索しようとしない。その距離感を、正直今はありがたく思う。
だけど律儀なこの人のことだ。もしかしたらあの日の出来事にまだ罪悪感を抱いているからこその距離感なのかも知れない。そしてそんな桃谷くんの芯から伝わる優しさに甘えてしまいそうになる自分がいた。
いけない、しっかりしなくちゃ。
僕はそんな自分を叱咤して、色々なことを整理しようと試みる。
きちんと向き合わなければいけないこと。考えなければいけないこと。遅かれ早かれ答えを出さなければいけないことがたくさん、それはもうたくさんあるように思う。
だけど僕はかの幼馴染みのように器用ではないので、ひとつずつ、少しずつ考えてみようと思う。とりあえずは、そうしよう。
「茅ヶ崎?本当に大丈夫か?」
「あ!あぁ、うん、全然、本当に、だいじょうぶ。だから、えと…また」
「あぁ、また昼休みな」
おっとぉ…。お昼ご飯を一緒に食べるのももう確定事項らしい。
「何も求めてはいない」と言われた気がするけれど、桃谷くんは本当に何も求めていないんだろうか。僕は一体、どうしたらいいんだろう。
あぁ、やっぱり考えるべきことが多過ぎる…気がする。
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